仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 3

 一緒に仙田のところへ行くかとか言っていたくせに、秋野は哲を押し倒して好き放題し、疲れた顔もせず一人で出ていった。
 勿論殴る蹴るの暴行を加えて抵抗したが、そんなものは屁とも思っていないクソ虎は、哲が振るった暴力の分濃厚な愛撫を返して寄越した。勝手に乗っかられて頭に来たから怒鳴りまくって朝からすっかり消耗し、そのままぶっ倒れるように突入した二度寝から目覚めて腹を立てたままシャワーを浴び終え、煙草を立て続けに二本灰にして、哲はようやく平常心を取り戻した。
「いい加減にしろっつーの、エロジジイが、まったく」
 それでもまだ独りぶつくさ言いながら洗濯機を回し、トイレと風呂を掃除して洗濯物を干し、古新聞をまとめて外に出た。相変わらず美味くない蕎麦屋で盛り蕎麦を食い、勘定を終えて外に出たら着信があった。秋野だったら無視してやろうと思ったが、表示されている番号は仕入屋のものではなかった。
「何だよ」
「なんでそんな不愛想なの、いつも!」
 聞こえてきた声はやたらと若々しく喧しい。実際若いのだから若々しくなくても困るのだが。
「お前学校は」
「何言ってんの? 日曜だぜ、今日」
「あ? ああ、そうか」
 朝から図々しい野郎に一発やられて頭が馬鹿になってんだ、とはさすがに言えず、哲は適当に言葉を濁した。
「そんで何の用だ、日曜に」
「用がなきゃ電話しちゃダメなわけ?」
「用があるから電話すんだろうが?」
 電話の向こうで浩太が何やら言っている。煙草を取り出し、火を点けながら面倒くせえなあ、と胸の内で呟いたが、高校生一人の面倒くささくらいあいつに比べりゃ高が知れているかと諦めて電話を耳に当て直した。
「ああ、悪ぃ。聞いてなかった」
「佐崎さぁん!」
「今聞いてんだからいいじゃねえか」
「もう……。さっきコウおじさんのところに寄ったら葛木さんと会ってさあ」
 浩太は以前、友達と親の車を乗り回しているうちにインロックしてしまい、現場がたまたま哲の部屋の真下だったから家まで送ってやった高校生だ。世間は狭くて、仙田の相方——と呼んだら怒りそうだが——の葛木という男が勤めている調査事務所の経営者が彼の両親と知り合いだったらしく、葛木を通して改めて礼を言ってきた。
 哲の何がそんなに気に入ったのか、それ以来何かと連絡を寄越し、懐いてくる。そうはいっても高校生と居酒屋のバイトだから生活時間帯がそもそも違い、そうそう会うことはないのだが。
「葛木さんから、展覧会のチケットもらったんだよね。絵と写真の」
「はあ」
「佐崎さん一緒に行かない?」
「行かねえ」
「少しは考えようよ!!」
 浩太が悲しそうな声を上げる。
「だってよお前、俺が絵とかなんとか見て感動するとでも? すげえなあと思うとでも? 思わねえよ、上手下手がまったく分かんねえんだからそもそも」
「いや、佐崎さんが楽しいかどうかは別として!」
 別なのか、と思ったが、そこは敢えて突っ込まないことにする。
「俺は好きなの! 絵が!」
「……ああ、そうなのか」
 哲の反応からようやく話を聞いてもらえると思ったのか、浩太は少し落ち着いた声になった。
「美大はちょっと無理かなあって思うけど、専門学校ならと思ってんだよね。あ、まあ、それはいいんだけどさ、その展覧会って夜しかやってなくて、俺高校生じゃん? だから入るのに保護者が一緒じゃないと駄目なんだけどさ、なんかコウおじさんとかオヤと行くのも微妙だし。佐崎さんが駄目なら葛木さんに聞いてみる」
 高校生男子なら親と出かけたくないというのも当然だろう。大体、友達とつるんでいるときに親に声をかけられるのだって馬鹿みたいに恥ずかしい年頃だ。
「いつだよ」
 開催期間を訊ねてみたらちょうどバイトが休みの日もあった。別に進んで行きたいわけではないが、絶対嫌だというほどのこともない。わかったよ、と言ってやると浩太は大袈裟なくらい喜んで、当日にでも連絡するねと弾んだ声を出して電話を切った。溜息を吐いて煙草をアスファルトで押し潰し、携帯灰皿に放り込む。また携帯が振動したが、今度は秋野からだった。哲は一瞬も躊躇わずに応答を拒否し、うるせえんだよくそったれ虎野郎が、と独りごちた。

「錠前屋さんに振られたの?」
 携帯をポケットに突っ込んでいたら後ろから声をかけられた。煙草を銜えた仙田が立っていたから、少し驚く。秋野は仙田の姉が出て行ってすぐ席を立ったが、仙田はもう少し落ち着くまであそこにいるのだろうと思っていたからだ。
「いつものことだ」
「そっか」
 仙田は少し笑って、長い前髪をかき上げた。
「ごめんねー、なんか巻き込んじゃって」
「俺は案内しただけだし、別に気にすることはないだろ」
「そうだけど、他人の家のこんな事情なんて別に知りたくないじゃない?」
「まあ、進んで知ろうとは思わないけどな。話したいなら聞くぞ」
「んーと、でも、お天気のいい日曜の真っ昼間に、ファミレス前の道端で喫煙者のみなさんと並んで煙草吸いながら、素面で話すことじゃないよね?」
「好きにしろよ。どっちにしても、そのフリ続けたまま話せることじゃないだろうけど」
「何が?」
「言ってほしいのか?」
 仙田は逡巡する様子を見せたが、小さく息を吐いた。
「言われたくないし、とっくにバレてんだろうけど、化けの皮剥がされんのも嫌だから止めときまーす。まあ正直、今から三分以上かぶり続けられる自信ないんだよね、姉ちゃんに素手で引き千切られちゃった感じだし」
「ついこの間までは騙されてたけどな」
 わけのわからない物言いや行動が仙田本来のものではないと気が付いたのは少し前だ。勿論秋野や哲の前で大袈裟に騒ぐのはわざとだと思っていたが、程度の問題でしかないと思っていた。仙田にそこまで興味がなかったせいもある。だが、ある時を境に、仙田のふざけた物言いの向こうに、まともさが覗くようになった。突然そうなるわけがないから、今まで問題なく被り続けていた訳の分からない男、という外向きの顔に、何かのきっかけで亀裂が入ったのだろう。
「結構自分の一部になってたんだけどねー。もう区別できないくらい一体化しちゃったと思ってたんだけど。そうそう思い通りにはいかないね、人生ってさあ」
 頬を歪めて皮肉に笑うと、仙田は「ありがとね、またね」と言って踵を返し、歩き去った。
 秋野はファミレスの壁に凭れて煙草に火を点けた。ファミレス店内は禁煙だが、店の外には灰皿がある。秋野の他にも喫煙者らしき人間が数名、お互いに安全な距離を取って煙を吐き出している。
 何を考えているか分からない顔で突っ立っている白髪の男、手の中のスマホにものすごい速さで何かを打ち込んでいる若い主婦らしき女、電話で誰かと何か言い争っている中堅どころと思しき会社員。誰もが人に見せたい自分を纏って生きているが、それが普通だ。秋野自身そうだし、何もかも剥き出しと言っていい哲でさえ、相手が違えば見せる部分を考えはするだろう。それでも、仙田のように違う人格と呼んでもいいものを一枚貼り付けている人間はそう多くない。
 それが楽しいからそうしている奴もいるかもしれない。だが、仙田は多分違うだろう。何の時か忘れたが、仙田が、自分自身が嫌いなのだと漏らしたことがある。あの時の仙田の顔を思い出し、今日の話を反芻して、仙田はそれが楽しいわけではないのだと思った。もしかしたら、何かと向き合わず今の仙田でいるのは楽なのかもしれない。だが、本人が言うほどその状態が好きなわけでもないのだろう。
 いずれにしても自分には関係ないが。
 秋野は煙草を銜えたまま携帯を取り出して再度哲を呼び出した。一頻り鳴らしたらようやく噛みつくような低い声が応答した。
「んだよ、うるせえなあ」
「さっさと出ろよ」
 そう言ったら通話が切れた。まったく、と呟きながらもう一度かけ直す。さっきより一回多い回数で繋がった。
「仕事の話なんだから切るな」
 先に言ったらようやく思い出したのか、ああ、と不満げな声が返ってきた。
「後で時間の連絡入れるって言ったろう」
「どっかの馬鹿が寝起きに乗っかってきやがったから忘れたんだよ」
「お前だって俺の寝起きに乗っかってきたことあるよな? 確か先週じゃなかったか?」
 野良犬の威嚇音みたいなものが聞こえてきたが、無視して続ける。
「まあ、俺はいつでも歓迎だから別にいいけどな。時間と場所を言うから覚えろよ」
 依頼人との待ち合わせ場所や錠前の種類を一通り告げる。最後まで聞いてからすべてを復唱し、哲は分かった、と愛想のない返事を寄越した。
「終わったら寄れよ」
「嫌だね」
 素っ気なく通話が切れる。まったく、とまたしても呟きながら思わず笑い、秋野は携帯をポケットに突っ込んで歩き出した。