仕入屋錠前屋68 性(さが) 3

 汗ばんだ肌が鬱陶しい。
「退け」
 腕を上げ押しやろうとしてみたが、体重をかけられあっさり押さえ込まれてかっとする。
 それでもぶん殴らなかったのは、何も理性が邪魔をしたわけでも、遠慮があったからでもない。単に右手は自分と秋野の胸の間にあって、左手もとっくに掴まれ、持ち上げられる状況ではなかったからだ。
「離せ、クソ虎」
「うん?」
 乱れた前髪の隙間から黄色い目が覗く。笑みの形に細められてはいるが、何かを愛でるそれとは程遠い。獰猛な色を見せる瞳に未だ密かに安堵する自分に呆れつつ、哲は再度低く唸った。
「聞こえねえのか、邪魔くせえから退けっつってんだよ」
 言えば言うだけ素直に離してもらえる可能性は目減りすると分かっているのに、それでも言わずにいられない。押さえつけられることには我慢がならない。
 細身のくせに重たい身体が乗っかっているせいで身動きできず、脚を振り上げることも適わない。怒りが募り、それと同時に別の何かが腹の底でぞろりと動いた。
 唇の端を歪めて秋野が笑い、不意に噛みつくように口づけられた。突っ込まれた舌に手加減なしで齧りついたら顎の骨ごと掴まれ仰向けられて「かっ」とおかしな声が出る。
「思い切り齧るな。痛いよ」
 優しげ、と言ってもいい声音と、その奥に潜む何かに首筋の毛がわっと逆立つ。
 無理やり開かされた顎を濡れた舌がゆっくり撫でる。頬の内側から歯茎の果てまで蹂躙されて憤懣なのか何なのかわからないものがこみ上げた。開けっ放しの口から浅い息が漏れ、喉の奥を鳴らすような秋野の笑声と絡み合う。
 秋野の、未だ得体の知れない部分が呼び起こす寒気。組み敷かれる度に感じる目も眩むような怒りと興奮。そして、関係が変わることへの怯え。すべてがない交ぜになって低く濁った呻きになった。仰け反った首筋が突っ張り、息が苦しい。
「この——」
 指の力が緩んだところでしゃがれた声を絞り出したら、一層強く掴み直される。
「うるさい。黙れ」
 揺すり上げられ、歯を食いしばって目の前の獣じみた瞳を睨みつける。目が合うと秋野は喉の奥で低く笑い、哲の鼻先に軽く噛みついた。
「ああ、やっぱりつまらないよな? 黙ってないで、好きなだけ喚け」
 突然秋野の手が離れ、面食らって口が開く。次の瞬間吐き出しかけた罵詈雑言は、激しく突かれて声にならずに掠れて消えた。

 

 秋野をベッドから蹴り落として憤然と風呂場に向かったものの、やや暫く膝が笑って真っ直ぐ立っていられなかった。まったく、好き勝手するにも程がある。イラつきながらシャワーを浴びていたら益々怒りが募り、哲は部屋に戻るなり、タオルで頭を拭きつつ秋野の背中を力いっぱい蹴っ飛ばした。
「痛っ! お前ねえ。素っ裸で物も言わずに人を蹴るなよ」
「着こんでくっちゃべってりゃ蹴ってもいいのかよ」
「よくないよ」
 唇の端を曲げて笑い、ぐしゃぐしゃになった髪をうるさそうにかき上げながら秋野は欠伸を噛み殺した。そういう秋野自身は、ベッドに腰かけ、だらしなくではあるが服を着ている。
「シャワーどうだった」
「ああ? どうって、何が」
「いや、ちゃんと使えたならいい」
 寝具の隙間から下着を救出し、脚を突っ込みながら秋野を見る。
「何だそりゃ。そういや、風呂場は新品っぽかったな。ハコは新しくねえけど」
 店を出たところで秋野からかかってきた電話は、部屋ではなくて別の場所に寄れというものだった。指定の住所は、外側から見ると古びた倉庫か何かに見えた。外階段から中に入れと言われたが、一階の正面には大きな扉があったから、階段上の入り口は勝手口か非常口のようなものだろう。二階建てかと思って入ってみたら実は平屋で、入ったところは中二階になっていた。
「ハリウッド映画とかに出てくるクラブとか、そんなんみてえだよな。元は店舗か?」
「元々は金属加工かなんかの倉庫で、店舗に改装する途中。それこそダイニングバーだかクラブだかをやるつもりだったらしい」
 確かに外観は素っ気ないコンクリートだったが、内装はそれなりに進めていたようで、今時流行の男っぽい雰囲気に仕上げられている。とはいえそれは一階部分だけ、中二階は手付かずだったらしく、まともなベッドが置いてあるのがおかしなくらい素っ気なかった。
「アメリカ人が倉庫を買い取って進めてたが、投資に失敗しただか何だか、よく知らんが本国に戻るっていうんで、結局頓挫したって聞いた」
「ふうん。しかし、誰かが買い取ってオープンしたところで、場所が悪ぃだろ、こんなとこ」
「ああ」
 駅からも繁華街からも遠くはないが、はっきり言って立地は微妙だ。
 駅の裏側にあたり、周囲は稼働していない工場や古いアパートが多く、治安がいいとはお世辞にも言えないし、他にはこれといった店もない。洒落た店が一軒できたところで、こんなところに客が大挙して押し寄せるとも思えなかった。
「外国住まいだし、下見くらいは来ただろうが、ここらをよく知ってるわけじゃなかったんだろう。駅から徒歩圏内だし、昼間に見に来ただけじゃ寂れ具合もよくわからないかもな。そんなわけで売れるあてもなかったらしくて、ヨアニスから何とかならんかって連絡が来たから俺が地べたごと買った」
「はあ?」
 いろんな意味で語尾が跳ね上がる。
 Tシャツをかぶりかけの哲に一瞥をくれ、秋野は立ち上がって軽く伸びをした。
「で、ついでだから引っ越した。あっちには行くなよ。もう次の住人が入ってるからな」
「言ってることが分かんねえんだけど、おい!?」
「シャワー浴びてくる。冷蔵庫は下にあるから勝手になんか出して飲んでろ」
 秋野はさっさといなくなり、Tシャツを着終えた哲は呆気に取られて暫くそこに突っ立っていた。

 そもそも他人の住居に大した興味があるわけでもないし、別に、今まで秋野が住んでいた部屋に愛着もない。秋野がどこに住もうが勝手にすればいいと思っているから、哲が驚いたのは秋野が引っ越ししたという事実にでも、この建物に引っ越ししたということにでもなかった。
「何時間か前まであっちにいたじゃねえか」
 バイトに出る前、哲は秋野の部屋を訪れた。耀司のところに寄ったら預かり物をしたから、届けに行ったのだ。急ぐものではなかったのだろうが、哲がまた遁走するのを危惧する耀司は、あれから何ヶ月か経った今でも何かとこういうことを頼みたがる。断ってもいいのだが、そのくらいのことはしてやってもいいと思うくらいには耀司が好きだし、またしょげた顔を見るのは忍びない。
 そんなわけで短時間いただけだが、秋野の部屋はいつもと何も変わっていなかった。段ボールが積んであったり、部屋が殊更片付いていたりもしなかった。
 はっきり覚えていないが、訪ねた時間は夕方の五時前後だったはずだ。しかも秋野は哲の休憩時間に店の裏に現れている。一体どうやって引っ越したのか、哲でなくても不思議に思うに違いない。
「それが?」
「いや、それがって、普通引っ越しっつーのはある程度時間かかんだろうが。いくら荷物少ねえったってお前」
「ああ……服と靴は半分くらい持ってきたけど、あとは全部捨ててきた」
「全部って、食器とか」
「ああ」
「消耗品とか?」
「ああ」
「タオルとか食品の買い置きとか」
「ああ、だから全部だよ」
 秋野は何でもない顔で哲を眺めながらペットボトルの蓋を捻った。まだ乾いていない前髪の束が目にかかる。
「いや、捨てたっていうと間違ってるか。処分は任せてきたからリサイクルされてるかも知れんしな。家具はそのまま使うっていうから置いたままだし、掃除は業者に頼んだし」
 物に執着しない質なのは知っていたが、ここまで酷いとは予想外だ。さすがに呆れた顔になっていたのか、秋野は肩を竦めてカウンターのスツールに腰かけた。
 やたら広いバーカウンターはきちんと仕上がっていて、洒落たスツールも備え付けてある。酒の棚には当然何も置かれていないが、冷蔵庫は置いてあり、ミネラルウォーターのペットボトルとビールの缶が数本ずつ入れてあった。今の話を聞く限り、これも秋野が買ったものではなくて、業者だか知り合いだかなんだか知らないが、引っ越しのために雇った誰かが買っておいたものなのだろう。
 秋野から二つ離れたスツールに寄りかかって立っていた哲は、溜息を吐きながら自分もスツールに腰かけた。
「別にお前の勝手だけどよ。なんで引っ越しよ」
「あそこも結構長く居たからな」
「そんだけか」
「さあ」
 片笑みを浮かべ、秋野はボトルの水を呷った。
「それよりお前、ここに来た時何か言ってたろ、掏摸がどうしたとか」
「今更かよ」
 それこそ今更また腹が立ち、哲は秋野を睨みつけた。
「大体、仕事帰りの俺を呼びつけた上に飲ませもしねえで乗っかってくるっつーのはどういう了見だお前」
「お前があんまりかわいい顔だから」
「てめえの目は節穴だ」
「知ってるよ。それで? 掏摸がどうした」
 暖簾に腕押しするのは諦めてストーカーに間違えられたことを話すと秋野はげらげら笑い、終いにはカウンターに突っ伏した。
「駄目だ、腹が痛い」
「勝手に笑って勝手に痛くなってんだから知るかよ」
 顔を上げ、憮然とした哲を見て、秋野は再度突っ伏した。顔を伏せたまま肩を震わせて笑っている。
「いつまで笑ってんだコラ」
 飲み干した水のボトルを投げたら秋野の頭に当たってぽこりと間抜けな音がした。
「ああ、久々に涙出るほど笑った」
「むかつく野郎だな。ぶん殴られてえか」
「だってお前、お前ほどストーカーが似合わないやつもいないだろう」
「だからしてねえっつの」
「分かってるよ」
 掌の付け根で目の端を拭い、秋野はようやく真っ直ぐ座った。
「誤解はとけたんだろ?」
「多分な。別に服部があのお姉ちゃんに嘘吐く理由もねえし、納得できなかったら店入って誰かに聞けばいいんだし」
「だったら放っておけ」
「言われなくても関わりたくねえよ」
 煙草に火を点けて吸い付ける。照明は店舗仕様のダウンライト。煙が立体的に立ち上がり、流れていく。
「ストーカーね」
 まだにやついている秋野に向けて煙を吐く。
「どっちかつーとお前のほうが素質あんじゃねえか」
「うん? そんなことしないよ。追い回す必要ないからな」
「……どうだか」
 必要以上に強い調子で吐き捨てた哲に一瞬鋭い視線を投げ、秋野はもう一度低く笑った。
「ヨアニスって言えば」
 秋野がペットボトルを持ち上げると、表面についた水滴がひとつ流れてカウンターに落ちた。
「久しぶりにゆっくり時間が取れるらしくて、近々会うことになってる」
「そうかよ」
 秋野によく似た秋野の友人に興味はない。くすんだブロンドに青い瞳。どこからどう見てもホワイトカラーの裕福な白人。日本語を日本人のように流暢に話し、皮肉も勿論上手に言える。おまけに向こうは哲をよく思っているわけでもないから、やってくると聞いて哲が喜ぶ理由などひとつもない。秋野は口の端を曲げて小さく笑い、吸殻を指先で転がした。
「お前も来るか?」
「勘弁しろよ」
 顔をしかめた哲を見ないで秋野は笑った。
「この機会にお互いをよく知り合うとか?」
 本当は会わせたくもないくせに、まったくろくでもない。
「っていうのは冗談だけどな、本当に、来ないか」
「何でだよ」
「前回無礼な口をきいたお詫びがしたいとさ。本気らしい」
 前に顔を合わせた時は、なんだかもう思い出せないが、色々と質問された。
 訊きたいことを訊くのはあちらの勝手だし、言いたいことは言ったように思うから別にいい。ただ、また同じことを訊かれたとしても、どう答えたらいいか今の哲には分からない。
 秋野に恋はしていない。愛してもいない。その部分はあの時と変わらなくても、何かが変わってしまったことは事実なのだ。どんな問いだとしても、どう答えたらいいか今は悩むかもしれない。そうでなければ、答えたくない問いばかりか。どちらにしても、楽しい会話ができるはずもない。
 秋野の嫌がることなら本来万難排してやってやりたいところだが、ヨアニスにまた会うのはできればご免こうむりたかった。
「哲? 本気で嫌ならそう言っておくぞ。俺も別に会わせたいわけじゃない」
 そうは言っても、大人なのだから避けられないこともある。あちらが和解したいというなら顔を見せるくらいは仕方がない。
「日にちとか、決まったら連絡寄越せよ。もう帰る」
「そうか。おやすみ」
 ひらひらと手を振る秋野の面白がるような顔が癇に障ったが、八つ当たりだと自覚があったから黙っていた。中二階への階段を登り、酷く乱れたベッドを一瞥して舌打ちし、その脇を通り抜ける。ドアを開けたらやたらと風が強く吹いていた。うっかり風に煽られて思わず一歩後退し、それにまた必要以上に腹を立てつつ、哲は無駄に力を込めてドアを閉めた。
「くそ……部屋まで変えんな、馬鹿が」
 ここ数ヶ月で馴染みになった苛立ちと腹の底に溜まっていく重たい何かに毒づいて、哲は煙草を銜え、足早に新しい秋野の部屋を後にした。