仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 2

「仙田仙田仙田!」
「三回も呼ばなくても聞こえてるよー」
 仙田はチェーンを外し、鍵を開けてドアを開いた。
 別に防犯に神経質なわけではない。仕入屋から頼まれた偽造書類を昨夜のうちに作り終え、インクを乾かすために床に広げてあったからだ。偽札のように誰が目にしてもすぐに犯罪と分かるものではないが、他人の目に触れるのは避けたいところである。しかし相手が葛木ならば、見られたところで問題はなかった。
「お仕事干してあるから踏まないでね」
「仕事を干す? 日本語変だぞ、お前」
 葛木は眉を寄せながらするりと玄関に入ってきて、靴を脱いだ。ドアの向こうに目を向け、紙で覆われた床に声を上げる。
「うわ、紙だらけじゃん!」
「だから言ったでしょ、仕事干して……あっ、足元! 踏んだら蹴るよっ!」
「踏んだら蹴るって、紙を?」
「違います! 葛木を!」
 葛木は仙田を睨みながらも紙を迂回し、台所との境目に腰を下ろした。仙田の部屋は決して広くはない。居間と台所に特別な仕切りがない、よくある間取りのアパートだ。
「髪伸びたね」
 仙田も葛木の通った道筋を辿って部屋に戻った。シンクに凭れて葛木の頭のてっぺんに声をかける。
 以前は短く切って立たせていた葛木の髪は大分伸び、もう短髪とは呼べないくらいだ。今は緩いパーマがかかっている。色は以前と同じアッシュ系のブラウンだが、ハイライトとローライトが効果的に入っているせいで、まるで外国人の癖毛のように見えた。この髪型は知り合いの店に葛木を連行し勝手にリクエストしたもので、葛木の趣味ではない。葛木の好きにさせたら、運動部の学生か、ハリウッド映画で見る米軍兵士みたいになってしまう。
「鬱陶しいから切りたい」
「駄目」
「何でお前の許可がいるんだよ」
 むっとした顔で睨まれたが、迫力はない。葛木は仙田より三つほど年上だが、出会ってから今まで、年齢相応に見えた試しがなかった。
「別に許可制じゃないけど、マツさんにもそのほうがいいって言われたんでしょ?」
「……」
 仙田がそう言うと葛木はうっと言葉に詰まり、口を噤んだ。
 葛木は仕入屋の紹介で、退職した元警察官の探偵事務所で働いている。事務所の主、松戸孝太郎は元々少年課の刑事だった男で、優しげなおじさん、という風情の探偵だ。事務所に入る依頼も失踪人捜索や浮気調査が多く、当然話を聞く相手は一般市民になる。葛木の短髪は別に威嚇的ではないものの、少なくとも今のやわらかい雰囲気のほうが他人に警戒心を与えない、というのがマツさんの弁。
「それに、絶対今の方がかわいいから!」
「お前にかわいいとか言われたくないっ!」
 ムキになって言い返す葛木に、そういうところがかわいいよねえ、と更に怒らせるようなことを言っておいて、仙田は冷蔵庫に向き直った。
「何か飲むー? お茶?」
「何でも……」
「何でもとか言ったら勤務中でもビール出すよ、ビール。あれ? ていうかさあ、こんな時間に珍しいね」
「あっ、そうだった! お前がわけわかんねえから目的を見失うとこだったろ、まったくもう! 飲み物はいらねえよ、すぐ行くから!」
 ぶつぶつ言いながら葛木は持っていたバッグの中を探り、茶封筒を差し出した。
「これ」
「何?」
 受け取って封筒を開けると、薄っぺらいパンフレットと誰かの名刺が入っていた。近々開かれる小さな展覧会のものらしい。パンフレットに印刷されている数名の名前に有名なものはなく、何が展示されるのかもよくわからない。
「何? これ? 一緒に行こうってお誘い?」
「馬鹿、違うっ!」
 葛木は手足をバタバタさせそうな風情で言い返す。どう見えようと実際は三十路の男なので、さすがにそんなことはしなかったが。
「それさあ、なんか俺は全っ然分かんねえんだけど、若手の写真家と画家が集まってやるんだってさ。あれ? 写真家と彫刻家? 彫刻家と画家だっけ?」
「いい加減だねえ」
「そこはいいんだって! でさ、一人、今になって出展しないって言い出したやつがいて、すげえ困ってるんだって。お前、なんか出さない? その名刺の奴、主催者だけど、俺の後輩なんだ」
 葛木にじっと見つめられ、顔が強張るのが分かった。
 美大を中退したのは、知り合って間もない頃に葛木に話していた。絵が好きだったくらいは言った気がするが、実際に何をしていたかを話したことはないし、葛木から訊ねられたこともない。隠していたわけではないが、積極的に知らせる気はまったくなかった。
「……なんで」
 葛木は立ち上がり、答えずに玄関に向かった。三和土でスニーカーに足を突っ込む。
「仕事中だから行くな。早い方がいいと思って言いに寄っただけだからさ」
「うん」
「仕事終わったら寄るから考えとけよな」
 それだけ言って葛木はさっさといなくなり、床に散らばる紙の中に仙田は一人取り残された。手が滑り、葛木に渡されたパンフレットが偽造書類の上にはらりと落ちる。
 何でそんなこと。
 床にへたり込みかけ、慌てて書類を避けて場所を作った。胡坐を掻いて座り込み、仙田は額に手を当て溜息を吐いた。
 葛木に刺青を見せて少ししてから、数年ぶりに絵を描き始めた。明確な理由はなくて、何となく気分が変わったから。それだけだ。
 大学での専攻は油彩だったが、臭いがきついから狭いアパートで描くのは辛いし、それ以前に昔と同じ方法で同じような絵を描く気にはなれなくて、水彩に切り替えた。何か目的があったわけではないし、誰かに見せようと思ったこともない。葛木が来るときには画材から何からしまい込んだつもりだったが、躍起になって隠そうとしていたわけでもないから、もしかしたら一部を片付け忘れたことがあったかもしれない。
 それだけのことだ。ただ、仙田自身が、葛木に知られたくなかっただけだ。どうしてかなんて分からないから考えたこともない。
 目を開けたら書類の山が目に入って、仕方なく立ち上がる。仕入屋との約束の時間までもうすぐだ。とりあえず、目の前のものを片付けようと、仙田はとっくに乾いた偽造書類に手を伸ばした。

 

「仙田」
 呼び出されたファミレスのボックス席でスマホをいじっていたら、頭の上から声が降って来た。待ち合わせの相手、仕入屋の声なのは姿を見ずとも分かる。仕入屋は本当にいい声だ。
 人の気配が二人分。だから、いつものように錠前屋を連れているのだと思って疑わなかった。
「お届け物だ」
 顔を上げたら、そこには仕入屋と、険しい表情の女がいた。
「げ……」
「げ、とは何よ!」
 パーン、といい音を立て、女の掌が仙田の頭をひっぱたいた。
「痛いって!」
「当たり前でしょうが!」
 凄い剣幕の彼女を見ても、さすがに仕入屋は動じず面白がるような笑みを浮かべている。
「ちょっと! 何で連れてきちゃうわけっ!」
 仙田が噛み付いたところで動揺するはずもない仕入屋は、案の定うっすらと笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「個人情報を漏洩するほうがよかったか? 部屋に連れて行ってほしいと依頼されたのをなんとかここで納得してもらったんだ。そんな恨みがましい顔するんじゃないよ」
「大体、何で仕入屋さんのこと知ってんの! 姉ちゃん!」
「知らないわよ、こんな人! 探して探して大変だったんだから! なんかあんた変な髪型になってるしピアスとかしてるし、お陰で用意した写真も役に立たなくて一体どれだけ面倒かけたと思ってるわけ!?」
 音量は抑えていたが、怒鳴りつけられているのと気分は変わらない。
「仙田、頼んでたものは?」
「ええっ! 何まさかそれ受け取って帰ろうっていうの!?」
「そりゃそうだろう」
「何言ってんの!? 帰らせるわけないでしょ!! ここ座ってここ!」
 にやにやしている仕入屋を睨み、仙田は仕入屋が腰を下ろせるように窓側につめた。
「いたって何の役にも立たんと思うぞ。それにあれを待たせてるし」
「立つ立つ立ちます! 俺だけじゃこの人から俺を守れませんから! いいじゃんササキさんなんか待たせとけば!? どうせ待ってないじゃん常に渋々じゃん!」
「俺の繊細な心が傷つくようなことを言うなよ」
 そう言いつつ、仕入屋は仙田の隣に腰を下ろした。自分でそこに座れと言っておきながら、隣に並ぶことなど滅多にない仕入屋の横顔に一瞬気を取られる。
「次暢」
 姉がその隙を容赦なく衝き、仙田は思わず首を竦めた。名前で呼ばれたことで、貼り付けていた覆いがあっさりと剥がれ落ちる。
「……なんだよ」
「いい加減にしてよ。私、忙しいんだから。知ってるでしょう」
 確かに彼女は忙しい。お堅い大手企業の営業部長、次期取締役との呼び声も高い、らしい。
 高価な服を下品に見せず、かつ間違っても野暮ったく見せないセンス。自分の見せ方は知っているが、そこに商品価値以上のものは見ていない。抜群のスタイルと人目を引く容貌を持ってはいるが、自分自身というものへの執着が人より薄い。そういえば、彼女にはどこか目の前の仕入屋を思わせるところがある。
「知ってる。仕事、順調なのかよ」
「当たり前でしょ。私を誰だと思ってんのよ」
「……池尻瑞穂様」
 ふん、と鼻で笑い、瑞穂は仙田に厳しい目を向けた。
「あんたは相変わらず自虐的ね」
「そんなんじゃない」
「そんなんでしょうよ。前より多少はまともな顔してるけど」
「変わってねえよ、俺は別に」
 瑞穂は男のように腕を組んで仙田を眺め回し、音高く舌打ちした。見た目とそぐわない男のような仕草に、隣のテーブルから瑞穂にちらちらと視線を寄越していた会社員が目を剥いている。
「それにしてもその格好、何よ? 一体いつの時代のパンクロッカー崩れなんだか、そんなの趣味じゃないくせに。まあ、囲みアイメイクしてないだけマシだと思うことにするけど。お父さん、癌で胃の全摘したのよ」
 その場の空気が固まって、さしもの仕入屋の顔からも笑みが消えた。
「……姉ちゃん、それ、こんなとこで言うことか?」
「ここで言わなきゃあんた逃げ出すでしょうが。結論言うと、とりあえず今のとこ転移は見つかってないって。勿論絶対大丈夫だとは誰も言い切れないし、何年も経たないと結果は分からない。さすがにあのお父さんでも断言できないわね。なんか骸骨みたいになっちゃったけど、それはこれから何年もかけて元に戻すってことで、本人もそれほど気落ちしてないわ。でも今まで通り激務をこなすっていうのは無理だから、結局、早期退職に乗っかった」
「……それ、いつの話だよ」
「馬鹿、ついこの間に決まってるでしょうが」
 吐き捨て、瑞穂は突然立ち上がった。洒落たバッグからシンプルな名刺入れを掴み出し、テーブルの上に名刺を放り投げる。
「内線番号変わってるから名刺置いてくわ」
「……」
「何で、今、強引に探したと思ってんのよ? それから、信じられないかもしれないけど、あんたに会いたがってるから。都合つけて連絡寄越しなさいよね。今日はありがとうございました」
 後半は仕入屋に向けて告げ、瑞穂はゆっくり立ち去った。遠ざかっていくヒールの音が消えるまで、仙田はぼんやり手元を見つめていた。