仕入屋錠前屋68 性(さが) 4

 そこは薄暗く、ざわついていて、ねっとりとした熱気が籠っていた。
 和葉はいつの間にか止めていた息を吐き、無理矢理久登から目を逸らした。
 カジノというと、ハリウッド映画で見るラスベガスのカジノがまず浮かぶ。タキシードやドレス、きらびやかな夢の世界。だが、この場所にはきらびやかなものは何もなかった。
 いわゆる裏カジノ、という場であるらしい。内装や調度品は特別手の込んでいないものだ。和葉のアルバイト先の安いキャバクラと大差はない。客は酒を楽しみにくるのでも、女の子を侍らせにくるのでもないから、そこは重要ではないのだろう。
 紹介してくれたキャバ嬢の話では、一定の期間で店を閉め、また別の箱に移るらしいということだが、それが本当かどうか和葉には分からない。
 ほとんどがバカラのテーブル。和葉自身はギャンブルに興味がないから、ごく基本的なルールしか知らなかった。プレイヤーかバンカー、どちらかに賭ける。たったそれだけのことに何故あんなに向きになってお金をつぎ込むのか理解できないが、大勢が夢中になるのだから楽しいものなのだろうとも思う。
「あ、なずなちゃんだー」
 バイトで使う所謂源氏名を呼ばれて振り返ると、以前アルバイトをしていた店の同僚が立っていた。ここを紹介してくれたその本人だ。ついさっき顔を思い浮かべたばかりだったから、一瞬幻覚を見たかと思ってしまい、和葉は口を開けたまま固まった。
「なになに、何でそんな顔してんの? ヒナだよー。カラコン変えたけど!」
 確かに目の色は青いが、まさかそれだけで見分けられなくなるわけはない。相変わらずちょっとずれたヒナの発言に、和葉はようやく我に返った。
「あ、いやごめんヒナ、ちゃんとわかるよ。どうしたの? 仕事じゃないよね」
「うん。今日はお休み。お客さんとデートだよ」
「お客さんと? 大丈夫なの」
「うん。付き合ってるわけじゃないんだー。おじいちゃんだし。ほら、あそこのグレーのスーツの」
 ヒナは確かに彼女のおじいちゃんという感じの高齢の男性を指さした。
「それなら同伴かアフターにすればいいのに」
「お金持ちなんだよね。お小遣いもくれるけど、ホテル行きたいとか言わないし、一緒に高級なお店でお食事して、ここ来て大体二時間くらい遊んだら満足するお客さんなの。ヒナが好きなんじゃなくて、誰か連れて歩きたいだけみたいだよ。ヒナはここでお酒飲んで待ってればいいだけ。ていうか、それじゃデートの意味ないと思うけどね、ヒナとしてはー」
 そう言って笑うと、和葉の隣のスツールに腰かけ、ヒナは長い脚を組んだ。和葉からすると病的と言ってもいいくらい痩せているが、ヒナに言わせれば友達の中でも痩せているほうではないのだとか。下着が見えそうなミニスカートを履いているが、子供のように細い脚のせいか、意外なほど色気がない。
「そう……それならいいけど。ここで会うの初めてだね」
 ここはヒナの紹介だが、ヒナ自身もギャンブルに興味がない。
「うん、そうだね。そういえば、なずなちゃんがお店辞めた月に美穂ちゃんも辞めたんだよ」
「そうなの? ずっと頑張るって言ってなかったっけ」
「カレシとの間にできちゃって。それが、カレシって実は結婚してたみたいで、美穂ちゃんは結婚する気満々だったからもう超泥沼になってるって聞いたよ」
「うわ。ゴムも使えない既婚者なんて最っ低」
「だよねー。ヒナもそう思う」
 けらけらと笑い、ヒナは細くておしゃれな煙草を取り出し、きらきら光るピンクのライターで火を点けた。
「なずなちゃんの彼はどの人?」
「彼じゃないよ。友達」
「ふうん」
 ヒナは重たそうなつけ睫毛をぱたぱたさせ、和葉の顔を不思議そうに眺めた。
「でもさあ、なずなちゃんがキャバ嬢のバイトしてるのって、彼のためなんでしょ?」
 和葉は驚いてヒナの顔を見返した。
 和葉には本業がある。ごく当たり前の事務職だ。正社員で賞与も出るが、大企業というわけでもないし、給料は同年代と比べればまさに人並み、と言ったところか。生活が苦しいとは思わないが、好きに使えるお金が多いわけでもない。そうは言っても、自分のためだけになら、キャバ嬢をしてまで稼ぎたいと思うことはないだろう。どちらにしても、ヒナに話した覚えはないのだが、やはりバイトではない、本業のホステスは観察眼に優れているのだろうか。
 ヒナはきれいにネイルした指先で煙草をはさみ、ふっくらした唇から細く煙を吐き出した。
「だってなずなちゃんギャンブルしないでしょ。友達を連れて行きたいから裏カジノ紹介してって、今色々ニュースになってるのに、そんなとこ行くって、なずなちゃんっぽくないし。そしたら、友達じゃなくて彼氏と行くんじゃないかなあって思うし、お金いるからバイトするっていうのは、彼氏に渡してるのかなあって」
「……」
「あっ、ごめんね、いいんだよ別に。ヒナだってぜーんぜん興味ないのにここにいるしー」
「うん……」
「ねえ、それよりさあ、ヒナの新しいカレシの写真見てー」
 ヒナはすぐに話題を変え、バッグからスマホを取り出した。そのへんもそつがない。
「どれどれ? どの人?」
 和葉も素知らぬふりで画面を覗き込む。ヒナのネイルのラインストーンにダウンライトが反射してちかりと光り、目を奪われた。
 その瞬間、誰かの叫び声がした。

 

 今から向かう先に隕石が落ちるか、いきなりインフルエンザにでも罹らないだろうかと哲はなかば本気で願ったが、残念ながらどちらも実現しそうになかった。
 秋野から連絡が来たのはついさっきだ。哲のバイトが普段の早番に比べても早上がりなのは、他のバイトの都合で急遽シフトを代わったからで、予定とは違う。それなのに何故これから体が空いているのを知っているのかは分からない。エリの監視カメラ説が真実味を帯びてきたが、まあそこらへんはどうでもいい。とにかくヨアニスと会うのは今夜だというので、渋々足を運ぶ途上だった。
 土曜の夜だから、まだまだ人出は多い。東南アジアかららしい観光客の集団が量販店の買い物袋を両手にぶら下げて歩道の真ん中を塞いでいる。彼らをかわして道の端を歩き、若干千鳥足気味のサラリーマン二人連れの前に出て曲がったところで思い切り誰かにぶつかった。
「痛っ!」
 尖ったもの——多分女のヒール——に思い切りつま先を踏みつけられて思わず声が出た。哲にぶつかりよろけた女が哲の声に顔を上げ、急ブレーキをかけるように立ち止まる。
「危ねえ——あれ?」
 アイメイクが無惨に崩れて目の下に隈ができているように見える。目が赤くなり、頬には涙の跡がついていたが、人相は判別できた。あの掏摸だ。
 あの後もバイトの休憩の時に何度かキャバクラの裏で煙草を吸っているのを見かけてはいたが、ストーカー嫌疑は晴れたらしく、近寄ってくることはなかった。だから間近で顔を突き合わせるのはあれ以来だ。それでもつい一歩下がると、意外なことに女は哲の腕を掴んだ。
「あの、私、分かりますか? この前……」
「わかるけど……あんた大丈夫?」
 掏摸がばれて追いかけられているのかとも思ったが、さすがに往来で口に出すことではない。哲が躊躇っていると、女は掴んでいた腕を引っ張った。
「お願い、一緒に来て」
「はあ?」
「お願いだから一緒に来て。一人じゃ行けない」
 女は哲にしてみたら歩けるのが不思議なくらい細くて高い踵の靴で走ってきたほうに戻ろうと走り出し、突っ立っている哲に気づいて駆け戻ってきた。
「お願いします」
 思い切り頭を下げる女と哲に、周囲が遠慮ない視線を投げて寄越す。何だか知らないが、今度はストーカーではなくて別の疑惑を抱かれているに違いない。哲は溜息を吐き、女の方へ踏み出した。
「なんか滅茶苦茶見られてっから、頭上げて。どこ行けばいいの」

 女はほとんど小走りだったが、その靴のせいか特別速くはなかった。気持ちが急くのか、何度も靴が歩道に突っかかる。少し遅れてついていく哲は、歩きながら秋野に連絡を入れた。いまいち事情が分からないから、「急用ができたから終わって間に合えば行く」と書いてメッセージを送信する。すぐに「了解」とだけ返事が来た。秋野にしてみれば哲が来ないほうが心の平穏が保たれるだろう。
 携帯をジーンズのポケットに捻じ込んでいたら女が急に立ち止まり、哲も足を止めて顔を上げ、思わず唸り声をあげた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
 通りの向こうにパトカーが数台停まっていて、野次馬らしき通行人たちが、何が起こっているかも知らないまま、何かに乗り遅れるまいとスマホを構えている。哲のところから見える範囲では警察に殺気立った様子がないから、人死にが出たわけではないようだ。
 女は泣き腫らした顔で周囲を見回しているが、何を——誰を——探しているのかは分からない。
「何なに、なんかあったのー」
 哲の後ろで若い男の声が誰かに問うている。
「知らない」
「俺も。火事? 事故?」
「いや、あのビル入ってったよ、警察」
 似たり寄ったりの会話があちらこちらで交わされるうち、誰かが大きな声を上げた。
「あっ、なんかあれみたい、カジノ」
「マジで? なに、どこにのってんの」
「逃げたやつのツイート、ほら、これそうじゃね?」
「あーほんとだ。こんなとこにあったんだ。へえ」
 なんとなく事情が分かった。女は誰かと裏カジノに来ていて、運悪く摘発に遭ったのだろう。連れとはぐれ、探しているに違いない。
 掲げられていた携帯が次々下ろされ、みなが情報を得ようと一様に手元に目を凝らし始めた。その中で女は相変わらず左右を見渡していたが、突然意を決したように通りの向こうに目を据えた。哲は一歩踏み出した女の腕を慌てて掴んで引っ張り戻し、抱き留めた。
「今行ったって仕方ねえだろ」
 耳元に小声で囁き、できる限り自然に見えるように、と願いながら後退る。女が少しもがいたが、無理矢理手を繋ぎ、指を絡めて引っ張った。喧嘩中のカップルに見えますように。彼女を怒らせ、一所懸命宥めている男に見えますように、と念じながら。
 こんなところで警察に誰何されたくはない。バイト帰りでピッキング道具は持っていないが、だからと言って脛の傷は消えてなくなるものではないのだ。
「行こう」
 できる限り優しく言いながら女の身体を脇に引き寄せ、哲は急いでその場から立ち去った。