仕入屋錠前屋67 今は、ただ 5

 秋野は灰皿をナイトテーブルの上に置き、天井を見上げた。
 普段生活しているアパートに比べると遥かに高いところにある天井のせいか、妙な心許なさを感じて溜息を吐いた。
 滑らかな質感のシーツの皺を背に感じ、起き上がって適当に直し、また寝転がる。部屋の中は静かで何の物音もしない。防音性に優れているから階下の音は聞こえないし、地上四十階では外の音も聞こえなかった。落ち着かないのはそのせいかもしれない。
 哲はとうにいなくなっていた。
 泊まって行けとは言ったが、言ったこっちも本気ではない。どうせ哲が頷くわけもないのは分かっていたが、言うだけタダだ。
 予想通り哲は鼻を鳴らし、冷めた一瞥をくれると服を抱えてどこかへ消えた。秋野の下で荒くて熱い息を吐き、汗まみれで互いを貪り傷つけ合ったことなど過去に一度もなかったかのように。
 寝室には戻ってこなかったから、多分シャワーでも浴びてそのまま帰ったのだろう。
 気落ちなどしていないと言えば嘘になる。だが、期待していたわけでもない。
 怯えたような顔をして逃げ出されなかっただけでいい。何を言っても聞こえないと宣言されたが、真横に立って叫び続ければいつか聞かないわけにはいかなくなる。
 シャワーを浴びに行くのも面倒でそのまま寝ようかと思ったが、思い直して起き上がった。喉が渇いたし、大した問題ではないが、リビングの照明が点けっぱなしだ。
 素っ裸のまま廊下を歩き、乱れた髪を手櫛でかき上げながらリビングのドアを開ける。カーテンは開いたままだったが照明は消えていた。哲が消して帰ったのだろう。窓ガラスの向こうに広がる夜景に無関心な視線を向けて踵を返しかけ、秋野はそこで哲を見つけた。
 ソファにだらしなく寝転がった哲が身じろぎし、小さく呻いた。洒落たソファの上で洒落たクッションに埋もれているが、どうやっても普段の哲にしか見えない。近寄って手を伸ばし、髪に触れたら湿っていた。
 服はきちんと着こんでいるが、シャワーは浴びたらしい。元々泊まる気だったのか、帰るのが面倒になったのか、それとも帰るつもりがうっかり寝入ってしまっただけかは分からないが、そんなことはどうでもよかった。
 哲を跨ぐようにソファに膝をついた。ジーンズのベルトを緩め、ジッパーを下ろす。哲の上に覆い被さりながら下着の中に手を突っ込んだ。
 普段は哲その人の如く手を焼かされる部分も、さすがにまだ緩んでいた。指を押し込み、粘膜に触れる。哲の身体の内側に触れているのだと今更思う。あとどのくらい奥に潜れば、その骨を、血管を、細胞のひとつひとつを直に感じることができるのだろう。
「——……畜生、この、サドや…………ぁあ」
 目を覚ました哲が掠れた声で喘いだ。もっとも、哲が女のような声を出すことはない。喘ぐと言ってもそれはほとんど唸り声のようなものだ。
 指を引き抜き、むしり取るように服を脱がせる。やわらかいソファの上でもがく身体を押さえつけ、横面を張った。哲は喉の奥から獣の出すような音を絞り出し、秋野を睨む。ぎらつく目を見つめ返し、もう一度殴った。
 暴力を。
 獣性を押さえつけるな、と声に出さずに求められる。
 殴られたい、という目ではない。やられたら、同じだけの強さで返せる。だからそうしろと求める目だ。
 衝撃にがくんと身体が前にのめる。哲が踵で思いきり秋野の背骨を蹴ったのだ。引き寄せられ、少し前に噛みつかれた顎下にまた食い付かれた。薄い皮膚の上を火傷のような痛みが走る。顎の下に哲をぶらさげたまま身体をずらし、手を伸ばして哲のものを握った。
 お互いの急所を押さえ合い、降伏しろ、抵抗しろと煽り合う。こんなものを愛情と呼ぶなんて馬鹿げている。今更撤回する気は皆無だが、勘弁しろと言いたくなる哲の気持ちもよく分かった。
「哲」
 哲の身体、皮膚の下の骨の形を辿りながら名前を呼ぶ。
「哲」
 返ってきたのは空腹に苛立つ犬のような長く濁った唸り声。だが、それでよかった。哲は逃げずにここにいる。今はただそれだけで構わなかった。
 色気も何もない威嚇の声に、それでも瞬時に昂る自分を嘲笑う。そうして同時に僅かながらも愛しく思う。
 他人からどう見えるかは知らないが、自分自身を好きだと思ったことはない。嫌悪したこともない代わりに、愛しく思えたこともなかった。己の滑稽さを哀れと思いつつ、好ましく思えることが不思議でならなかった。
 哲の尻を掴んで身体を引き寄せ、開かせた脚の間、硬く張りつめた自分を強引に潜り込ませた。
 切っ先を沈め、徐々に深く。一度引き抜き、もう一度、皮膚と粘膜を馴染ませるように深く埋める。哲は下品な言葉で秋野を罵り、強く突かれてまた喚いた。
 自分の中にあるものが何なのか、哲がどう思っているのか訊ねてみたかった。単なる他人の身体の出っ張りか、それとももっと違うものなのか。しかし、訊いたところで答えはないだろうし、どうしても知りたいわけでもなかった。
「おい、ちょっとは遠慮っつうもんを」
 腹に当たる哲のものが体液で滑る。遠慮なんてする気はない。汗が滲んで軋む皮膚に噛みつき、既に痣だらけの身体にまたひとつ、痣を残す。
 ボディソープか何かが香る身体に無性に苛立った。身体中を擦りつけ、内からも外からもマーキングしてやりたいという衝動に身を任せる。粘ついた音を立てる場所に触れ、更に二本の指を押し込み元々存在しなかったはずの隙間までも無理矢理埋めた。
「あ、ああ、くそ、腹が裏返るだろうが、何でもかんでも突っ込むんじゃねえ……っ」
「何でもかんでも突っ込んでるわけじゃないだろう。他には舌しか入れたことないぞ」
「真面目に答えるとこじゃねえだろ、くそったれ!!」
 憤懣で燃え上がるようなその目を見つめ、秋野は、もうひとつの衝動に身を任せて口を開いた。
「お前は俺のだ、哲」
 一方的に宣言し、抗議の声を上げようとする口を手で覆う。
「何も聞こえないんだろ?」
 哲が眉間に皺を寄せ、剣呑極まりない視線で秋野を睨みつける。
 口を塞いだ手の甲の上から恭しく口づけて、秋野は哲を見下ろし笑ってみせた。
「だったら黙ってろよ、俺の錠前屋」

 

 

「……何でここにアキがいんだよ」
「それはこっちの台詞だ。電話が来るって聞いてたぞ」
 秋野は部屋のドアを開けた男を見て眉を寄せた。
 確かに施錠した記憶があるし、押し入られたわけではないから目の前の人物は当然ここの鍵を持っていたことになる。
 それ自体は何ら不思議なことではない。ここは秋野の部屋ではない。呼びつけられて電話番をさせられているだけだ。だが、電話が来ると聞いていただけだったから、本人が現れるとは思っていなかったのだ。
 秋野は手にしていた本を閉じ、床に落とした。
 この部屋にある家具は埃っぽくて硬いベッドマットレスと、パイプ椅子がひとつきりだった。マットレスは床に直に置かれている。他にあるのは吸殻が山になったばかでかい陶器の灰皿、古臭いビジネスフォン一台、それがすべてである。
 呼びつけられた当初は一脚きりのパイプ椅子に座っていたのだが、一時間もすると尻が痛くなってきた。それで先客がいるベッドに——眠りこんでいる先客を無理矢理壁側に押し付けて場所を確保し——寝転がって本を読んでいたのである。因みに本は十年以上前に流行った翻訳物のミステリーで、紙が黄ばんだ文庫本だった。椅子の上に置いてあったものだが、誰がそこに残したのか、秋野が知る由もない。
「いや……」
 綺麗な顔を歪め、男が口ごもる。その整った顔からは以前の毒気が多少抜けたような気もするが、本当のところがどうなのか、よく分からない。秋野は寝息を立てている男の頭の下から枕替わりの丸めた上着を引っこ抜き、壁と自分の間に突っ込んで上体を半分起こした。
「おい、起きろ」
 髪を掴んで引っ張り上げた頭を自分の胸の上に落とす。落ちた頭から低い唸り声がして、振動が胸郭を伝わった。
「……ぁあ?」
 左腕がゆっくりと持ちあがり、乱暴に首筋を掻く。白っぽくついた爪の痕が徐々に薄れて消えて行くのに何となく目を奪われた。力なく放り出された左手は秋野の胸の上に落ちた。一見親密そうな腕の位置だが、実は腕の持ち主が秋野の身体を床と同列に考えているというだけだ。
「お客さんだ」
 くしゃくしゃになった髪を梳いてみる。左手が素早く持ち上がり、うるさそうに払われた。
「——俺のか」
「俺のじゃないからお前のだろ。チハルだ。電話じゃなくて本人だぞ」
 胸の上で頭が動き、哲はしゃがれた声で再度唸った。

 

 一昨日会ったばかりの錠前屋の目が開き、じっと見られて千晴は思わず目を逸らした。
 男の胸に頬を寄せた格好だけを見るなら、まるで女か、ペットのようだ。だが、実際の印象はそのどちらともかけ離れている。錠前屋とは何度か顔を合わせているが、いつ見ても同じ、穏やかに凪いだ水面のような、一見動きのない瞳だった。
 何かの瞬間剥き出しになる粗暴さや理性的な閃きは、千晴にとっては何やら得体が知れない。秋野も同じようなものではあるがやはり違うし、慣れているから怖くはない。幼馴染は伊達ではないのだ。だが、錠前屋のことは、はっきり言ってしまえば怖かった。
 腕力なら、錠前屋は恐らく秋野に敵うまい。この男が何をどれだけ知っているかは知らないが、秋野が振るうことのできる最大限の暴力は、その辺のチンピラとはケタが違う。ただの喧嘩と訓練された殺傷力には天と地ほどの開きがある。
 それに、千晴自身、暴力沙汰とは無縁ではなかった。傷つくことも傷つけることも今更怖いと思わない。
 それなのに、錠前屋が怖い。普通のチンピラに見えるし、多分千晴の見立ては間違っていない。だからこそ、時折どこか普通でない色を見せるこの男の目を恐ろしいと思うのかも知れなかった。
「金、持ってきたから」
 千晴はすぐ傍のパイプ椅子に茶封筒を置いた。錠前屋は相変わらず秋野にくっついたまま、こちらを見つめている。秋野は既に千晴からは興味を失ったのか、煙草を銜えて火を点けていた。秋野が吐き出す煙に錠前屋が僅かに眉を寄せる。
「ああ、どうも。つーか電話するって言ってなかったか」
「知り合いに頼もうと思ってたから、電話してからそいつ寄越そうと思ってたんだよ。けど急に近くに来ることになったから、知らねえ奴より俺の方が早いかと思って」
 千晴は錠前屋の髪をいじり始めた秋野に目を向けた。
「アキがついてくるって分かってたらそいつでよかったんだけどな」
「俺の知り合いか」
 こちらに目を向けた秋野に向けて頷く。
「アルトゥーロだよ。だけど、あんたらもいつも一緒とは限んねえだろ」
「できれば一生一緒じゃなくていい」
 錠前屋のその言い方が本当に嫌そうだったので、千晴は思わず笑ってしまった。秋野が僅かに眉を上げ、こちらに目を向ける。秋野の前で笑ったのが何故か妙に気まずく、千晴は笑いを飲み込み、床を蹴った。
「くっついてんじゃん」
 勢いのまま子供のようなことを言ったら、錠前屋は「誰が好きこのんでくっつくか」と嫌そうに顔を歪めた。
「史上最悪の二日酔いで動けねえんだよ。ここまで来られたのが奇跡」
 錠前屋は溜息を吐き、秋野が低く笑いを漏らす。千晴は秋野の視線から逃げるようにその場を去った。
 それにしても、と人ごみの中を歩きながらふと思う。この間あの二人と一遍に顔を合わせたのは秋野が刺されて怪我をした後だったが、どうやら揉め事は収まったらしい。何を揉めていたかは知らないが、秋野の少しやつれた顔からは刺々しさが消えて随分マシになっていた。二日酔いで青ざめていた錠前屋がいつも通りかどうかまでは知らないが、それは別にどうでもいい。
 あの二人の間がまずくなろうと、千晴の知ったことではない。だが、自分にすら認めるのは癪だったが、幼馴染が尋常でない様子を見るのはいい気分ではなかったのだ。
 秋野の前では、まだうまく笑えない。
 錠前屋から渡された携帯の番号にかけなかったのも、多分秋野に対する気後れのせいだ。情けない話だが、そういう自分の情けなさに気付いただけいいのかもしれないと思う。
 どこからか吹き降ろす風が前髪を揺らし、千晴は心地よさに目を細めた。
 いつか今よりずっと普通の顔をして、秋野と話せるかもしれない。そうしたら、あの錠前屋のことも、少しは怖くなくなるだろうか。なんとなく携帯を取り出して、番号だけの登録を眺めてみた。
 これだけしか必要ない。今は、ただ。
 もしまた用事ができたなら、その時はかけてみてもいい。そうしたら名前を登録してやってもいい。友達になりたいなんて今更思いもしないが、知り合いの一人にしてやってもいいかもしれない。
 唇を歪め、携帯をしまってまた歩き出す。
 どこかに寄ってビールでも飲もうと思い立ち、千晴は本人さえも気づかないほどわずかに弾む足取りで、次の角をゆっくり曲がった。

 

 

「あー、マジで起き上がれねえ。お前帰っていいぞ」
「人にくっついて、偉そうだねえ」
「くっついてねっつの」
「後で運んでやるから取り敢えず黙ってろ。それまで俺にくっついたまま少し寝たらどうだ?」
「だからくっついてねえって言って、おい、人の話を聞きやがれ」
「はいはい、これ読み終わったらな」
「このくそったれ虎野郎、死ね!!」
「まあそう言うな」