仕入屋錠前屋68 性(さが) 8

 どこかで何かが音を立てている。
 秋野はベッドの上で起き上がり、ナイトテーブルの上を手探りした。携帯のバックライトが点灯し、時刻が表示される。音は一階の外からする。ドアを叩く重たい音だ。
 哲だ、と思ったのは、何も超能力ではない。この場所に秋野がいることを知っているのは、工事を頼んだ業者以外はほんの数人。その中で、居住スペースではない一階のドアを深夜に、しかも蹴飛ばすような奴は哲しかいない。
 照明を点けると、目が眩んだ。暫く経ってようやく目が明かりに馴染む。煙草を銜えて火を点け、ゆっくり一服してから灰皿に押し付けた。来てくれと頼んだわけではないのだから、何も飛んでいってやることはない。
 それに、苛ついてもいた。ヨアニスのことは好きだが、内心を丸裸にされるのは好きではない。大事な友人だから隠さず話したが、意に反することだけにやたらと疲れた。最近はどうも満足に眠れないし、今日くらいはどうにかゆっくり眠りたかった。
 のろのろと階下に向かう途中でもう一発蹴飛ばされたドアがガタガタ言っている。秋野は溜息を吐きながら大きな両開きの扉を開けた。
 そこには予想通り錠前屋が立っていた。先ほど別れた時と同じ格好だが、小さな紙袋をぶら下げている。手土産ではないだろうから、別に何であっても構わないが。秋野は紙袋から哲の顔に目を移した。ごく普通の顔をしていて、いつもとどこも変わらない。
「遅えんだよ、開けんのが」
「お前ねえ。久々にまともに眠れそうだったっていうのに」
 嘆息する秋野を押し退けるようにして入ってきた哲は、真っ直ぐカウンターに向かった。カウンターに紙袋を置き、スツールに凭れるように立っている。
「そのまま永眠すりゃよかったのにな」
「損失に世界中が泣くだろう」
「俺以外な」
「冷たいねえ。上で寝てるのは分かってるだろうに、何であっちから来ないんだ。まったく」
「嫌がらせに決まってんじゃねえか」
「いついかなるときも俺に甘いよな、お前は」
「は、笑える」
 ちっとも笑っていない仏頂面もいつもどおりだ。ヨアニスの言ったとおり、特別不快なこともなかったのだろう。ドアに鍵をかけながら秋野は欠伸を噛み殺した。しかし、ヨアニスからの連絡があったのは数時間前だ。今更何の用事なのかよくわからない。哲が飲みすぎて部屋まで帰りつけないから寝にくるというのはよくあることだが、素面で、急ぎの用もないのに深夜にやってくるなんてそうそうない。
「そういえば、ヨアニスとはあの後すぐ会えたんだろう?」
「ああ、会ったけど」
「じゃあなんでこんな時間——」

 振り返りかけたときには無防備だった。
 一瞬で目が覚め無意識に身体を捻ったが、遅かった。哲の拳が秋野の頬骨をとらえ、骨と骨のぶつかる音が、耳の奥で鳴り響いた。

 

 どこかで見たことがある。
 どこかでこの目を見たことがある。
 顔の造作ではなく、その目の底にある何か、熱のようなもの。底光りするような、射るような、この視線を知っている。
 女の顔を見つめていた哲は、唐突に理解した。見たことがあるのも当然だ。鏡の中に見ているもの。それは、間近で相対したとき、あの男の瞳に映る己の目だった。
 女は急に思い出したのか、エレベーターの中で掏った財布を取り出し説明を始めた。さっきまでの熱っぽい目の光は消えている。半ば上の空で女の話を聞きながら、哲は立ち去ろうとしていたことも忘れて煙草を取り出し、火を点けた。身体に流れ込むニコチンに一瞬くらっとする。身体に悪いと分かっていても、それが何だと思ってしまう。
「あんたさ」
「え?」
 突然話を遮られた女は一瞬呆けたような顔をした。
「あんた、ほんとに好きじゃねえの、その幼馴染」
「好きですけど、それは幼馴染だから当然でしょ。朋ちゃ……奥さんを裏切ることなんかしてないし、する気もないです」
「いや、責めてんじゃねえよ。ただ教えてほしいだけ」
「何を?」
 女は警戒するように目を眇めた。
「あんたは、ギャンブルしてる幼馴染が見てえんだろ。だから、依存症だったとしても、直してやる気はねえんだよな?」
「だから、何よ」
 刺々しい反応は、やはり責められていると思っているのか。いちいち正すのが面倒で、哲は煙を吐きながら語を継いだ。
「直してやらなきゃ、多分幼馴染は幸せになんねえよな? あんた、俺の財布掏ったときは普通の会社員みてえななりだった。ってことは、キャバ嬢のバイトだって、多分そいつに賭けるための金渡してるからだろ。そんなこと続けてたら、不倫なんかしてなくたって家庭崩壊しちまうだろう」
「だから、何?」
 一語一語区切って、女は低くしわがれた声で呻いた。
 さっきの目の色が戻っていた。より強く、はっきりと。
「そんなものどうだっていい」
 ぎらつく目で哲を見据え、女はテーブルの上で拳を握り締めた。
「久登の幸せって何? 仕事で成功して、家庭ではいつも笑って、奥さんといつまでも仲良く暮らすこと? 手に入れたければそうしたらいい。それが嫌だなんて思ってない。私はあの久登が欲しいだけなんだから、それ以外は久登の好きにすればいい」
「だけどよ、多分、間違ってるよな、それ。あんたの幼馴染は、それを理解してくれんのか?」
 哲はそんなの、と呟きながらこちらを睨む、底光りする女の目に魅入られていた。
「そんなの、久登が分かってくれなくたって、ちっとも構わない」
 眩暈がする。
「誰が分かってくれなくたって、誰も許してくれなくたって、そんなこと関係ない」
 言い募る女の瞳に吸い込まれそうになりながら、哲はゆっくりと煙を吐き出す。肺の中から押し出した有毒な空気が幾筋もゆっくりと絡み合って立ち上る。
「壊れるなら、壊れればいいのよ」

 

 好意を持ったわけでもない、迷惑をかけられただけの知らない女。寝たわけでもない。そもそもその気もないが、あったとしても、あの女の身体にも心にも、哲の触れる余地などどこにもない。
 だが、あの掏摸のお陰でなくなったものがある。
 大して中身の入っていない薄っぺらな財布ではなく、なにか別の重たいもの。あの女のお陰でそれは消えた。だから、財布を預かってやったのだ。そのことに対する小さな礼として。

 秋野も自分も、二人とも間違っていたはずなのに、気づけば道を外れているのは自分だけになっていた。どうせ、間違いだらけの人生だ。正しくあろうとしていたわけでは決してないが、よりにもよってあの男が、愛情だとか言い出した。
 歪んでいようがなかろうが、結局は至極真っ当な感情に対して返すものが、こんなものでいいはずがない。そうやってあいつを壊していいわけがない。逃げることもできなければ受け入れることもできなくて二進も三進もいかなくなり、石が溜まったような鈍い重さが腹の底にずっと居座っていた。
 自分だけがおかしいのではない。馬鹿らしいが、そんなことに安堵した。
 錠前を目の前にしたときと同じことだ。
 望んでいいことと、そうではないことの違いくらいは知っている。望んではいけないと知っているのに、それが何だ、やりたいのだからやればいいのだと叫ぶ自分が自分の中にいる。
 指先が疼く。
 錠前を開けろ。吼え、殴り、蹴飛ばせ。引きずり出し、食らいつき、噛み千切り、骨の最後のひとかけらまで、意地汚く貪り、何もかも我が物にしてしまえ。
 例え誰が非難しても。
 もし、秋野が俺を非難しても。
 己の、性に従え。

 そして、自分で自分を許せばいい。

 

 

 称賛すべきか、呆れるべきか。渾身の一撃だったのに、寝惚けていたはずの秋野は一瞬早く気が付いて、僅かに身体を捻っていた。それでも高い頬骨に拳が当たったが、哲が狙ったのはこめかみだった。
 秋野はその場で踏ん張って、肝臓への攻撃を肘で止めた。顔の向きが変わり、秋野の顔にライトが当たる。金色にも黄色にも見える虹彩の中で、瞳孔がぎゅっと縮んで本物の獣のようになる。双眸をぎらつかせた秋野は凶悪なほど不機嫌だ。
「残念。会心の一撃と思ったのによ」
「……おい、何なんだ一体」
 夜中に叩き起こされ理不尽に殴られれば誰でも怒る。いくら哲にいかれているとか何だとか言ったところで、秋野だって変わらない。それがうれしいなんておかしいが、本当のところだから仕方がない。
「怒らせに来たのか?」
「会いたかったんだよ」
 哲を睨む秋野の目つきは泣いて逃げ出したくなる凄まじさだ。秋野が何か言いかけた。その一瞬に、哲は思い切り脚を振り上げた。
 本気の上段回し蹴りが長い腕で薙ぎ払われる。哲はバランスを崩したが、倒れる前に地面についた両手で身体を支え、側転の要領で脚を振り上げ肩口を狙った。足首を掴まれ、放り出すように投げられた。背中を打ったが腹筋だけですぐに起き上がる。長い脚であっという間に間合いを詰めた秋野が容赦なく哲に拳を打ち込み、殴られた顔が激しく横に振れ、一瞬地面を見失った。
 それでも秋野の袖を掴んで身体を支え、引き戻される勢いのまま腕を引っ張り脇に挟み込んだ。捩じり上げるようにして腕をきめたが、あっという間に返され腹を蹴られて身体を折る。強烈な、下から突き上げるような肘打ちを顎に食らって吹っ飛んだ哲は、それでも素早く立ち上がりながら、口の中に溜まった血を床に吐き出した。
「あー、口ん中切った」
「何しに来たんだ、哲」
 無造作に歩み寄る哲を、秋野は黙って眺めていた。僅かに首を傾げて、無表情で見つめてくる。哲はこの顔が好きではない。何度となく思ったことだが、襲い掛かってくる直前の捕食動物のように見えるのだ。
「だから、会いたかったっつったろうが」
「つまらない嘘を言うなよ」
「何でもいいじゃねえか。わざわざ来てやったってのに、不機嫌面してんじゃねえよ。喜べ、仕入屋」
 間近に立ち、秋野を見上げる。僅かな照明に虹彩が煌き、細かい金粉が舞っているように見えた。ヨアニスの青空のように優しいそれとは違う、獰猛な目。
 何の気配もなかったのに、突然右フックが飛んできた。咄嗟に避けることもできず、まともに食らう。立ち上がる間もなく脇腹を蹴られる。
 吼えながら、繰り出された脚を掴んで捻るようにぶん投げた。どうせ綺麗に着地しただろうが、そちらは見ずに立ち上がる。ふーっと動物のように息を吐き、頭を振った。足元がぐらつかないのを確認し、首を回す。
 秋野がゆっくりと立ち上がり、哲を見た。辺りを睥睨する虎のような、黄色くも見える薄茶の瞳。その底にある何かが、抑えきれず時折表面に浮かび上がる。
 遠慮なのか、自制なのか。それが自分のせいだというのは分かっている。もっと言えば、自分のための蓋なのだと、哲の譲歩に対する秋野の誠意だと分かっている。それなのに、その蓋が今は気に食わない。
 全部見たい。こじ開けた錠を投げ捨て、開けた穴の奥に潜むすべてを見たい。秋野の中に手を突っ込んで中身を掴み出し、踏みつけて、そうして地べたにへばりついた最後のひとかけらまで舐め取りたい。そんなふうに思うなら蓋など無用の長物だと、本当はずっと分かっていた。怖気づいたところで仕方がない。遠ざけることも自ら離れることもできないのなら、手を伸ばす以外どうしたらいい。
「なあ、俺と遊ぼうぜ」
「……」
「俺が望めば、何でもしてくれんだろ?」
 秋野の口の端がゆっくりと吊り上がり、酷薄で残忍な笑みになる。
 哲は秋野の目を見て笑い、唸り声を上げながら勢いよく床を蹴った。