仕入屋錠前屋67 今は、ただ 4

 前を行く秋野がどこに向かっているのかよく分からなかった。
 黙ってついて行ったのはそのせいもあるし、秋野を怒らせると面倒臭いと思ったからでもある。
 もっとも、この間人の頭をテーブルに打ちつけながら告白したところによると、あれからずっと怒りが収まっていないらしいが。
 逃げ回るのも秋野を避けるのも止めたが、それでも今はただ、何も変わっていないふりをしていたいというのが哲の本音だ。
 ぼんやりどうでもいいことを考えていたら、秋野が馬鹿でかいマンションに入って行った。駅から徒歩数分だ。この立地でこのでかさということは、さぞや高級なのだろう。無駄に広い——としか思えない——立派なエントランスを通ってエレベーターに乗る。秋野が押したのは最上階のボタンで、階数表示を見ただけで気のせいか耳がおかしくなった。
 部屋のドアはでかくて傷ひとつなく、当然のように軋みもしなかった。三和土は大理石風で、転んで頭をぶつけたら即あの世行き、という感じだ。部屋に入ると正面は一面窓。カーテンが開いたままだったので、秋野が点けた照明を反射していない部分から、モザイクのように夜景が見えた。天井高も標準よりかなり高い。インテリアは雑誌の写真をそのまま再現したようにスタイリッシュで、その方面に興味のない哲が見ても、いいものばかり置いてあるのはすぐに分かった。天井のダウンライトはやわらかい光を放っていて、まるで夜景の延長に見える。
「モデルルームか?」
 訊ねると、秋野は冷蔵庫を開けてちょっと顔をしかめ、首を振った。
「幾らなんでも何も入ってなさすぎだな。いや。借りてる」
「今日の話じゃなくて」
 秋野は顔を上げ、ビールの缶を放ってよこした。塵ひとつなさそうな部屋の中で、ありふれたビールの缶がやけに目立つ。そのせいか飲む気がせず、哲は銀色の缶を両手で弄んだ。
「だから、俺が借りてる。俺の部屋、って言えば分かるか?」
「は? お前の部屋?」
 哲は思わずぽかんと口を開けた。最高級というわけではないのだろうが、秋野の部屋——いつも行っている方——との違いがありすぎる。
 向こうは築年数二桁、汚くはないがお世辞にも綺麗とは言えない物件だ。家具も大量生産の組み立てタイプのものばかり、そもそも鉄筋のマンションですらない。生活感はやはりないが皆無というわけではないし、デザイナー家具などないのはもちろんのこと、照明だって備え付けのシーリングライトだ。
「借りてるけど、住んではいない。家具や何かは全部知り合いが選んでくれたままだし、荷物もほとんど置いてないし——まあ、ただ毎月金払ってるだけって言っても間違いじゃないな」
 水のボトルを取り出した秋野は、まるで他人の部屋を見るように部屋を見回した。
「こんないいとこ借りてて、どうしてあんな安アパートに住んでんだよ」
「入れ物なんてどれも同じだ。どこに住んでも同じなら、地上四十階より地べたがいいってだけ」
「じゃあ何で借りてんだ」
「そりゃ、あれば何かと便利だからな。住んでる場所には呼びたくない客だっているんだよ」
 秋野はボトルのキャップを捻って一口水を飲み、システムキッチンのワークトップにボトルを置いた。天然石にしか見えない艶やかなワークトップ。ちょっとでも傷がついたらメーカーがすっ飛んできそうだ、と埒もないことを考えた。
「一体どんだけあんだよ、こういう部屋」
 歩み寄る秋野を止めようと話しかけたが、秋野は「うん?」と曖昧な返事を寄越しただけで哲の前に立った。
「だから、住んでないけどお前のっての」
「たくさん」
「おい」
「お前が知らないことはまだたくさんあるんだよ」
「別に知りたくねえけど」
 ちょっと笑い、秋野は哲の目を見つめたまま哲からビールを取り上げ、脇に放った。ソファに行儀よく並んだたくさんのクッションが缶を受け止めたらしく、音はしない。
「哲」
 ただの名前。誰が呼んでも同じ、自分の名だ。
 分かっていても、秋野の低い声で呼ばれると、頭の芯が痺れたようになる。
 秋野は哲の腕を掴み、何も言わずに歩き出した。リビングから廊下に出る。廊下の一番奥、右手に見えるドアを開けると、これまた高級ホテル風にセンス良く設えられた寝室だった。
 キングサイズのベッド、白いファブリックとシンプルで洗練されたフォルムの家具、やわらかな間接照明。
「……勘弁してくれ」
 呻きながら思わず一歩後ずさる。そうしたつもりだったが、腕を掴まれているので後退できず、結局引きずられるようにして寝室に足を踏み入れた。
「さっきも言ったろ。箱は何だって変わらない」
「離せよ」
 秋野は片笑みを浮かべると、案外すんなり哲の手を離した。窓際へ歩いて行き、木製のバーチカルブラインドを閉める。秋野がベッドに腰を下ろすと高価そうなベッドスプレッドが秋野の尻の下で皺になり、その陰影が妙に目についた。
 猛烈に煙草が吸いたくなってポケットに手を突っ込み、灰皿をくれというのが面倒くさくて、結局衝動を抑え込んだ。面白がるような表情を浮かべた秋野を睨みながら、哲はポケットの中で拳を作った。
「その時どの部屋にいたって俺は同じだ、哲。部屋に合わせて変わったりしない」
 秋野は突っ立ったままの哲に右手を差し出した。
「来い、哲」
 指の長い大きな手に目を向ける。秋野は不遜な笑みを浮かべ、黄色にも金色にも見える薄茶の目でじっと哲を見た。伸ばされた手を乱暴に振り払う。腰を上げ、秋野は哲の前に立った。
 突然両手で頬を包まれた。そう表現すれば聞こえはいいが、乱暴に仰のかされ、まるで首を絞められているかのように息ができない。
「このベッドでも何も変わらないって、自分でちゃんと確かめろ」
 唇に秋野の息が触れる。
 何も変わらないわけがないのに、女子供のように宥められるのはご免だった。
「気休め言うな。むかつく野郎だな」
 喉が狭まってうまく息ができない。それでも絞り出すように吐き出す哲を見つめ、秋野は少し経ってふっと笑った。
「まったく、お前は」
 言うなり首をねじるように向きを変えさせられて力任せに突き飛ばされた。受け身も取れず横倒しになってベッドに転がる。気が付いたら仰向けに押さえつけられていて、マウントポジションを取られていた。
 咄嗟に腰を捩って逃れようとしたが、がっちりと抑え込まれた下半身は動かない。唸り声を上げた哲の頬を秋野が手の甲でするりと撫でた。
「そうやって、せっかくの俺の心遣いを無にするんだな」
「今更何寝ぼけたことぬかしやがる。てめえが俺の都合で動くことなんかねえだろうが!」
 喉の奥を鳴らして笑う秋野の顔は穏やかだが、目の色だけはそうではなかった。
「風呂も入れてやるし寝かせてやる。だからちょっとだけ付き合えよ、錠前屋」
 振り上げた腕を掴まれ思わず唸ると、秋野は人の悪そうな笑みを浮かべ、猫撫で声で囁いた。
「調子乗ってんじゃねえぞ!!」
 秋野の手を弾き飛ばす勢いで、思いきり腕を振り抜く。
 勢いで秋野の手が離れ、哲の手の甲が秋野の顎先を掠めた。秋野の顔が横にぶれる。締め付けが僅かに緩んだ隙をつき、哲は腰を捻って秋野の身体を浮かせ、太腿と膝を使って押し退けた。
 完全には持ち上げられなかったが、蹴っ飛ばしながら身体を回し、何とか秋野の身体の下から逃れ出る。上等なシーツがずれて酷く皺になったが知ったことではない。
 素早く反転したが、四つん這いになったところで首根っこを掴まえられた。上から容赦なく押さえつけられ、枕に顔を押し付けられる。本気で窒息すると焦ったところで襟首を引っ張られて仰け反らされ、溺れた人のように息を吸った。
「くっそ——」
 腕立て伏せをするように手を突っ張ってマットレスを押し返す。完全に乗っかられてはいなかったらしく、中途半端な秋野の重みを跳ね返して起き上がった。でかいベッドではあるがそれでもベッドだ。数歩歩いて床に下り、振り返って秋野を見た。秋野はベッドの端に腰掛け、乱れた前髪をかき上げながら哲を見ていた。
 ついさっきと同じ構図。そう思ったら、ひどくうんざりした気分になった。
 この先ずっと、どっかで必ず振り出しに戻るのか。俺がどうにかしない限り。
 哲は大股でベッドまで戻り、秋野の髪を掴んで顔を引き寄せ、唇を塞いだ。
 後頭部に回された大きな掌で引き寄せられ、秋野に覆い被さるように倒れ込む。気が付いたら上下を入れ替えられていて、秋野の身体に抑え込まれていた。
 貪られる合間に呼吸しようともがきながら、秋野のシャツに手をかける。ほとんど引きちぎる勢いでシャツを脱がせた。
「脱げ、早く」
 唇に噛みつきながら要求すると、秋野は片笑みを浮かべ、哲の顔を掴んだ。哲でもくらくらするような濃厚な口づけの後、秋野は身体を起こしてTシャツを脱ぎ捨てた。
 いつもと逆だ。
 セックスの最中——または最後まで、秋野が脱いでいないことはたまにある。だが、風呂上りでもない限り、哲が全部着込んでいて秋野の肌が露出していることはない。
 贅肉の一片もない見事な身体に何となく腹が立つのは、劣等感なのだろうか。剥き出しになった背中の筋肉を指で確かめ、思いきり爪で抉った。痛まないのか、それとも単にやせ我慢しているだけなのか。ぴくりともしない秋野が無性に憎らしく、抱き締めるように引き寄せて肩口にかぶりつく。どうやら笑ったらしく、秋野の背が微かに揺れた。
「何か言いてえなら好きに言えばいいけど、」
 秋野のうなじをきつく掴む。目の前の鎖骨に衝動のまま歯を立てて、歯の下の硬い感触に何故か酷く満足した。
「何も聞こえねえからな」
 耳を塞ぎ、抵抗し、拒絶することはしない。何も言うなと喚きはしないが、だからといって耳を傾けることもしない。これが現時点で哲が示せる最大限の譲歩だった。
 耳元で、秋野が囁く。耳慣れない言語は、多分タガログ語だろう。声の調子は平板でどんな内容か推し量ることはできなかったが、哲には理解できない言葉を使っていることで、言いたいことは伝わったのだと知れた。
 低い声が耳朶に触れ、頭蓋の中にこだまする。心地よさと裏腹に、皮一枚の下で血が沸騰するような感覚がある。哲は身体を起こし、続く呟きを遮るように、秋野の顎下のやわらかい皮膚に齧りついた。