仕入屋錠前屋67 今は、ただ 5.5

「なあ、EDの薬って手に入るか」
 部屋に入ってくるなりそう言って、哲はソファからはみ出していた秋野の脚を蹴飛ばした。
 鍵を開けておくから勝手に入れと伝えておいたから、蹴りという名のノックはなかった。色々なことが重なって何となく虫の居所が悪かったから、ドアを蹴飛ばされるのはご免だった。自分はそれほど気分の浮き沈みがあるほうではないと思うが、そんな日もたまにはある。
「お前、駄目になったのか」
 本気でそう思ったわけではないがソファに寝転がったまま言うと、哲は一瞬ひどく嫌そうに顔を歪め、すぐにつまらなさそうな顔に戻って肩を竦めた。
「俺が使うわけじゃねえ。知り合いに頼まれたんだよ。年寄りと一緒にすんなジジイ」
「EDは加齢だけが原因じゃないんだよ。人知れず苦しんでる若者もたくさんいるんだから、失礼なこと言いなさんな。それから、ジジイって俺のことか? たった四日前のことも忘れたならお前こそ耄碌してるぞ」
 寝転がっていたソファからゆっくりと起き上がり、手にしていた本を置く。目にかかる前髪を払いのけて哲を見上げて言うと、四日前の晩のことをはっきり思い出したらしく、哲は大きく舌打ちした。
秋野が借りている高層マンションの部屋で、一度目はベッド、二度目はソファで抱いた。せっかくシャワーを浴びたのにと文句たらたらの錠前屋をとっ捕まえて、そんなに言うなら洗ってやると浴室に叩き込んでもう一度。哲は激怒して秋野を二発ほどぶん殴った後、壁を二、三回蹴飛ばして帰って行った。
「にやにやすんじゃねえ、このエロジジイが」
「覚えてるじゃないか」
「いっそ忘れてえよ」
 溜息を吐きながらしみじみ言われると、何となく面白くない。
「まあそう言うなよ。何なら最初から全部思い出すか?」
「要らね。で、どうなのよ」
 当然ながらあっさり拒否して、煙草のパッケージを引っ張り出す。哲は立ったまま煙草に火を点け、煙を吐いた。
「素人さんでも手に入れられるものを俺が手に入れられないわけないでしょうに」
「ああそう、はいはい、お前はすげえよ。じゃあ手に入んだな」
 知り合いとやらに連絡するのか、哲はジーンズから携帯を取り出した。
「バイアグラ? レビトラ? それともシアリス?」
「……たくさんあんの?」
 不意を衝かれたような顔は子供のようで意外に可愛い。秋野は思わず吹き出した。
「そんな顔するなよ。たくさん、ていうか、日本で処方されてるのはその三種類だ。どれでも手に入るが、使い方も少し違うからな。どれが欲しいか聞いてみろ」
 うう、と短く唸って哲は電話を耳に当てた。

 ED治療薬はドラッグストアで買えるわけではないが、違法な薬ではない。手配するのはあっという間、電話一本かければ済んだ。薬を受け取りに行くから一緒に行くかと訊ねたら、哲は少し考えて頷いた。
 薬を欲しがっているのは哲がいつも髪を切っている床屋の主人の知り合いだという。本当に知り合いの話なのか、本人が使うのかまでは哲も知らないらしい。
 薬の入った素っ気ないビニール袋をぶらぶらさせた哲はどこか上の空だった。機嫌が悪いわけではないだろう。そのくらいは顔を見れば秋野にもすぐわかる。不機嫌なのは自分のほうだった。

 

 

 こんなはずではなかった。
 薬を受け取って、居酒屋に寄って軽く飲み、店を出た。普段より不機嫌そうな秋野が面白かったから、いつもより強くその脛を蹴飛ばした。返ってきた蹴りも普段より強かった。人通りの少ない暗い路地でちょっとどつき合っただけ。そんなのはいつものことで、そのまま右と左に別れるはずだったのに。

 キーホルダーにじゃらじゃらついた鍵の他に、カードキーまで常備しているとは知らなかった。
 路地裏から引っ張り出され、小ぢんまりとした、しかし新しくてスマートなビジネスホテルに有無を言わさず連行された。自動化されているらしく、フロントにはチェックイン機があるだけで、人影はひとつもない。静まり返っているのは防音がしっかりしているからか、それとも単に客がいないのか。本当のところは分からなかったが、エレベーターも無人だった。
 箱の隅に身動きできないくらいしっかり押し付けられ、素面では思い出すのも憚られるようなキスをされ、くそ忌々しいことに、ほとんどその場でいきかけた。
 誰もいない廊下を秋野に抱きかかえられるように移動して、カードキーの反応直後にドアを押し開け部屋に転がり込む。重たいドアが静かに閉まる微かな音。糊のきいたベッドカバーの上に縺れるように倒れ込んで、どこまでも沈んでいく錯覚に捕らわれる。
 秋野の掌で額を押され、顎が上がる。自然と開いた口から掠れた喘ぎ声が漏れ、次の瞬間塞がれた。
 何が何だか分からない具合に絡み合って、お互いに歯を立て、掴み、引っ掻き合う。あちこちを噛まれ、舐められて眩暈がする。触られたいところなんかひとつもないのに、身体中余すところなく触れられる。その我が物顔な振る舞いに頭にきたから、鳩尾に思いっきり膝を入れてやった。
 そんなこんなで気が付いたら異物は既に腹の中に鎮座していて、思いつく限りの汚い言葉でその質量を非難していた。
「無駄にでけえんだよ、てめえはっ」
「喜べよ」
「誰が喜ぶか、クソ馬鹿虎野郎が! 大体何でこんな硬えんだ!」
「知りたきゃ教えてやるが、お前は聞きたくないんじゃなかったのか」
 そうだ、勿論聞きたくなんかない。秋野が金色の目を眇め、唇の端を曲げて笑う。舌打ちする哲の唇をべろりと舐め、秋野は「聞きたくないなら想像しろよ」と囁いた。

 

 秋野の背中を眺めながら、哲は天井に向けて煙を吐いた。
 未だ生々しく傷が残る秋野の背中には、それ以外にも赤い筋が何本も走っている。所々血が滲むほどひどいその傷は自分がつけたものだろう。
 いみじくも実践して証明したわけだが、駄目になったなんてことは——別に心配していたわけではないが——なかった。いいだけ暴れて秋野を罵って、そうして何度もいかされた。
 それでも、と言えばいいか。それだからこそ、か。秋野のくだらない冗談に一瞬過った不吉な考えは消えるどころか益々重く、哲の肩に圧し掛かる。
 知らず食いしばった歯の間から唸り声を漏らすと、秋野が肩越しに哲を見た。
「何だ?」
「……なんでもねえよ」
「って顔じゃない」
「疲れたんだよ、どっかのジジイが遠慮もしねえでやりまくるから。まったく、やたら長持ちさせやがって、何なんだ。薬でも飲んでんじゃねえのか」
「飲んでないよ。全部そこにあるだろう」
 相変わらず少しだけ不機嫌な片笑みを見せ、秋野は哲の煙草に手を伸ばした。歯を剥いて唸ってみたが何の効果もありはせず、長い指が煙草を攫ってゆく。
 駄目になったなんてことはない。
 このくそったれが相手なら。
 それ以上は恐ろしくて考えられず、哲は食らいついてくる秋野の唇に思い切り強く歯を立てた。灰皿に伸ばした秋野の手が袋を掠め、ここでは無用の薬の袋が、小さくがさりと音を立てた。