仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 1 

 中華料理屋のような定食屋は今日もいつも通り混雑していて、店内は白っぽく霞んで見えた。副流煙、受動喫煙という単語はここではどんな意味も持たない。喫煙者でない人間は入る気にもならないだろうし、知らずに入店したとしても、燻し出されるに違いない。
 哲は箸先でブロッコリーを摘み、秋野を見た。
 食事は済ませてきたという秋野は、ザーサイをつまみにビールを飲んでいた。秋野が吐き出した煙が、既に店の中に充満しているそれを掻き分けるようにして立ち上る。こいつのものはその呼気でさえも偉そうだと思いながら、哲は僅かに細められた薄茶の眼を見返した。
「それで?」
「それで、お前の都合さえよければ、明日にでも頼む」
「俺は明日なら何時でもいい」
 ニンニクの味がするイカを噛みながら答える。
「ニンニク臭いかも知んねえけど」
 明日は日曜、バイトは休みだ。普段はあまり食べないブロッコリーとイカの炒め物——かなりニンニク臭い——を食っているのも土曜の勤務明けだからである。大半は厨房に引っ込んでいるとは言っても一応接客業だから、哲でも最低限の気くらい遣うのだ。
 秋野は少し笑って煙草の灰を払った。
「じゃあ、夕方以降で。詳しい時間は連絡する。別に誰かの胸にぶら下がった錠前開けようってわけじゃないんだから構わないだろ。寝る前には念入りに歯を磨けよ」
「うるせえ、余計なお世話だ」
 哲はテーブルの下で秋野の脛を蹴っ飛ばした。強く蹴り返された衝撃で、飲み込んだイカが喉にひっかかる。咳き込みながら水を飲み、顔を上げたらこちらに向かって歩いて来る女が目に入った。
 ふるいつきたくなるような美人、というのはよく使う表現だが、実際にそういう女に会うことは滅多にない。だが、どうやら実在するらしい。ブロッコリーを噛み締めながら、哲は妙に感心した。
 曲線美というのはこういうことを言うのだろう。女はすらりと細いが、胸は大きく、腰は砂時計のようにくびれている。髪は染めていない自前の黒、背中の半ばまであるロング。絶妙な巻き具合で、動くたびに毛先が揺れる。店内の男の視線が一斉に女に向けられ、煙すら女を避けるように渦巻いた。ただ一人、女が見つめる男だけは、明後日の方向——この場合哲の方向——を向いていたが。
「おい」
「ん?」
 秋野は自分に向けられている視線を意に介す風もなく、煙草を吸いつけ煙を吐いた。
「お前に用なんじゃねえの」
 女がテーブルの横に立つ。哲には爪楊枝並みに細く見えるヒールのロイヤルブルーのパンプスを履いている。その殺人的な高さを差し引いても背が高い。煙と油の匂いが充満する店には不釣り合いな、上等そうなブラウスはシルバーがかった淡いラベンダー。ゆったりしたシルエットから華奢な手首が覗いている。合わせた薄いグレーのウールのワイドパンツのせいで、ウェストがさらに細く見える。小脇に抱えた薄っぺらなシルバーグレイのバッグも高価そうだ。ちらちらとこちらに向けられる他人の視線など存在しないかのように、女は秋野をひたと見据えた。
「この間連絡した池尻です。電話番号、教えてくれればよかったのに」
「知ってるでしょう、連絡先は」
 秋野は手元に視線を落したまま言い、灰皿で穂先を丁寧に払った後、ゆっくりと身体を動かし女を見上げた。
 水商売やチンピラ、肉体労働者、残業後のサラリーマン。一様に疲れ果てた顔の客たちの中にあって、秋野と女はまるで恋愛映画のワンシーンのように目立っていた。誰もがこちらを窺い、聞き耳を立てている。カウンターの中の店主までが、洗い終わった中華鍋を置きおもむろに煙草を銜えた。
「教えてもらった連絡先は、あなたの番号じゃないでしょう。居場所探すのに苦労したのよ」
「それはどうも、失礼しました」
 片笑みを浮かべて呟き、脚を組む。悠然とした秋野の態度に苛立ったのか、女は形のいい胸の下で腕を組み、重心を左足に移して眉を寄せた。
「噂通り嫌な人ね」
「噂になるくらいよく言われます」
 哲は白米を口に運び、セットの中華スープを啜った。出来ることなら料理ごと他の卓へ移動したいが、生憎周りに空席はない。組んだ腕によって押し上げられ強調された女の胸から渋々目を逸らし、できるだけ息を潜めて関わり合いにならないように小さくなる。透明人間になりたい、と結構本気で願いながら、殊更ゆっくり箸と口を動かすように努力した。
「ねえ、あなた個人がどういう人かはどうでもいいし、人探しはしないっていう言い訳も聞きたくないわ」
 言いながら、女は周囲を見回した。ゆっくりと辺りを睨みつける目付きはなかなか凄い。客が慌てて目を逸らし、店主は小さく肩を竦めて煙草の灰をシンクに払った。
「うちの馬鹿な弟はどこ? 早く教えて」
 断固とした女の台詞に、秋野は溜息と煙を一緒に吐き出し、煙草を灰皿に押し付けた。

 

「……仙田の! 姉ちゃん! あれがか!!」
 寝起きのぼんやりした頭に情報が到達するのには、それを耳にしてからおよそ十秒の時間を要した。
「あのすげえいい女が仙田の姉ちゃん? 似てねえだろ!」
「どっちかが父親似でどっちかが母親似なんだろ」
「あんな色っぽい父ちゃんは嫌だ。怖え」
「お前ね。まだ寝惚けてるだろ」
 秋野の大きな掌が哲の頭を叩く。哲は目の前を通り過ぎて行く秋野の脚に煙を吐きかけ、低く唸った。
 昨晩、秋野は女を連れて定食屋から出て行った。お陰で哲は心安らかに食事を終えることができ、食後の一服の頃には秋野と女のことはすっかりどうでもよくなっていた。コンビニに寄って煙草と台所用洗剤を買った後は真っ直ぐ家に帰り、風呂に入って牛乳を飲み——ニンニク臭にいいらしい——入念に歯を磨いてそのまま安眠を貪った。目を覚まして煙草を銜えたところで秋野が現れ、昨日の女は仙田の姉だと言ったのだ。
「仙田って親兄弟いたんだな」
「そりゃいるだろう」
「なんか、木の股から産まれたって聞いても意外じゃねえっていうか」
 秋野は声を上げて笑い、冷蔵庫から勝手に出したミネラルウォーターのボトルを開けた。
「確かにな。鳥が運んできたとか」
「そうそう。つーか、そう見せようとしてんのか。それはどうでもいいけど、それで、何でお前んとこに仙田の姉ちゃんが登場すんだ」
 鎖骨のあたりが痒い。掻き毟りながら煙を吐き出し、ペットボトルを傾ける秋野に視線を向ける。秋野はシンクに凭れ、哲を見てちょっと目を細めた。
「知り合いってわけじゃない。仙田は親とは音信不通らしいが、彼女には何年かに一遍は連絡を入れてるんだそうだ。この間連絡した時に、引っ越し話をしたとか言ってた」
 仙田が今住んでいる部屋は、秋野が手配したアパートの一室である。
「その時にちょっと俺の話も出たらしい。それで、連絡寄越した。仕事の依頼ってわけじゃないから耀司の方では知らない顔をしたらしいが」
「諦めなかったのか」
「そうみたいだな。弟に急ぎの話があるとかで。連絡先は教えてもらってないんだとさ」
「で? 居場所は教えたのかよ」
「いや」
 秋野は語尾を微かに伸ばし、薄らと微笑んだ。
「仙田に何の義理もないが、本人に無断で居所を教えたりしない。幾らお姉さんが美人でも」
「人妻だしな」
 秋野がおかしそうに片方の眉を引き上げた。
「どうして? 結婚指輪はしてなかっただろう」
「いけじり、って名乗ったろ、昨日。苗字が仙田じゃないってことは亭主持ちだろうが」
「イカに夢中だと思ってたらちゃんと聞いてたんだな」
「馬鹿にしやがって」
 哲が睨むと秋野の笑みが大きくなった。ペットボトルのキャップを閉め、冷蔵庫に戻す。秋野はまたシンクの前に戻り、煙草を銜えて火を点けた。
「馬鹿になんかしてないよ。それで、これから仙田のところに行くんだが」
「わざわざ?」
「まさか。それだけなら電話で済ます。頼んでたものがあって、近くに行くから取りに寄るって約束してたんだ。ついでだからその辺で会って、お姉さんと会わせてくる」
 煙草を揉み消したら欠伸が出た。目尻に滲んだ涙を拭い、哲はさっきとは反対側の鎖骨を掻いた。まだぼんやりしている頭を振り、秋野の深くて低い声が呼び戻した眠気を振り払う。目を上げると、いつの間にか目の前に秋野が立っていた。
「お前も行くか?」
「俺が? 何でよ。お前が昨日言ってた仕事は夕方以降つってたよな? 何時だよ」
「後で連絡入れるって。それまで暇だろ」
「ニンニク臭いから行かねえ」
「なんだその言い訳は。動け、若人」
 胡坐を掻いた脚を蹴っ飛ばされ、哲は喉の奥で低く唸った。
「面倒くせえ」
「まったく」
 もう一度秋野の足が哲の膝を軽く蹴ったと思ったら、次の瞬間、掬うように蹴っ飛ばされて、哲は仰向けになっていた。
「うお!?」
「ニンニク臭いかどうか確認してやる、ほら、息吐け」
 圧し掛かる秋野のにやけ面が目の前にあり、薄茶の目が午前中の陽光に黄色く煌めいた。
「退……」
 言い終わらないうちに唇を塞がれた。ねっとりと絡みつく舌の動きにくらくらする。いいだけ貪った後、秋野は喉の奥を鳴らして笑った。
「これだけ近づけば少しは臭うかな。でもまあ、俺以外はここまで近づかないだろう」
「余計なお世話だっつってんだ! ろくでもねえな」
 膝蹴りで腹の上の秋野を転がし、立ち上がった勢いで肩口を蹴りつける。だらしなく床に転がったままの秋野を跨ぎ越しながら、哲は勢いで吐き捨てた。
「まったく、どっかの人妻にでも世話やいてやがれ」
 言い終わる前にやばいと思ったが、もう遅い。足首を掴まれ物凄い力で引っ張られて思いっきり布団の上に転がった。足の裏に噛みつかれてひっ、と変な声が出る。慌てて足を蹴り出したがくそ忌々しい男前面を蹴飛ばすことはできずに掴まれた足を持ち上げられて引き摺られた。
 足首を離した秋野の左手が膝裏に移動して哲の足を持ち上げる。スウェットの上から膝を齧られ、哲は本気で「痛え!!」と喚いた。
「わざとか?」
 覗き込む秋野の瞳が金色に煌いて見える。瞬きすると、濃く長い睫毛が目の下に濃い影を落とした。
「ああ、違うのか」
 何も答えていないのに、秋野は哲の顔を見てそう言うと、脚を掴む指に力を入れた。柔らかい膝裏にものすごい力で親指が食い込んで、哲は思わず声を上げた。
「いっ……!! おい、痛えって! コラ離せ!!」
「嫌だね」
 言いながら、哲の脚を引き寄せ踵を舐め、土踏まずに歯を立てる。股間を別にすれば、哲のほとんど唯一と言っていい弱点が足の裏だ。世間では性感帯だとかいう話もあるが、哲に言わせればそんなのは嘘っぱちで、ここは急所に間違いない。とにかく、触られるだけで気持ちが悪くて冷や汗が出る。
「やめろってマジで! 秋野っ!!」
 まともに悪態も吐けなくてほとんど悲鳴に近い声で吐き出したら、秋野は哲の土踏まずをべろりと舐めてから顔を上げ、唇の端を歪めて笑った。
「つまらんことを言うからだ」
「だから別に深い意味はねえって! 人妻に手は出さねえのは知ってるし、悪かっ」
「しらばっくれるなよ、錠前屋。馬鹿だね」
 秋野は哲の脚を放り出すようにして離し、圧し掛かってくるとおかしそうに眼を細め、哲の口元で低く掠れた声で囁いた。
「まあ、お前が俺を怒らせたがるのはいつものことだしな。そのほうが興奮するか?」
「くそったれ!! 退けっつって……!!」
 怒声は呆気なく秋野の舌に絡め取られ、頭にきた哲は秋野の脇腹に渾身の力を込めて膝蹴りを叩き込んだ。