仕入屋錠前屋68 性(さが) 7

 哲は目的の店を見つけ、ほんの少し足を速めた。
 秋野に財布を押し付けた後、ヨアニスの連絡先を聞いた。ついでだからと秋野が連絡をすると、これから会えないかと返信が来た。正直言って面倒くさいが、仕方がない。それに、秋野に面倒を丸投げした以上はさっさと立ち去るに越したことはなく、ある意味渡りに船ではあった。
 深夜まで営業しているチェーン店のコーヒーショップの自動ドアを潜り、哲は店内を見回した。ヨアニスは一人掛けソファが向かい合った壁際の席に座ってペーパーバックを読んでいた。哲に気づくと顔を上げてにっこり笑う。さっきまではスーツだったというから、秋野と別れた後に着替えたのだろう。ホテルでの部屋着と思しき履き古したジーンズとスウェット素材のパーカーという気の抜けた格好だった。
 その上に乗っかっている笑顔がどんなに魅力的だろうが、それに騙されるほど晢も馬鹿ではない。注文カウンターを通り過ぎ、テーブルを挟んでヨアニスの前に立つ。
「どうも」
「こんばんは。無理言って申し訳ないね」
「いや、こっちこそ遅くに」
「座ったら?」
「すぐ帰るんで。用って?」
「つれないなあ」
「知ってんでしょうが。俺の愛想のなさは」
 ヨアニスは降参、と言いながら、おどけた仕草で両手を上げて哲を見る。
「前に会ったときは失礼なことを言ったから、今更だけど謝ろうと思って」
 哲が眉を上げると、ヨアニスは低く笑った。
「いや、確かに無礼は故意だったけどね。でも、君が嫌いだからあんな態度を取ったわけじゃない。あの時色々言ったことを撤回する気はないけど、耀司からアキが刺されたときや、その後のことを色々聞いてね。君がしたことは正しくないかもしれないが、僕は支持するし、感謝する。だから、この間のことは謝りたい」
「……耀司が何言ったか知らねえけど」
 哲は両手をポケットに突っ込み、溜息を吐いた。今ここに耀司がいたら、余計なことを言うなと頬を思い切り抓ってやるところだ。
「あいつの言ったことは鵜呑みにしないでくれ。多分結構誤解があると思うから」
 欧米人らしい仕草で肩を竦め、ヨアニスはコーヒーカップの縁に指を滑らせた。ちょっと遠くを見るような目つきをした後、カップから指を放して腕を組む。僅かに首を傾けた拍子に、青い瞳に店の照明が反射した。
「耀司の主観を取り除いて事実だけを見ても、だよ。君とアキの関係が、僕が勝手に想像していたようなものだったとしたら、君はあんなことはしなかったと思うし。ということは、僕の考えは間違っていたということだろう」
「あんたの想像がどんなだったか知らねえけどよ、あの犯人はあいつだけじゃなく、何人も」
「ああ、紛らわしい言い方だったかな。それとも分かっててしらばくれてるのか? 君が通り魔を滅茶苦茶に殴ったことじゃない。僕が今言っているのは、その後の話だ」
「……」
「アキから離れようとしたってね? その間君がまともに食べられなくなって、眠ることも満足にできなくなったみたいだっていうのも聞いたよ。耀司は見た目ほど能天気じゃない。なんでもよく見てるよ。まあ、見たものをいつも正しく理解しているかはさて置き」
 哲が口を開きかけると、ヨアニスは緩く首を振って、なぜか済まなそうな顔をした。
「アキが君を愛してるって、耀司は、そこまでは教えてくれなかった。もしかしたら知らないだけかもな。で、それはさっきアキ本人から聞いた。恋愛なら簡単だったのに、なんて前は言ってたけど、そうかな? 一般的にはそうだろうが、話を聞く限り今のアキと君に当て嵌まるようには思えない」
「ああ、そう」
「ひとつだけ訊かせてくれ」
 何も言わない哲の顔を見上げ、ヨアニスは青空のような色の瞳を眇めた。
「君は、アキが欲しいか? あの時君は迷わず別に、と言った」
 哲は、ヨアニスの青い目を見つめて、静かに言った。
「あれは、本心だったぜ」
「そうだな。だけど人は変わるし、気持ちも変わる。実際アキは変わったろう。だから君にも訊いてる。あの時どうだったかじゃない。今の、君の本心をね」
 ヨアニスは秋野によく似た仕草で脚を組み直し、内心を窺わせない瞳で哲をじっと見た。
「他人の恋愛に口を出すのは野暮だと思う」
 白人そのものの顔で野暮とか言うな、と哲は内心突っ込んだ。
「だけど、君が今もあの時と同じなら、俺は、君を諦めるようにアキを説得するつもりだ。誰がなんと言おうと、あいつがどれほど口出しを嫌がろうと関係ない。恋愛なら応援すると言ったが、それは二人ともそう思っているなら、そうでなければ、少なくともその可能性があるなら、だ。ああ、勿論、君を責めるのはお門違いだと分かってるから安心してくれ」
 一人称が変わったのは故意なのか、そうでないのか。それが分かるほどの付き合いはないが、ヨアニスが本気だということだけは理解できた。
「アキはいい加減幸せになるべきなんだ。本人が納得するなら、歪な幸せでもいい。だけど、あいつを欲しがりもしない人間が、どんなかたちであれあいつを幸せにできるとは到底思えない」
 誤魔化すことはいくらでもできた。言いたくないことを教える義務もなければ義理もない。だが、本気で秋野を心配するこの男に、適当なことを言うのは間違っている、とも思う。秋野を取り巻く、秋野の大事な一握りの人間。ヨアニスは間違いなくそのひとりだ。
「欲しい、とは言わねえ」
 厳しい表情を浮かべた真っ青な双眸を見つめながら、哲はそう口に出した。
 濃い金色の睫毛のせいで煙ったように見える。この男は、なんだかんだ言って結局、友達思いであるだけなのだ。
「それじゃあ、君の気持ちはあの時とまったく変わらないって、そう思っていいのかな」
「最後まで聞けよ。もう持ってるものを改めて欲しいって言わねえだろ」
 ヨアニスは目を瞠り、僅かに首を傾けた。ちょっと嫌になるほど秋野に似た仕草。色だけなら秋野より数段美しいはずの青い虹彩は、哲にとっては何の意味もない。
「あの野郎は性質が悪ぃ。こっちが欲しいかそうでないかなんて気にもしないで何から何まで押し付けてきやがるから——あれはもう俺のもんだ」
「そうか——」
 哲は目の前の椅子の背凭れに手をかけきつく握り締めた。認めるのは癪だった。欲しかったわけじゃない。そう言いたかったが言えなかった。悪いのは秋野だけではないと分かっている。
「じゃあ、君は? 君は秋野のものなのか、哲」
「質問はひとつだけじゃねえのか」
 自分の指の関節を見ながら吐き出す。ヨアニスが声を出さずに苦笑する気配がした。
「厳しいなあ」
「俺が言ったんじゃねえよ」
「まあ、確かにね。あ、待ってくれ、哲」
 椅子から手を離した哲に声をかけ、ヨアニスは身を屈め、テーブルの足元に置いてあった荷物置きの籠から小さな紙袋を取り出した。
「これ、受け取ってくれないか」
「何だよ」
「お詫びのしるしだと思って。いや、受け取ったら教えろとか言わないよ。教えてくれたら嬉しいけどね」
 ヨアニスが笑いながら差し出す紙袋を暫し見つめ、哲は結局手を伸ばした。菓子折りにしては袋が小さすぎる。中を覗いてみたが、包装されていて何かは分からなかった。
「分かった。どうもありがとう」
 丁寧な礼に一瞬面食らった顔をした後、ヨアニスは穏やかに笑った。
「こちらこそ。会えてよかった。社交辞令でも皮肉でもないよ」
「わざわざ言うあたり」
「いや、本当に」
「……俺はあいつ以外どうでもいいし」
 ヨアニスは取り上げようとしていたペーパーバックから手を離し、哲を見上げて瞬きした。
「だからあんたが何をどう思おうと関係ねえけど、そんなにあいつが心配なら教えてやるよ。あの野郎が勝手にごっそり持っていきやがるから、俺にはもうなんにも残ってねえ」
 欲しけりゃ幾らかはくれてやってもいいとは思っていた。それが代価だというのなら、仕方がないと。
 哲、と呼ぶ度。
 不機嫌な顔で煙を吐く度。
 噛みつくように口付ける度。
 ふとしたときに、秋野は哲の一部を奪っていく。いとも容易く、哲が想像していた以上に、削り取る。ひとつ残らず、少しも欠けず取り戻せるならそうしたいと何度も思った。だが、それが今更無理なことも分かっていた。
「自分のものなんか、もうちょっとも残ってねえよ」
「……今の君にとってアキは何だ?」
 ヨアニスが訊く。哲は答えず、ヨアニスの指先に目を向けた。きれいに切り揃えられた爪。指先が抑えるページの端。捲られ、開かれた本を読むように、あの男を暴きたい。そのためなら何でもくれてやると思ってしまった自分が一番悪いのだろう。
「答えられるくらいならこんな苦労してねえ」
 哲は小さく舌打ちし、ヨアニスに背を向け、店を後にした。

 

「会えたよ」
 ヨアニスからの着信があったのは、哲が喫茶店を出て行って暫くしてから、ちょうど秋野が部屋にたどり着いたときだった。ヨアニスの指定した場所への移動時間を考えれば、ほとんど話もしていないのではなかろうか。そう思ったが、秋野は「ああ」とだけ言った。
「それだけ?」
「それだけって?」
「何話したか聞きたくないのか」
「謝ったんだろ」
「ああ、そうだな」
「謝罪会見を受けて哲はご満悦か?」
「それほど嬉しそうでもなさそうだった」
「じゃあ殴る蹴るの暴行を加えられたとか? それともあの下品な悪態で耳が腐ったか」
「いや、哲は別に怒ってなかったぞ」
「そうか、そりゃよかった。前よりは友好的に終了したんだな」
「ああ、まあね。アキ、あのな」
「ん?」
「——いや、いいんだ」
 ヨアニスは何か考えているのか暫く黙っていたが、それじゃあまた、と言って電話を切った。要領を得ない電話に首を傾げながらも部屋のドアを開け、中に入る。シャワーを浴びようと着替えを出したり脱いだりしている間に、ヨアニスとの会話のことは、すっかり頭の隅に追いやられた。