仕入屋錠前屋68 性(さが) 5

「哲は来ないのか」
 しゃれたスーツに身を包んだ友人ヨアニス・クリフォードは、いかにも欧米人らしく片眉を引き上げながら、日本人としか思えない日本語で訊ねた。
「ああ」
 ドライマティーニのグラスを手にしたヨアニスはGQの表紙から飛び出してきたような見かけだが、言語学者である父親と子供時代の日本暮らしのせいで、日本語のアクセントは完璧な標準語だ。
 知人が揃ってそんなところも二人は似ているとのたまうが、日本語についてはともかく、秋野は、自分はヨアニスほど洗練されてもいないし、それに、気障でもないと思っている。
 酒はアルコールが入っていればいいというのは哲と意見が合うところで、ドライだろうがドライでなかろうが、秋野は自ら進んでマティーニを飲むことなどないし、そのへんに売っている安酒で十分事足りる。今は、高い酒しかないバーだから——勿論ヨアニスの行きつけだ——アバフェルディなんか飲んでいるが、どうせ無駄にアルコールに強い体質のせいで何を飲んだところで大して酔いはしないのだ。
「急用だとさ。終わって間に合ったら来るって」
「……それは口実か?」
「いや。一度来ると言ったらどんなに気乗りしなくても来る奴だから、本当に急用なんだろう」
「そうか」
 ヨアニスはちょっと難しい顔をして酒の中のオリーブを見つめていたが、ふっと小さく息を吐いた。
「お前がそう言うならそうなんだろうな」
「ああ。そういえば、引っ越した」
「もう? 内装は半分しか終わってないはずだぞ」
 秋野の新しい部屋はヨアニスの知人から買ったものだから、ヨアニスも大体のところは事情を知っているし、工事の進捗状況も把握していたらしい。
「出来上がりのラフを見たが、こんなふうにしたかったみたいだな」
 言いながら、ヨアニスが店内を見回す。今いる店はあちらに比べてかなり狭いが、雰囲気は似た感じだ。古材やアイアンの手すり、コンクリートやスチールをスマートに使った内装はここ数年のインテリアの流行を忠実に取り入れていると言っていい。間接照明があちこちの壁を照らし、天井から下がったライトはすべてハロゲン電球だ。電気代がさぞ嵩むだろうと余計な心配をしてしまう。
「カウンターはできてたよ。同じ感じに」
「ああ、そうだったな。しかし、一階は住めるような感じじゃないだろう? 中二階で寝起きしてるのか? 写真で見たときは、確かまだほとんどなにもなかったような気がするが」
「水回りなんかは工事入れたから、上で生活できるようにはなってる。内装は何もしてないも同然だから殺風景だって哲が驚いてたけどな」
 目を向けると、ヨアニスは眉間に皺を寄せた。
「何だ、何か言いたそうだな、アキ」
 麦藁色の髪は、前に会ったときより短くしている。軽く撫でつけているせいで、育ちのよさそうな、端正な細面が露わだ。僅かに眉を寄せ、ヨアニスはブルーの目で秋野を見返した。
「いや、別に。ただ、何で突然哲に謝りたいなんて言い出したのかと思って。別に好きじゃないだろ、あれのことは」
「好き嫌いの問題じゃない」
「今更罪悪感に駆られたのか? 不躾な態度を取ったのはわざとだろうに」
「勿論そうだ」
 ひょいと肩を竦めてグラスに口をつけ、ヨアニスは小さく笑った。
「だけど、お前が刺されたときの一部始終を耀司から聞いて」
「お前な、あいつを情報屋みたいに使うのは止せよ」
 ヨアニスは秋野の渋面に笑みを大きくした。
「それは俺の勝手。とにかく、俺は別に哲を好きじゃないし、お前は哲を愛してないっていうから、今後も賛成はしない。でも、お前を刺した男を殺すほど殴ったという哲の行動を高く評価するので、過去の無礼な振る舞いを謝罪することにした」
「面倒くさいな」
「簡単に言えばお前を大事にしてくれたから礼を言いたい」
「……その解釈はどうかな。哲は同意しないと思うぞ」
 秋野は苦笑しながら煙草を銜え、火を点けた。
「だけどまあ、そう言うなら今後は賛成してもらえるようになるんだろうし、好きにすればいいけど」
 唇の端にぶら下げた煙草を上下させる秋野の横顔に、ヨアニスの視線が注がれる。
「——何だって?」
「うん?」
「アキ」
「何だよ?」
「お前、つまり——嘘だろ。哲を愛してるって言ったのか?」
「言ってないよ」
「誤魔化すなよ」
 ヨアニスの驚いた顔がおかしくて秋野は思わず笑ったが、我ながら屈託なく笑えたとは思わなかった。アバフェルディの残りを呷り、空のグラスを持ったままの左手の甲に額を押し付ける。
「まったく、愕然とするよな? お前がどう思ってるか分かるよ。いや、真面目に言ってるんだぞ」
 目蓋を閉じてやわらかい暗がりに束の間沈む。ここ最近眠りが浅いせいか、ふっと意識を失いそうになる。今更迷いはないが、それでも、だいぶ落ち着いたとは言え相変わらず及び腰の哲を見ていると、つい色々と考えてしまうのは仕方がないことだ。
 渋々目を開け、顔を傾けてヨアニスを見上げた。怒ったようにも戸惑ったようにも見える妙な表情で、ヨアニスはマティーニのグラスに目を向けていた。秋野はヨアニスから視線を外し、煙草を吸いつけた。
 今も時折ぱっと目に浮かぶ場面がある。哲がナイフの刃先を右手で握ったあの瞬間だ。古いビルの黴と埃の臭い。差し込む光の具合、表情のない哲の顔。そして、哲の指の間から流れる血の色と、ナイフが床に当たって立てた小さな音。驚くくらい細かい所までが一瞬で蘇る。
 勿論、錠前屋としての指が傷ついたことに腹が立った。激高したと言ってもいい。ただ、感じたのは怒りだけではなかった。哲が——秋野自身も——思いもよらないほど、ナイフの刃は秋野の胸を深く抉った。信じられないほど傷ついたのだ。
 そして何故か、自分の抱える何かは愛情なのだと納得した。
 どこでそうなったのかは分からない。最初からそうだったのに気づかなかったのか、それともどこかで何かが変質したのか。
 何年経とうが、何が起きようが、愛情なんてものには変わらないと思っていた。絶対にありえないと、愚かにも信じていた。もっとも、だからといって今までと大きく違うことは何もないのだが、だとしても、そんなふうに自覚したこと自体が驚きでしかない。
 秋野がカウンターに置いたグラスの中で氷が動き、からりと鳴る。
「死にかけたら人生観が変わるってよく言うからな」
 ヨアニスは呟きながらマティーニを飲み干し、カウンターの向こうにいるバーテンダーに合図した。
 秋野の吐いた煙が天井近くまでゆっくり漂う。煙が消えるのと入れ替わりにバーテンダーが寄ってきて、ヨアニスと秋野の前に新しいグラスを置いて行った。
「俺は死にかけてないよ、勝手に殺すな」
「背中から刺されて、下手したら死んでただろう」
「だけど、死んでないだろ。脚はついてる」
「厄介払いし損ねたってことだな」
 ようやく微かに口元を緩め、ヨアニスは秋野のほうに身体を向けた。
「アキ」
「何だよ」
「お前が哲を愛してるなら幸せになれるように祈るって言ったの、覚えてるか」
「ああ」
「祈ってほしいか?」
「別に」
 肩を竦めた秋野を横目で見て、ヨアニスは厳しい表情を浮かべた。秋野の顔を見て如才なくさっと引っ込めはしたが。ヨアニスは数秒黙り込んだ後口を開いた。
「ところで」
「ん?」
「——哲は、お前を愛してるのか?」
「全然」
 秋野の即答にヨアニスはぐっと唇を引き結び、今度は隠そうともせず酷く険しい顔をした。また何か言われるかと思ったが、その表情はすぐに消え、ヨアニスは憐れむように秋野の背中を何度か叩いた。
「お前は案外苦労性だな、相棒」
「うるさいよ」
 不機嫌に吐き捨てた秋野の声に、ヨアニスのちっとも楽しくなさそうな低い笑い声がかぶさった。

 

 蛍光灯が眩しいくらいのファーストフード店の隅の席で、哲は女と向かい合っていた。
 騒ぎから離れ、少し歩いたところで見つけた店にとりあえず女を連れて入った。見るからに泣き腫らした顔の女とずっと歩いていたら多かれ少なかれ注目される。だからと言ってファーストフード店というのも何だが、他に行く当てもなかった。
 テーブルの上には場所代と、不審がられないように注文したハンバーガーセットのトレイが二つ。
 女は店に入るなり駆け込んだトイレで化粧直しをしたらしく——なんで女というのはどんなときでも化粧を直すことだけは忘れないのか——白っぽい照明の下でも、頬の涙の跡はうまく消されていた。
「それで、誰かが警察だ、って叫んで」
 事情を説明している間何度か言葉に詰まり、涙ぐんでは堪える。女はこの間哲を問い詰めたときとは違って、酷く弱々しく見えた。
「警察が入ってきたのかは見てないの。一緒にいた子が、他の階に行けるエレベーターがあるからそこから出ようって。私たちは賭けてないんだから巻き添えになることないって……私、ぼうっとしちゃって、ヒナが私の手を握って歩き出したからそのままついて行っちゃったんです」
 哲が適当に注文したオレンジジュースに挿したストローをいじりながら、女は続けた。
「エレベーターを降りたところでヒナとはぐれちゃって、怖くなって走ったらあなたにぶつかった」
「——で、足を踏んづけた」
「えっ」
「いや、何でもねえよ」
 耳に入っていなかったのだろう。女は目を瞬いたが、また俯いた。
「一緒に行ったんです、友達と。なのに、置いてきた。どうしよう」
 それで泣いていたのかと得心する。自分が賭けないのに裏カジノに出入りしていたというのなら、そのお友達とやらは多分男なのだろう。他人の恋愛絡みのトラブルほど面倒くさいものはない。哲はうんざりしたが、何とか溜息は飲み込んだ。
 そもそも、警察に呼び止められたくなかっただけで、ここでこうして彼女と向かい合っている義理はないのだ。目の前の女が警察に追われる逃亡者だというならともかく、連れがギャンブルをしていただけのただの女。ここに置いていったところで生死に関わるわけでなし、何の問題もないだろう。
「あのさ」
 哲が声をかけると、女はゆっくり顔を上げた。顔色は悪いが、さっきよりは少ししっかりした顔をしている。
「あんたのお友達は前科持ちとか?」
「久登が? まさか……普通の会社員です」
「じゃあそんな心配して泣くことないんじゃねえの。警察で調書取られて説教はされると思うけど、多分逮捕なんかされねえよ」
 女はじっと哲を見つめた。大きな目。長い睫毛は自前だろう。キャバ嬢の格好をしているときはもっと密生していた。財布を返してくれと哲に言われて固まっていた、あの時と同じ目だった。
「心配かもしんねえけど、とりあえず家戻って連絡してみたら」
「——奥さんが……」
 何だ不倫か、という思いが顔に出たのだろう。女は表情を険しくして哲を睨んだ。
「不倫じゃないです。久登とは幼馴染で、疚しいことなんかない。だけど奥さんに彼と一緒に裏カジノに出入りしてたなんて言えないでしょう」
「ああ、まあ、そうよな」
 ヒサトという男とこの女が不倫していようがいまいが哲には関係ない。いずれにしても立ち去る潮時と思いながら、哲は小さく溜息を吐いた。
「まあ、警察沙汰になれば懲りるだろうし、止めるだろ、ギャンブルは」
「嫌なんです」
「え?」
 ぼそりと呟いた声は意外なほど低く掠れていた。訊き返した哲を見つめたまま、女はストローの先を強く握って押し潰した。
「止めてほしくない」
「……何を?」
 鋭く息を吸う音がする。女が吸ったのか。哲の財布を掏った瞬間、彼女が我知らず発した音と同じ音。
 どこかでこの目を見たことがある。既視感に、哲は上げかけていた腰を下ろした。
 似た女に会ったことがあるというわけではなかった。瞳の形や睫毛の長さの話ではない。顔の造作ではなく、その目の底にある何か、熱のようなもの。底光りするような、射るような、この視線を知っている。
「止めてほしくない」
 繰り返す女の顔を、哲は黙って眺めていた。