仕入屋錠前屋68 性(さが) 10

 大きすぎる服を着た人間は幼く見えたり華奢に見えたりするものだが、哲に関して言えばちっともそんなことはなかった。
 シャワー後の洗いざらしの髪が縁取る骨っぽい輪郭。秋野の服を着てスツールに腰かけ、煙草を銜えている普段通りの哲を眺めながら、秋野は暫くそこに立っていた。長すぎるシャツの袖とリネンのイージーパンツの裾をいい加減に捲り上げ、スツールの上で器用に片膝を立てている。カウンターの上にはヨアニスが寄越したという紙袋と小さな箱が置いてあり、哲はそれを眺めながら煙を吐いていた。
「そこで寝る気か?」
 声をかけると、哲は手元に目を向けたまま気のない返事を寄越した。
「さあ」
「階段より危ないだろう、落っこちるぞ。上に上がれよ」
「床で寝る。それかカウンターの上」
 前の部屋にはソファがあったが、引っ越したばかりのこの部屋にはベッドしかないから、上に上がれば秋野と同じベッドで眠ることになる。
「カウンター? どうやって寝返り打つ気だ。床で寝たいなら寝りゃいいが、なあ、哲」
「何だよ」
「何遍か試したって、何をだ?」
「はあ?」
 気になっていたことを思い出して訊ねると哲はようやく振り返った。何を言われているのか分からないという顔で秋野を見つめ、数秒後にようやく「ああ」と言った。
「女。それよりちょっとこれ見ろよ」
 哲が珍しく弾んだ声を出すから、返ってきた答えから注意が逸れて、秋野はカウンターに近づいた。哲がこんなに上機嫌になるのは喧嘩か錠前絡みと決まっている。案の定、哲の後ろに立って見下ろすと、カウンターに置かれた箱には小さな錠前がついていた。
 箱自体がかなり小さなものだ。文庫本を半分にしたくらいの縦横に、深さはせいぜい十センチほど。その箱に、親指の爪ほどの錠前がついている。
「ちっちぇのにすげえ精巧」
 哲が嬉しそうに言い、煙を吐く。手渡された箱を手に取ってよく見てみる。箱の素材はおそらく紫檀。ひどく繊細な柄が彫られている。錠前は小さいが確かに精巧で、こちらも錠前の表面に引っかき傷のように細かな柄が彫り込んであり、ダウンライトの反射できらきらと光った。
「古そうだな。ミニチュアか?」
 哲は丁重な手つきで秋野から箱を受け取り、カウンターに置いた。
「さあな」
「開けないのか」
「ああ、帰ってから開ける。鍵穴小せえから、道具変えねえと」
 うっとりと箱を眺めている哲を見て思わず笑い、何だよ、と唸られ睨まれながら階段を昇って中二階に上がる。寝ていくのか帰るのか知らないが、哲の好きにすればいい。
 秋野はベッドに潜り込み、すぐに意識を手放した。

 ふと目が覚めたのは、物音のせいではない。寝ながら考えていたのか、目覚めた瞬間に頭に浮かんだだけなのか。どっちだって構わないが、気になっていたのは間違いない。秋野はなんとなく呆然としたままベッドの上で身を起こした。
 さっき、哲は何と言った? 箱に気を取られてしまって理解してはいなかったが、哲の答えは聞こえていた。何遍か試したというのは、女だと哲は言った。

 この数時間で二度目になるが、ナイトテーブルを手探りし、携帯で時間を確かめる。眠っていたのはほんの短い時間だったらしい。ベッドを出て上から階下を覗いてみたが、照明は消え、哲はいなかった。しかし、もしやと思って階段を降りきると、案の定、中二階から死角の位置に哲が死体のように転がっていた。
「おいおい……」
 本気で床で寝るとは思っていなかったが、どうやら哲を甘く見ていたらしい。行き倒れた人のような格好の哲は床の上で熟睡していた。爪先で肩を蹴ってみたが、反応がない。しゃがみこんで髪を梳き、頬を撫でても哲は横倒しになった地蔵のように動かなかった。確かに散々秋野の好きにしたから疲れてはいるだろうが、それにしたってこれはない。
 横抱きに抱え上げてもまったく起きる気配がないのをいいことに、秋野はそのまま階段を上った。目を覚ましていたら烈火の如く怒り出す荷物扱いも、嫌がられないから面白くない。そうは言っても普段なかなかできないだけに、つまらないとは言わないが。
 一旦立ち止まり、秋野は腕の中の哲を眺めた。眉間に皺を寄せた不機嫌そうな寝顔につい笑い、シャンプーが微かに香る髪に鼻先を突っ込んだ。
「時々お前って人間がわからんよ、哲」
 呟いても当然ながら返事はない。数ヶ月前、秋野が何か言っても聞こえないと宣言した哲は、それだけではなく結局秋野とは微妙に距離を取り、景気の悪い顔をしつつ何事もなかったような態度を保っていた。確かに秋野を避けるようなことは一切しなくなったが、露骨に避けない分だけ溝は深くはないが広くなって、秋野も眠れない日が多くなった。そうして今日、哲は突然、開いた距離を詰めてきたのだ。
 哲の態度に翻弄されるのは腹立たしいが、自分が招いた事態なのだから哲を恨むのは筋違いだ。それに、状況が悪くなったわけではない。
 哲をベッドに下ろし、寝顔を見下ろす。
「女と俺を比べてどうだって?」
 俺以外で勃つには努力が必要だって、お前のそれは一体何だ。俺は期待すればいいのか、それとも都合のいい勘違いをしているだけで、そんな意味ではなかったのか。
「まったく……いつになったら諦めて俺のものになるんだよ?」
 手を伸ばし、洗いっぱなしの髪に触れる。目覚めていたら追い払うように手を払われ威嚇されるが、今、哲の髪は秋野のものだった。指先で前髪を掻き分け、眉から目元を露わにする。殴ったときにできた痣をなぞり、また髪に戻って軽く梳いた。愛しいとは思わないが、誰にもやらない、とは思う。
 意識があったらさぞ嫌がるだろうなと思いながら屈み込み、髪に頬を寄せて抱き締めた。そのまま暫く哲の頭を抱いていたが、額と口角に口づけて、秋野は静かに身体を起こした。
 哲を残して階段を降り、カウンターのスツールに腰かける。ヨアニスが哲に渡した美しい箱を眺めながら煙草に火を点け、暗がりの中で煙を吐く。秋野は暫くの間、そうしてひとりただそこに座っていた。

 

 あの時会った居酒屋の店員の言葉どおり逮捕こそされなかったが、久登は警察からきついお説教をされ、そうしてギャンブルが朋美にばれた。朋美は泣いて、やってしまったことはもういいから金輪際やめてくれ、と言ったらしい。
 あれからもうすぐ一年経つ。
 久登は和葉が一緒にいたことを朋美に言わなかった。だから、和葉も何も知らないふりをした。朋美に相談された時には世間一般的な意見を述べて慰め、そうしてその後も久登に金を渡していたことを、悪いことだと知ってはいたが止めなかった。
 夫婦間のことに立ち入る気はなかったし、二人の関係を壊す気もなかった。何かそうする価値があるものが存在するならそれに懸けて誓ってもいい。だが、壊れたところで知ったことではないと思っていたこともまた事実だった。
 仕事——本業の会社員のほう——から戻り部屋着に着替えたところでインターフォンが鳴り、誰何すると久登の声がした。こんな時間に久登が来るなんて珍しい。ドアを開けたら私服の久登が立っていた。
「どうしたの、その格好。会社は?」
「休んだ。離婚届……出してきた」
 ここ数ヶ月で面やつれした。俯き加減の顔を見てそう思う。朋美とは二ヶ月ほど前から別居していると聞いているから、そのせいもあるのだろう。ふんわりした、少女漫画の王子様みたいな雰囲気は、今は影を潜めていた。
 上がり込む久登を避けて鍵をかけ、和葉は小さく呟いた。
「そっか、残念だね」
「和葉……ほんとにそう思ってる?」
 振り返った久登の顔に息がつまった。
 今は、彼の前には何もない。
 カードも、馬も、バカラテーブルも、やたらうるさいスロットマシンも。そこに在るのは和葉だけなのに、久登の顔は、賭け事にのめり込んでいるときの、暗く熱っぽいあの顔だった。
 壁に押し付けられて抱き締められ、胸をまさぐられキスされて、一瞬で濡れた。けだものじみた久登の欲望が、自分という個に向けられたものかどうかはわからない。やけくそになっているだけなのか、そうではないのか。
「かずは……っ」
 首筋に熱い息が、腰に硬く屹立したものが当たり、和葉の口から物欲しげな喘ぎが漏れる。今まで一度だって欲しかったことのない久登の身体が今は欲しくて堪らなかった。
 あの時、居酒屋の店員と交わした会話が頭の隅で再生される。久登の指に、舌に感じて身を捩りながら、どこか冷めた部分があの時の自分の言葉を突きつける。

「壊れるなら、壊れればいいのよ」

 男は半分和葉を見ていないような顔をして、ゆっくりと長く煙を吐き出した。
「そいつの今の生活が? それともそいつが?」
「わかんない、そんなの。なんでそんなこと聞きたいの?」
「……参考までに」
 男は渋面を作ってそれ以上言わなかった。
 あの時は男の内心を推し量る余裕などなかったが、今は何となく分かる気がする。多分、彼にも誰かいるのだろう。結婚したいとかそんなふうには思わない、それでも何かしらの理由で執着する女性が。
「壊すのが私なら仕方ない」
 和葉が言うと、男はちょっと目を瞠った。同年代であろう彼の、男っぽい表情が僅かに崩れて少しだけ少年っぽく見える。
「彼を壊すのが私なら仕方ない。壊れても私のものよ」
「そうか」
 短く言った男はどこか弛緩した表情で煙を吐き、煙草を灰皿に押し付けて、送ると言って席を立った。次の日あのキャバクラを辞めたから、彼を見たのはタクシーに相乗りしてマンション前で降ろしてくれたときが最後だ。渡した財布がどうなったかは知らないけれど、別に知りたくもなかった。
 床の上で久登に押さえつけられ、慌ただしい愛撫に嬌声を上げる。
 これは恋愛なんかじゃないはずだ。だって、久登と幸せになりたいなんて思っていない。結婚したいとか、彼の子供を産みたいとか、そんなことはほんの僅かも望んでいない。彼の仕事が、社会的立場が、家族が、財産が、何もかもが失われたってそんなの私には関係ない。
 あなたの幸せなんてどうでもいい。
 それでもこれは手前勝手な愛だろう。壊れたっていい。壊れてしまったらその残骸を拾い集めて大切にするから傍にいて。私が欲しいのはあなただけ。
 欲しくなんかないと思っていたくせに、と嘲笑う自分の声がする。
 欲しがってはいけなかったのだ、と詰る久登の声がする。
 欲しがる権利なんかないはずよ、と悲しげに囁く朋美の声がする。
 こうなることにどこかで気づいていたくせに、と苦しげに吐き出す居酒屋の彼の声がする。
 久登が剥ぎ取るように和葉の服を脱がせ、一瞬我に返ったように動きを止めた。瞬きした後かっと赤くなり、頬と首を赤く染め、和葉、と掠れた声で名前を呼んだ。
「久登……」
 舐められ、噛まれ、貪られる。ひとかけらも残さず食らってほしくて身を捩る。
 指先が疼く。
 男の物を掴み、自らに押し当て、誰にも渡すものかと奥深くまで引きずり込む。
 抑えつけても抑えつけても腹の底で蠢くものが抑えきれずに這いずり出て、そうして自分に圧し掛かる、愛しい男の名前になった。

 そう、多分、あなたも同じ。
 ここにはいない、名前も知らない彼に向けてそっと呟く。
 いつか気が付く。

 

 迷うな。壊れたって構わない。欲しいなら、手を伸ばせ。