仕入屋錠前屋68 性(さが) 1

 さが、というものなのかもしれない。

 間違っているのだと、分かってはいる。
 子供ではないのだ。本質的な善悪の判断は別にして、この社会の中で生きていく上で、やっていいことといけないことは理解している。
 望んでいいことと、そうではないことの違いくらいは、知っている。
 そんなことは分かっているのに、それが何だ、やりたいのだからやればいいのだと叫ぶ自分がどこかにいる。
 指先が疼く。
 己の性(さが)に従え。
 迷うな。欲しいなら、手を伸ばせ。
 抑えつけても抑えつけても腹の底で蠢くそれが、指の先をひくりと動かした。

 

 

「すみません。ちょっといいですか?」
 普段なら絶対に振り返らないのに。
 半身になってから後悔したが、もう遅い。改札を抜け、どちらの通路から帰ろうか少し迷った。ちょうどそのタイミングで声をかけられたから、思わず反応してしまった。
 若い男の声。名前を呼ばれたわけではないから知り合いでもないだろう。どうせわけのわからないアンケートとか、勧誘の類に決まっている。
 わざわざ作るまでもなく愛想のない表情で、和葉は渋々振り返った。
「——はい?」
 立っていたのは同年代と思しき男だった。カジュアルな恰好だし、こんな時間に駅にいるのだから、サラリーマンではないだろう。和葉は仕事帰りだが、今日は用事があって半休を取っていた。
 平日の午後四時半。帰宅ラッシュにはまだ早いものの、改札から吐き出されてくる人の数はかなり多い。人の流れを避けるように男が和葉の横に移動する。柱を背にして立った和葉は、改めて男に目をやった。
「あの、何ですか?」
 男は口を開きかけ、和葉のすぐ横を通り過ぎていく男子高校生に目をやった。スマホに目を落としたまま、高校生が歩き去っていく。
「急いでるんですけど。アンケートとかだったら私」
「いや、そういうんじゃなくて。悪いけど、返してくれねえかな」
「……え?」
 和葉は耳を疑い、男の顔をまじまじと見た。もしかしたら知り合いかと思ったが、やはり覚えはない。
「人違いされてませんか」
「してねえと思うよ」
 男は、両手をジャケットのポケットに突っ込んで立っていた。
 薄手のミリタリージャケットは濃いカーキ色で、ちょうど尻が隠れるくらい丈がある。
 ああ。
 なんてことだ。
 男に見覚えはなかったが、このジャケットを知っている。
 この布の感触を知っている。
「あんただろ、俺の——」
 頭の血が一気に足元に落ちていく。
 そんなふうに思った瞬間、何もわからなくなった。

 

「ああっ、ダメダメ、そんな急に起きちゃ!」
 何の前触れもなくぱっと意識が戻って、和葉は勢いよく起き上がった。途端にうわっと世界が迫ってきて——というか、そう感じて——ひっくり返る。
「ほら、だから言ったでしょう! 危ないなあ」
 地震のように横揺れに揺れる視界に男の顔が現れた。五十代か六十代か。視点が定まらないから定かではないが、多分そのくらいの年齢だろう。小太りで、白髪交じり。人の好さそうな、感じのいい人だ。着ている服からすると駅員。
 そう気づいたらまた周囲がぐらりと揺れた。
「平気ですか? 救急車呼びましょうか」
 駅員の心配そうな声がする。どうにか首を横に振りながら、目を開け、辺りを見回した。といっても、和葉がいる空間は酷く狭くて、見回すほどの広さもない。
 四方から迫ってくると思えた白い壁は、実際のところ壁ではなかった。白い布が張られたパーテーション。病院のレントゲン室の隅っこに置いてあって、着替えスペースを確保してあるような、あの手のものだ。そのパーテーションで囲まれた空間に置かれた簡易ベッドの上。それが和葉のいる場所だった。
「私、倒れたんですか」
「よかった、大丈夫みたいですね」
 しっかりと喋った和葉に、駅員がほっとしたように笑顔を見せた。
「構内で倒れられたんですよ。貧血か何かでしょうかね?」
「どのくらい寝てました?」
「ちょっとの間です。ここに運ばれてきてまだ五分くらいですね」
 長い失神でなかったと知ってほっとする。
「ご迷惑をおかけして」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、救護室もなくて、こんなところですみません。東口のほうにはあるんですけど」
 どうやら駅事務室の片隅らしく、ほかの駅員が行ったり来たりする頭のてっぺんだけが見えている。不意に構内のアナウンスが聞こえることに気が付いて、途端にいろいろな音が耳に飛び込んできた。
 薄っぺらなドア一枚隔てて行きかう人々の足音。乗車案内のアナウンス。そちらに気を取られていたら、駅員の言葉を聞き逃した。
「——ですね?」
「あ、すみません。まだぼーっとしてて……」
「大丈夫ですよ。運んでくださった方がいらしたんですけど、お知り合いじゃなかったんですよね」
「運んでくれた?」
 ベッドから足を下ろし、誰かが揃えてくれていた靴に足を入れながら聞き返す。駅の係員が運んでくれたのではないのだろうか。
「ええ、通りすがりの若い男性です。その方が道を尋ねたら突然倒れられたということでしたよ。それで、近くにいた年配の女性と一緒にこちらに運んでいらして」
 駅員の言葉に適当な相槌を打ちながらバッグを探した。簡易ベッドの足元にプラスチック製の籠に入れて置いてある。何気なく中を探ると、和葉の持ち物でなくなっているものは何もなかった。
 強張った表情は具合の悪さからだと思ったらしい駅員が心配そうに覗き込んでくる。自分でも引き攣っていると感じる愛想笑いを浮かべながら礼を述べた後、和葉は逃げるようにして駅を後にした。
 和葉の持ち物に限って言えば、なくなっているものは何もなかった。ただ、バッグの中に入っていた、自分のものではない財布。
それだけが消えていた。

 

「財布を掏られた?」
 哲が煙草を銜えたまま首を縦に振ると、地面に細かい灰が落ちた。
「ちょっと用事あって、珍しく電車に乗ったらやられた」
 バイトの合間の煙草休憩。
 哲がバイト先の居酒屋の裏口で煙草を吸っていると、かなりの高確率でこの男が現れる。しかし、他のバイトが一緒にいるときはまず出てこないのが不思議でならない。本人は適当に立ち寄っているだけだと言うが、エリ——本名富田勝——は、店に監視カメラが仕掛けてあるか、哲の皮膚の下に追跡装置が仕込まれているに違いないと主張している。
 今日もまたいいタイミングでふらりと姿を現した仕入屋は、薄茶の瞳を細め、薄く笑った。
「鈍くさいな。普段は野生動物並みに気配に敏感なくせに、お前らしくもない」
「うるせえな」
 煙草の灰を払いながら、哲は顔をしかめたまま秋野に向かって煙を吹き上げた。とはいえ、いわゆるヤンキー座りの哲がいくら煙を吐いたところで、立っている秋野の顔にまでは届かない。まったく、無駄に背が高えなと胸の中で独りごちる。
「気づかなかったわけじゃねえよ。すげえ見られてんなと思ってたし。掏られた瞬間にちらっと見たら若いお姉ちゃんだったから、下手なことして痴漢だとか言われても面倒だしよ」
 痴漢だと騒がれてしまえば掏摸を追及するどころか、鉄道警察に連行される羽目になりかねない。そうなったら、たとえ冤罪でも証明するのは難しい。悲しいかなそれが現実で、人生狂わされた無実の男性は結構存在しているのだ。
「だから改札出るまで待って、声かけた」
「なんて?」
「そりゃお前、財布返してくださいって」
「で、返してもらったのか」
「んー、声かけたら青くなってぶっ倒れちまったから勝手にバッグから回収したけど」
 道路の向こうの店の裏口が開き、青いドレスと黄色いドレスのキャバ嬢が二人出てきて煙草を吸い始めた。つい先月また店が変わったらしく、女の顔ぶれも変わっている。新しいキャバクラは前よりターゲットが若いらしく、女も若い。
 秋野は肩越しに女たちに気のない一瞥をくれ、哲に視線を戻した。
「若い女の掏摸ってのは珍しいのかな」
「さあ。いるのかもしんねえけど、俺は初めて見た」
 多分哲よりいくらか年下で、特に擦れているふうもない、ごく普通の可愛い子だった。
「趣味なのかそれで食ってんのかしらねえけど。捕まんなきゃいいけどな」
「お前に言われたくないと思うよ」
 秋野が含み笑いを漏らす。そのせいか、風が吹いたのか、哲の吐き出す煙草の煙が秋野を避けるようにふわりと流れる。向こうの店の女の黄色いドレスを着たほうが、こちらに顔を向けている。秋野の立ち姿に女が目を留めるのはいつものことだ。
「少なくともお前はそのまま帰ってきたんだろう。捕まったとしてもお前のせいじゃないよ」
「言われなくても分かってるっつの」
 そろそろ店に戻るかと、煙草を地面に押し付けようとした途端、顎の骨を掴まれた。
 屈み込んだ秋野の体のせいで何も見えない。短く激しい口づけに頭に来て、秋野の顔を張り飛ばした。
「お前なあ!! そこに女がいるだろうが!」
「見られてないぞ、もういないから」
 秋野は張られた頬を気にするふうもなく、銜えた煙草をぶらぶらさせてにやりと笑った。哲が秋野の向こうに目を遣ると、確かに人影はもうなくなっていた。
「てめえは後ろに目がついてんのか、くそったれ」
 低く唸り、思わず落とした吸殻を拾い立ち上がる。
「さあな。ほら、お迎えだ」
 秋野が言った途端に哲の背後で扉が開き、服部の頭が飛び出した。
「佐崎さん、池田さんが呼んで——あっ、こんばんは!」
「だからお前はこの野郎に笑顔を安売りすんのやめろっつってんのに」
「こんばんは。じゃあ後でな」
「さっさと消えろ」
 哲が歯を剥くと秋野は笑い、現れた時と同じように、あっという間にいなくなった。