仕入屋錠前屋68 性(さが) 9

「本気出したか?」
「まあ、ほとんどな。言っておくが、殺さない前提でだ」
「ひけらかすなよ、くそ。むかつく」
 哲の悔しそうな声に思わず笑う。笑ったら蹴られた脇腹が痛み、秋野は低く毒づいた。哲が床の上にうつぶせに倒れたまま、ざまあみやがれ、と声を上げた。

 

 哲の蹴りには一切容赦がなかった。
 哲は本気になると、拳も出るには出るが、攻撃の主体が蹴りになる。空手を習ったことがあると言っていたからそのせいかもしれないし、キレて通り魔を襲った——というのもおかしな話だが——ときのように、拳を傷めるのが嫌なだけなのかもしれない。
 いずれにしても本気の上段回し蹴りの威力は、空恐ろしいほどだった。決して体が大きいわけではないのに、蹴りがやたらと鋭く重いのだ。普段は後ろ回し蹴りをよく見せるが、哲にとって、あれはどちらかといえばお遊びなのだと知れた。
「なあ、哲」
「ああ?」
「お前、空手かテコンドーか何かやりゃいいのに」
「防具がうぜえし」
「フルコンタクト空手は」
「道着がうぜえし」
 やる気のなさそうな声が床付近から聞こえてくる。
「道着か。着てみてくれ」
「てめえがうぜえ。スポーツになんか興味ねえよ」
 のっそりと起き上がった哲は、よろよろと中二階への階段を登って半分くらいで座り込み、仰向けになった。
「あー、あちこち痛えな」
「哲、それはそこに置いといていいのか」
 自分も階段に向かいかけたところで、カウンターの上に置かれたままの紙袋が目に入った。秋野が階下から聞くと、哲は仰向けのままひらひらと手を振った。
「ヨ……何だ? あー、ヨアニスっつったっけ? そいつのお詫びのなんたらだってよ。何入ってっか見てねえけど。生ものじゃなさそうだから後で開ける」
 ヨアニスが哲に詫びの品とは。中身はそれなりに気になったが、どうしても見たいというほどでもない。秋野は階段を昇り、哲の足元に立って見下ろした。
「お前、階段の真ん中で眠るのはやめろよ」
「もう動くの面倒くせえしなあ」
「朝起きたら首の折れたお前が落ちてたなんてご免だぞ」
「お前は泣いちゃうよな」
「身も世もなく泣いた後に、俺も後を追うよ、世を儚んで」
「嘘つけ、このろくでなしめ」
 秋野は哲の投げ出した脚の間の段にしゃがみ、アイアンの手摺を握って哲の上に屈み込んだ。
「ああ、まあな。とにかく上か下か、どっちかの階に移動しろ」
 哲の手が伸びて、秋野の胸倉を荒っぽく掴んだ。予想していなかった動きに秋野はあっさり引き寄せられて、首筋に噛みつかれた。
「こら」
 危ない、と言いかけた唇を塞がれる。激しく貪られて秋野は手摺を握りしめた。
 空いた手で哲のうなじを掴み、髪の中に手を滑らせる。頭蓋ごと掴んで頭を持ち上げ、思う存分味わった。繰り返し角度を変え、哲の喉から掠れた吐息が漏れるまで執拗に。
 まだ殴り合いの昂ぶりが落ち着いていないのだから、挑発されたら見境なく乗ってしまうというのに、哲はそれが分かっていないのか。どうせまた、逃げ出すのを何とか堪えているという顔をするだろうに。
「……何なんだ、まったく」
 唇を離して呟くと、哲は面倒くさそうに何がだよ、と言って秋野の首に手を伸ばした。うなじに爪の先が食い込んで、凝った筋肉と過敏になった神経に痛みが走る。
「なあ」
「何だ」
「上でも下でも、俺はどっちでもいいぜ」
 秋野を引き寄せ、哲は低い声で囁いた。

 

 秋野が刺されたあの件から数ヶ月経つ。あれから何度か哲を抱いたが、以前と以後では、間違いなく、何かが大きく違っていた。
 それは、秋野の側の問題ではない。今までと変わらない顔をしていても、時折覗く躊躇いが哲の側に確かにあった。あからさまに腰が引け、怯えたような態度を見せることはなくなったが、どこか上の空だったり、何か考え込んでいるような瞬間が頻繁に見えたりした。それが元々軽くない哲の口を更に重くし、例え薄くて低いものだとしても秋野との間に障壁のようなものができていたのだ。
 それなのに、秋野の下で地獄から響いてくるような唸り声を上げ、痛えとか死ねとか吐き散らしている今の哲からは、そんなものが一切合切消えていた。
「くっそ……! 少しは気を遣いやがれ!!」
 揺すり上げたら恐ろしい顔で睨まれた。手摺を握り締める哲の手の甲には筋が浮き、震えている。アイアンのそれが折れやしないかと、秋野は本気で心配になった。
「優しくしたら嫌がるだろうに」
「そういう意味じゃねえ!」
「大体、こんな場所でどうやって気を遣えっていうんだ。自分が落ちないか、まずそっちに気を遣いたいね、俺は」
 身体を傾け、哲の耳をべろりと舐める。耳朶を噛みながら突き上げたら、哲はより一層強く手摺を握りしめて激しく毒づいた。
 傾斜がついているからやりやすいといえばやりやすいが、あちこちに階段の角が食い込んで酷く不快だ。それでも、殴り合いの名残なのか、それとも何か違うものなのか、獣のような目で誘う錠前屋を見るのは久し振りだったものだから、悪条件を顧みる余裕もなく意地汚く食い散らかした。結局のところ自業自得だ。
「まっ……たく、尻が痛えんだよ、尻が」
「俺のせいか?」
「てめえが重いからあちこちに角が当たって痛えんだっつの!」
「哲」
「ああ!?」
 喚く哲の顔を左手で骨ごと捕まえ固定した。
「お前、何かあったのか」
 哲は口を閉じて秋野を見た。表情からは何も読み取れない。
「……何もねえけど。ただ、掏摸のお姉ちゃんが俺とあんま変わんなくて、でも俺より重症っぽくてな。上には上がいんなと思ったら、馬鹿みてえだけどほっとしてよ」
「は?」
 何故掏摸が出てくるのかよく分からない。哲は不用意に身じろぎし、顔を顰めて小さく唸る。
「お前の友達と話した後、そのへんうろうろしながら色んなこと考えたけど結局考えたってどうもなんねえし、面倒くせえから、考えんのはもうやめた。今後一切」
「考えるって何を」
 晢は秋野の問いには答えず語を継いだ。
「そしたらなんかこう、突き抜けちまったっていうかどうでもよくなったっていうかなあ。目も冴えちまったし、てめえが気持ちよく寝てるとこ叩き起こしてぶん殴ったら胸がすくだろうなと思ってよ」
 結局さっぱり分からない説明に、秋野は暫し放心した。哲は秋野の手を振り払い、首を抱えて引き寄せ耳に噛みついてきた。
「おい、痛いよ」
「うるせえなあ。痛いように噛んでんだよ」
 秋野の耳をしゃぶりながら哲はつまらなさそうな声を出す。
「お前のことは好きじゃねえけど、遠慮なく殴れるから好きだぜ」
「どっちだよ」
 ちっとも喜ばしくない言葉に若干むっとして軽く揺さぶると、哲は歯噛みして秋野を罵った。
「動くなエロジジイ!」
「無茶苦茶言うな、くそガキが」
「むかつく野郎だな」
「好きでもないしな?」
 笑いながら言うと、哲はうう、と低く呻いてまた秋野の耳に齧りつく。そうして顎に噛みつき、首筋に噛みついて、どこの野良犬かと思うような唸り声を上げた。
「それでも俺はお前がいいんだから、もう仕方ねえよ」
 過去に似たようなことを言われたことはある。だが、それは秋野が心変わり——というのが正確か分からないが——する前の話だ。最近の状況を考えれば意外な発言に秋野は眉を寄せた。
 何か悪いものでも食べたのかと月並みなことを考えながら、もう一度哲の顔を捕まえこちらに向ける。平素と変わらない顔をした哲は、秋野の顔を見つめて何か言いかけて止め、そしてまた口を開いた。
「あれから何遍か試してみたんだけどよ」
「あれから? 何を試したんだ」
「お前が刺されてちょっとしてから。駄目になったってことはなかった」
「駄目になってないって、何がだ」
 またしても意味が分からず首を傾げる。ふと何となくそんな会話が記憶にあるような、ないようなと思ったが、思い出せない。
「けど、お前以外だと……結構努力が要った」
「哲、分かるように言ってくれ」
「面倒くせえからいいんだよ」
 低い声で哲が言い、秋野の首筋に縋りついて頸動脈にゆっくりと唇を押し付ける。凄みのある声音と行動の乖離にわけもなく不安になった。口を開きかけたら哲が食らいついてきて、秋野の抱えた幾つもの問いは混じり合う吐息の合間に溶けて消えた。

 

 立ち上がって中二階にたどり着いただけでも奇跡だと思ったが、結局二人して倒れ込んだベッドの上でもう一度哲を組み敷いた。散々殴られ怒鳴られながら哲の腰を抱き、さっきより奥まで押し入り、哲の眼尻に涙が滲むまで激しく攻め立てた。
 哲が仰け反り、喉が晒される。余さず食ってしまいたい、と思いながらその喉を銜え込んで歯を埋める。哲は嗄れた声で汚い言葉を吐きながら秋野の髪をきつく掴んで握り締め、秋野を更に奥まで引きずり込んで声を上げた。
 間近で見る哲の目は、快感ではなく、何か別のものでぎらついていた。底光りする凶暴な目。そこに見える哲の本質、本心、性、なんでもいいが、剥き出しのそれは、愛ゆえではないかもしれないが、秋野を求めているように見えた。
 食いしばる歯列をこじ開け舌を押し込み、哲の文句も呪詛も迷いも奪って飲み込んで、多分哲には受け取る気がないものを口移しで無理矢理与えた。上も下も乱暴に犯し、内から濡らす。自分の頭の中を掻き乱す思いを締め出し、哲の身体の中を掻き回した。
 くそったれ、と喚いた哲に頬骨と顎の間をぶん殴られて、瞼の裏が赤く染まる。哲は手負いの獣のように歯を剥き呻きながらのたうって、秋野の身体に爪を立てた。
 夜中に突然やってきて喧嘩を仕掛けてきた哲の真意がどこにあったのかは分からない。その後の、要領を得ない説明も。
「哲」
 唇を触れ合わせたまま囁いて、哲の瞳を覗き込む。その奥底に見え隠れするものが何なのか、こんなに間近で目にしても、秋野には掴めなかった。
「……哲」
 喉の奥から声を絞り出すように哲を呼ぶ。
 哲は秋野の腰に脚を絡め引き寄せて、荒い息を吐きながら、頬を歪めて不敵に笑った。