仕入屋錠前屋68 性(さが) 2

「やめてください」
「は?」
「ストーカーみたいなこと、やめてください」
 バイトを終え、裏口から出たら背後から声をかけられた。
 身に覚えのないことで因縁をつけられたことがないとは言わないが、ストーカーとなれば話は別だ。さすがに驚いて振り返ると、見たこともない女が立っていた。
「ストーカー? って、何だそりゃ。あんた誰」
「私が勤め始めて二日後に現れるなんて……ストーカーじゃなかったら何ですか」
 がっちりセットされたアップスタイルの髪と濃い化粧は商売用らしい。
 この辺に勤めているのだろうが、つけ睫毛とアイラインが濃すぎてどれも同じ顔に見える。いったいどこに勤めているのか分からないし、女は好きだがキャバクラで飲むのは好きではないから、自分が客だったとも思えない。大体この二日で行った店はラーメン屋と汚い焼き肉屋、それとオヤジが一人でやっている小さい居酒屋だけなのだ。勘違いされることをしたのでは、と悩むほどのこともない。
「いや、ちょっと悪いけど誤解じゃねえかな」
 眉を顰めた哲に憤りが増したらしく、女の声が上ずった。
「誤解じゃありません! ちゃんと分かってるんですから」
「だってあんた勤め始めて二日後ってどこに?」
「しらばっくれないでください! さっき見てたんですよ。裏口で煙草吸ってるの」
 そういわれてまじまじと顔を見たら、女は怯んだように後退ったものの、踏ん張った。相変わらず顔に覚えはないが、全体のシルエットを眺めて思い当たる。
「ああ——さっきそこで煙草吸ってた黄色いほうか?」
 秋野が来ていたときに外に出てきた向いのキャバクラのキャバ嬢だ。一瞬秋野の悪ふざけを見られていたかとひやりとしたが、それで女が怒るというのもおかしな話だ。
「申し訳ないけど、俺あんたのこと知らねえし、ストーカーでもねえから」
「言い訳しないでください。しつこいようなら警察に相談しますから」
 哲は思わず面倒くせえなあ、と呟いて煙草を取り出した。ストーカーなどしていないのに、警察相手に弁解するのも業腹だ。
「ちょっと待っててくれる?」
「……」
 裏口を振り返りドアノブに手をかけると、女は逃すまいというふうに一歩前に出て睨んできた。哲は溜息と煙をまとめて吐きながらドアを開け、開いたドアから中に向かって「服部ぃ!」と大声で呼ばわった。
 ばたばたと足音がして——今日二度目だ——服部が飛び出してきた。
「何ですか、佐崎さん! 忘れ物ですか!?」
「いや、違う。仕事中悪ぃな。あのよ、お前ここでバイト始めて何年経つ?」
 服部は女に目を向けにこりと笑って会釈してから、哲のほうに体を向けた。
「俺ですか? 三年くらいだと思いますけど。今は始めた日付はっきりわからないんで、必要なら調べましょうか」
「それはいいよ。で、お前来たとき俺いたっけ」
「ええ?」
 不思議そうに首を傾げて前掛けで手を拭う。
「佐崎さんは俺が入ったときもういましたよ。突然何言い出すんです? 忘れちゃったんですか」
「忘れちゃってねえよ。ありがとな。戻っていいぞ」
「はーい、お疲れさまでした!」
 元気よく返事をした服部は面接会場から退出する学生のようにお辞儀をしてドアを閉めた。
 鉄扉の閉まる音がして、不自然な沈黙が落ちる。哲は女に向き直って煙を吐いた。
「約束があんだけど、行っていい?」
 女は何も言わず、ただ哲の顔を凝視している。
「これで納得できなかったら店入ってここの店主に聞いてくれ」
 哲が踏み出すと女は無言で一歩下がった。
 女の横を擦り抜ける。甘ったるい花のような香りがする。女のつけている香水だろう。何をどう勘違いしたか知らないが、ご苦労なことだ。そう思いながら立ち去りかけ、背中に注がれる女の強い視線に、哲はつんのめるように立ち止まった。
「あ」
 知っている、と思った。背中側から突き刺さるようなこの視線。
 肩越しに見ると、女はバッグを胸の前に抱えてじっと立っていた。
 よく見るブランドのベージュのバッグ。
 昨日、哲が中身を探ったような。
「昨日の掏摸か、あんた」
 哲が言い終わる前に女は素早く踵を返し、哲の進行方向とは反対側に駆けて行った。
「ああ……」
 そういうことか、とようやく腑に落ちる。掏摸をしていることをばらすぞと脅されでもすると思ったのだろう。
 しかし、それならその場で脅すだろう。想像力が働きすぎている気がするのは、女だからなのか、そうではなくて単に心配性なのか。哲にとってはどうでもいい話だが。
 欠伸をして煙草を銜え直すと、見ていたように電話が鳴った。
「まったく——」
 一瞬躊躇い、半ば諦め気分で携帯を耳に当てる。
「ほんとに俺に何か埋め込んでねえだろうな、お前。ああ? オヤジくせえ下ネタはいいっつの。いい、何でもねえよ。今行くって、うっせえな」
 喉を鳴らすような低い笑い声が耳に届き、哲は大きな溜息を吐いた。

 

 和葉はタクシーの座席に凭れ、深く長い溜息を吐いた。
 セットした頭も、つけ睫毛の貼りついた瞼もやたらと重い。ホステスのバイトは初めてではないし、今日は手のかからない客ばかりだった。疲れる要素といえばたった一つ。昨日財布を掏った男と遭遇してしまったことだ。
 眉間を指先で揉みながら煙草を取り出しかけて途中で気づく。タクシーの中は禁煙だ。バッグの中に突っ込んだ手を彷徨わせ、携帯を掴んで取り出す。通知がいくつか届いていて、久登からのものもいくつかあった。メッセージを呼び出しかけて思い直す。今日は今から髪を洗ってもう一度出かける元気はないし、顔を見たら余計なことを言ってしまいそうだった。
 シートに体を沈め、写真を呼び出す。久登と、久登の妻の朋美、そして和葉の三人で撮った自撮り写真だ。
 不倫、浮気という形で朋美を裏切ってはいない。そういう意味では、久登と和葉は昔から今までずっと変わらず幼馴染でしかなかった。それでも——。
 三人の笑顔を眺めながら和葉はそっと溜息を吐く。
 それでも、例え二人の間に恋愛感情も肉体関係もないとしても、これはある種の裏切りなのだと、認めるのは辛かった。

 同い年の久登とは家が近所で、小さな頃は近所の子供たち大勢と集まって一緒に遊んだ。小学校も中学年くらいになると男女の遊びは別になり、一緒に遊ぶことはなくなったものの、それでも仲がいいことに変わりはなかった。
 中高は同じ学校、卒業後は、久登は大学、和葉は短大に進んだ。進路は同じではなかったけれど、もそれなりに付き合いはあった。社会人になってもお互いに恋心を抱くこともなく、幼馴染という気安い関係のまま。
 それが微妙に変わったのは、競馬場で久登に会った、ちょうど一年くらい前のことだ。
 ゲームのような仲間内の麻雀。何人かで覗いてみたスロット。
 和葉自身はいくつか試してみた賭け事に興味を持てなかった。宝くじと同じで、どうせ当たりはしないのだ。そんなことに使うくらいなら、気に入ったワンピースの一枚でも買えばいい。
 それでも、遊びのひとつとして、友人に誘われれば付き合うこともあった。芸能人が来るイベントがあるからと誘われ、天気がいいからとピクニック気分で競馬場に行き、そこでたまたま久登に会った。
「久登」
「和葉、どうしたの。競馬場なんか」
 お互いちょうどトイレから出てきたところでばったり会った。
 元々おっとりした質の久登は、話し方も柔らかい。背は高くないがひょろりと痩せていて、色素の薄い髪は子供の頃からふわふわの猫っ毛。少女漫画に出てくる男の子のように優しげで、実際優しい。妻の朋美もおとなしく可愛らしい子で、二人並ぶとそこだけ小春日和という感じだった。
「友達と、友達の彼氏に誘われた。なんかのイベントあるでしょ。ちょっと好きな俳優と、お笑いのコンビが来るんだよね」
「ああ、芸能人色々来るってね。でも今日ってこないだ引退した野球選手じゃなかった?」
「嘘!? 聞いてないよ! 野球全然わかんないんですけど!」
「俺に言われても」
 そんなことを言い合って笑い、またねと別れた。久登はいつもの久登でしかなくて、和葉もさっさと自分の席へ向かった。
 一度気づいてしまえば目につくもので、久登の座っていた場所は案外和葉の近くだった。かなり前方ではあるが、和葉の視力はかなりいい。斜め前の、ちょうど横顔が見える位置。
 爽やかに晴れ上がった広い空。高層建築が頭上に伸し掛かるのが当たり前の日常で、忘れていた解放感。芝は目に痛いほど鮮やかな緑だ。ゲートが開き、わっと歓声が上がる。馬の駆ける音が聞こえるはずなのに、和葉の世界には音がなかった。
 久登の青白い顔が、すべてになった。
 平素の穏やかな顔貌とはまるで違うそれ。ぎらぎらと光る白目、食いしばった顎、首に浮かぶ筋。握りしめた拳を膝の上に置き、久登は身動ぎもせずに座していた。
 誰かに鷲掴みにされたように、内臓がぎゅっと縮こまる。
 目の前が白くなり、久登だけが浮き上がり、音も光も久登に収斂してそして何もなくなり、気づいたときには馬はすべてゴールの中に駆け込んでいた。