仕入屋錠前屋67 今は、ただ 3

「何遍電話したと思ってんだ、おい」
 尻の下のスツールを蹴っ飛ばされ、秋野はゆっくり振り返った。もっとも、振り返らなくても誰かは分かるのだが。
「蹴るなよ」
「遅えよ。もう蹴っちまった」
 哲はつまらなさそうな顔で答え、ポケットに突っ込んでいた手で煙草を引っ張り出して隣のスツールに腰掛けながら一本銜えた。
「誰か来んのか」
「来るって言ったら帰るのか?」
 片眉を上げた秋野の前の灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。吐き出した煙を見つめながら、哲は頷いた。
「誰も来なくても帰る。あー、これお願いします」
 伸びてきた前髪をうるさそうに払い、煙を吐く。無駄な愛想がないのはいつものことだが、加えて今日は不機嫌だ。
 哲の電話に出なかったことに他意はない。つい先ほどまで商談中だったのだ。珍しく何度かかかってきたから折り返した。どこにいるかと訊かれたので、この古臭い喫茶店を指定したのである。午後から夜遅くまでやっているので、たまにコーヒーを飲みに寄る場所だった。
 元のオーナーは尾山の知人で、不動産を山ほど売っ払い、孫ほど若い輝くばかりの美貌の妻——トロフィーワイフとはよく言ったものだ——とハワイに移住してしまった。哲の注文を聞きにきた若い男は、以前は雇われ店長で、今は新しいオーナーだ。
「奥、貸してもらえるか」
 秋野が訊くとオーナーは黙って頷き、カウンターの下から鍵を取り出して秋野に手渡した。
「あっちで話そう」
 立ち上がるよう促すと、哲は嫌そうに眉を寄せた。
「コーヒー来てねえけど」
「ちゃんと持ってきてくれるから心配するな」
 哲は渋々という様子で煙草を揉み消し、それでも立ち上がった秋野についてきた。秋野が呼び出したならさっさと帰ったかもしれないが、用事があって来たのだから仕方ないと思ったのだろう。
 店の奥にある事務所の鍵を開けて中に入る。ここを借りるのは初めてではなく、奥に安っぽい応接セットがあるのも知っていた。
 いい加減買い換えた方がよさそうなソファ周りは、片付いてはいるが妙な生活感があった。新しいオーナーはここで寝起きしているのかもしれない。
 哲を座らせ、向いに腰掛けたらオーナーが盆にコーヒーを載せて入ってきた。何の説明も挨拶もなく、コーヒーを並べ伝票を置いていなくなる。
「何で自分の店でニット帽目深に被って眼鏡してんだ。おまけにマスク? 全然顔分かんなかったけど。眼鏡は伊達か?」
 哲はコーヒーに口をつけながらオーナーの出て行ったドアを見やった。
「眼鏡は伊達らしいぞ。マスクはいつもしてるわけじゃないから、風邪でも引いたんだろ」
「ほとんど口きかねえし、逃亡犯みてえ。お前の来る店って大概面白えよな」
「少なくとも俺とお前よりはまともな市民だと思うがね。それより、何の用だ」
 気の抜けていた哲の顔がちょっと強張る。哲はコーヒーをもう一口飲み、煙草を取り出して火を点けた。
「さっき、あのチハルってやつの仕事やってきた」
「そうか。ちゃんと払ってもらえよ」
「当たり前だろうが。それより、この間お前と行ったボロいアパート、あそこが待ち合わせ場所だったとかって聞いたけど」
「ああ」
 秋野が頷くと、哲は顔をしかめ、煙を吐き出した。
「あのな——何だよ、ああってお前、それが普通みてえな。この間は何で中途半端で俺を帰したんだよ」
「別に」
 思ったより素っ気ない言い方になった。何とも言いようがないのか、哲は暫く黙って煙草をふかしていたが、脚を組み替え、溜息を吐いた。
「別にって」
「玄関の解錠をするとは言ったが、それがメインの依頼だとは言ってない。元々お前が早とちりしただけだ。勿論、その場で言うつもりだったよ。だけどな、腹が立ってきたんだ」
「何にだよ」
「前の晩のお前にだ。むかついたからこのまま仕事させずに帰しちまえ、と思って」
 あまりに子供じみた言い種だが、冗談ではなかった。冗談でも笑えないし、本気なら尚更だと我ながら思う。案の定哲は鼻白み、秋野はその表情に何となくイラつきながら煙草を取り出した。
「それだけか?」
 頷く哲の顔の周りに煙が漂う。眉間に寄せた皺は不興のしるしか、それとも単に煙草を吸いつけているからか。どちらとも判断し難いが、上機嫌でないことだけは間違いない。哲はコーヒーを啜り、灰皿の縁で灰を払った。
「あのよ」
 やや暫く黙っていた哲が低い声で突然言った。
「何だ」
「俺の誤解じゃなきゃ、それって嫌がらせか?」
「どうして」
「いや——案外根に持ってたのかと思ってよ。そうは見えなかったけど」
「そりゃ悪かったな」
「そうか」
 哲は黙ってコーヒーカップを見つめていたが、財布を取出し、札を抜いて伝票の上に載せた。
「じゃ、帰るわ」
「おい」
 腰を上げようとした哲の手首を掴む。咄嗟に振り払おうとした哲はややバランスを崩し、秋野が強く腕を引くともう一度ソファに腰を下ろした。
「——俺はお前の嫌がることをするのが好きでね。それでお前がイラつくのを見るとたまらなく楽しくなる。相変わらずな」
「それが」
「それが重要なんじゃないのか」
 手首を握り締めたまま笑うと、哲は低く唸って腕を捻った。指に力を籠め、哲の上体をこちら側に引き寄せる。テーブルを挟んで睨み合う格好になり、哲の視線の剣呑さに満足した。
「俺がお前を喜ばせようと躍起になってないって分かって少し安心したんだろう。嫌がらせされて安心するなんてお前も健全じゃないね」
「俺が何をどうしたいかって、それはてめえが決めることじゃねえだろうが!」
 低く押し殺した声はしかし、吼えているようにも聞こえた。歯噛みする哲から滲み出る凶暴さに思わず頬が緩む。
「その言葉、そっくりお前に返したいね。俺が何を望んでるか、お前に分かるのか? 勝手に想像して、勝手に決めつけてびびってるんじゃないよ」
 ぐっと詰まった哲の手を引き寄せ、拳にゆっくり歯を立てた。この間の騒動で皮がずる剥けになり、腫れ上がっていた拳は、今ではすっかり元通りだ。拳に唇を這わせていくと、哲の喉から唸りが漏れた。苛立ちを音にしたらこういうふうになるだろう、という不穏な音は、獣が出す威嚇音にそっくりだ。べろりと舐め上げてから手を離す。哲は嫌そうな顔をして拳をジーンズでぐいぐい拭いながら立ち上がった。
「帰る」
「これから暇だろ? ちょっと付き合えよ」
 秋野も財布を取り出しながら立ち上がった。伝票と札をカップで押さえ、哲の前に立つ。
「帰るっつったろ」
「帰ったってどうせ風呂入って寝るだけだろ」
「悪ぃか」
「風呂も入れてやるし、寝かせてやるよ」
「余計なお世話だ。俺は乳児か」
 哲は秋野を避けて通ろうとしたが、秋野は横に一歩踏み出し行く手を遮った。
「ここで襲われたくないだろう。ぐだぐだ言うな」
 二の腕を掴んで身体を引っ張り上げ、鼻先で囁く。哲は秋野を睨みつけて歯軋りし、聞き取れないほど低い声で、死ね、と吐き捨てた。
「いい子だ」
 喉の奥で笑う秋野に刺々しい一瞥をくれ、哲は秋野を置いてドアから出て行った。