仕入屋錠前屋68 性(さが) 6

「あー……、間に合わなかったか」
 肩越しに振り返ると、哲が立っていた。
 走ってきたのか、ほんの僅か息が弾んでいる。意外なところで律儀な錠前屋は念のためというように店内を見回した。
「ほんの少し前に帰った。すれ違ってたかもな」
 秋野が言うと、哲は鼻を鳴らした。
「まさか。あんなのとすれ違ってたら見逃すかよ」
 哲はさっきまでヨアニスが座っていた席に腰を下ろした。バーテンダーが近寄ってくると秋野のグラスを指さし、同じの、と言って煙草を銜える。
「で、何飲んでんだ」
「知らないで同じの頼んだのか」
「アルコール入ってんだろ。ビールより強けりゃなんだっていい」
「ウーロン茶」
「馬鹿言え」
 銜え煙草で吐き捨て、秋野の脛を蹴っ飛ばす。バーテンダーが哲の前にグラスを置いた。哲はグラスを持ち上げて口に運び、おおすげえ高級な味、とかなんとか呟いた。
「そんで、お前のメイドインUSA版はどこに帰ったんだ」
「なんだそりゃ。ホテルに戻ったよ」
「いつ帰国すんだよ」
「何で」
「いや——」
 珍しく少しためらうように口ごもり、哲は煙を吐き出した。
「すっぽかすつもりはなかったんだけどよ、結局そうなったから。日を改めて顔出すほうがいいのかなと思って。行きたかねえけど」
「ふうん」
「何だよ」
 秋野の顔を横目で睨み、灰皿で煙草の灰を払う。
「別に。急用って何だったんだ」
 秋野が訊ねると、哲は盛大に煙を吹き上げた。
「……ここ出てから話す」
「何だ、言い難い話なのか」
「いや、俺は別にいいんだけど、俺の話じゃねえから」
 ほとんど満席の店内を見回して、哲が右手で髪をかき上げた。だいぶ髪が伸びたな、と何となく思う。瞼の裏に一瞬浮かんだあの場面の哲より。
 暑いからと短くしていた髪は、いつもどおりの長さになっていた。指の間からばらばらとこぼれた髪が目にかかって表情を隠す。ジーンズにスニーカーは普段通りだが、今日は珍しく編みが甘い黒のニットを着ている。シャツと違って襟ぐりが開いているから首筋と鎖骨が見え、袖が長めなせいもあって、実際よりも華奢に見えた。
 ヨアニスに晒したくもない腹の内を晒したせいか、それとも哲が殊勝な発言をしたせいなのか。理由は自分でも分からないが、何故か妙に落ち着かなかった。
 秋野はどこに触れたいということもなく哲に手を伸ばしたが、指先がどこに向かうか決める前に思いっきり叩き落された。
「触んな酔っ払い」
「痛いよ。優しさってものがないのかね、お前には」
「るせえ、てめえに割く優しさは持ち合わせがねえんだよ。他当たれ」
「酔ってないし、お前がいい」
「知るかよ、馬鹿虎が」
 うんざり、という顔でうるさそうに言い、哲はグラスを傾けた。実際のところ酔っ払ってはいなかったが、酔いたい気分ではあった。秋野はグラスに残っていた酒を飲み干して、何となく長い溜息を吐いた。

 

 秋野にあまり人がいないところのほうが話しやすいと言ったら、また怪しげな店員のいる喫茶店に連れて行かれた。ついこの間、奥の事務所でチハルからの依頼の話をしたところだ。あの時はそれなりに客が入っていたが、時間帯のせいか、今は年配の男性客が一人いるだけだった。
 カウンターの中から出てきた店員は相変わらず分厚い眼鏡をかけ、更にマスクまで装着していて怪しいことこの上ない。ニット帽がないだけまだマシという気もしたが、古びた十円玉のような色に染めた髪には酷い寝癖がついていて、これなら帽子があるほうがまだいいとも思えた。
 秋野がコーヒーを注文する間も、横顔をついじっと見つめてしまう。視線に気がついたらしく店員は妙にゆっくり哲に顔を向け、瞬きした。
「他に何かご注文ありますか?」
 思いの外しっかりした口調だったので、おかしくなった。声も若い。多分二十代、せいぜい三十代前半だろう。
「いや、すみません。何でもないです」
「寝癖が酷いからだろう」
 せっかく遠慮したのに秋野がはっきり言ってしまった。店員は「ですよねえ」とか言いながらカウンター裏に戻って行き、コーヒーを運んできたときには目深にニット帽をかぶっていた。
「お前が来る店はいつも変だな」
「前も言ってたな、そんなこと」
 秋野は薄く笑いながらコーヒーカップを持ち上げた。
「美人なんだよ」
「は?」
 意味がわからず訊き返すと、秋野は顎でカウンターの方を指した。
「あの店員。この間からオーナーになったっていうから店長か? なんでもいいが、正真正銘男だけど、まさに美人って顔なんだ。あれだ、チハルをもっと華奢にして角を取ったような……顔出してると彼目当ての女性客が増えて対応しきれんから隠してるらしい。羨ましい話だよな?」
「なんとまあ、贅沢な」
 煙草を銜えてふかしながらしみじみ言ったら笑われた。
「で? 急用は何だったって?」
「あー、この間の掏摸がいたろ」
「お前がストーカーしてた子な」
「してねえっつの」
 テーブルの下で思い切り脚を蹴飛ばそうとしたが、さっと避けられて頭に来た。誰かが聞き耳を立てていて誤解されたらどうしてくれると思ったが、幸い帰り支度を始めた年配の客も件の店員も声が聞こえるほど近くはないし、こちらに興味はなさそうだ。あっという間に会計を終えた客が店を出て行って、昔懐かしいドアベルが小さくチリンと鳴った。
「店向かって歩いてたら向こうからぶつかってきて、足踏まれた」
「掏られたり踏まれたり、残念ながら相性悪いみたいだな」
「あー、まあ、そうかもな」
 それからの顛末と、マンションまでタクシーで送って行き、その足でさっきの店に行ったが間に合わなかったことまで一気に話した。だいぶ温くなったコーヒーを啜る。秋野は哲が話している間口を挟まず黙って聞いていた。
「ギャンブル依存症か?」
「ああ? あー、ヒサトって奴な。そうかも。それとも、物珍しくて一時的にはまってるだけかも。会ったこともねえやつのことなんか分かんねえし、別にどうでもいいけど」
「けど?」
「これ」
 哲がジーンズのポケットから取り出したブランド物の薄い札入れはハンカチに包んであった。ハンカチは明らかに女物、それに今の話もある。秋野はすぐに理解したようで、ハンカチを捲っただけで財布には手を触れず、哲を見た。
「誰のだ?」
「裏カジノの主催者の、だと」
 掏摸の女が言うには、カジノから逃げ出すエレベーターに乗り合わせたらしい。「ヒナ」がこっそり教えてくれた、咄嗟に掏った、と女は言った。
 警察が来た、というだけで、その場にいた全員がすぐに逮捕されると思ったらしい。何かしら警察に差し出せば久登が許してもらえるかもしれない。ドラマじゃあるまいし、そんなことがあるわけがないのだが、その瞬間はそう思ったのだ、と女は呟いた。
「で、どうしろって?」
 秋野は物憂げな顔で財布を眺めた後、哲を見た。肉食動物を思わせる薄茶にも金にも見える瞳は内心を窺わせず穏やかだが、なんとなく不穏なものを漂わせていなくもない。確かに、自分が秋野の立場なら、面倒はご免だと思うだろう。
 哲は短くなった煙草を灰皿に押し付け、空いた手で髪をかき上げた。
「さあ。どうしたらいいか分かんねえから持ってってくれって言われて、俺も分かんねえし、仕方ねえから持ってきた」
「捨てちまえばいいだろうに」
「そうだけどよ」
 秋野の銜える煙草の煙が哲の方に流れてきた。哲は煙の向こうからじっとこちらを見つめる秋野の視線を避けるように、天井の照明を反射するコーヒーの水面に目を落とした。
 秋野が言うとおり、別に捨ててもよかった。そんなことは分かっている。
「……悪ぃけど、何とかしてくれ」
 コーヒーを眺めたまま呟くと、秋野が椅子の上で僅かに身じろいだ。カップを持ち上げ、口に運びかけたが何となく飲む気がしなかった。ソーサーとカップが触れ合う音がやたらと響くのは、他に客がいないせいなのか、それとも秋野の沈黙のせいなのか。
 動かしたせいで軽く渦を巻くようにうねるコーヒーの水面に、ぐにゃりと歪んだ照明が映っている。
 テーブルから顔を上げると、秋野は唇の端に新しい煙草をぶら下げたまま片笑みを浮かべて哲を見ていた。
「何とか言えよ」
「酔っ払いなんでな、頭が働かん」
「都合よく酔っ払いになるんじゃねえよ。酔ってねえっつったろうが」
「うん? そうだったか?」
「ボケたんじゃねえのか、ジジイ」
 惚けた答えを返す秋野の脛を蹴っ飛ばす。テーブルの脚まで一緒に蹴ってしまい、二人分のコーヒーカップががちゃがちゃ鳴った。
「失礼だね。まだかくしゃくとしたもんだぞ」
「秋野」
 押し殺した哲の声に秋野の笑みがすっと消え、面白がるような色も瞬時に消えた。
「……頼むって」
 金色の虹彩と、漆黒の瞳孔。肉食獣を彷彿とさせる瞳の奥に何があるのか、今この瞬間、哲にはまったく分からない。秋野は押し黙ったまま煙草に火を点け、ひどくゆっくり煙を吐いた。
「ああ、いいだろう。頼むっていうなら預かってやる」
「悪ぃ」
「タダじゃないけどな。いつか取り立てるから覚えておけ」
 唇だけを笑みの形に吊り上げて、秋野は人の悪そうな笑いを浮かべて見せた。