仕入屋錠前屋67 今は、ただ 1

 飛び込みの仕事は、大抵ろくなものではない。
 他の職業ではどういうものか知らないが、哲の稼業においては——とか言っても同業の人間を知らないので、自分だけの可能性もあるのだが——そういうものだ。
 その飛び込み仕事で圧倒的に多いのが、住居の出入り口の解錠である。
 一般家屋の解錠は好きではないが、それには二つ理由がある。
 ひとつは、それがあまりに容易すぎてつまらない、ということだ。
 大した知識のないチンピラですら慣れれば簡単に開けられるのは、周知の事実だ。
 治安のいい日本の一般的な住居の錠前など所詮その程度のものだから、はっきり言って哲の食指は動かない。アンチピッキング錠と銘打たれたものは確かに多少上等だが、それも慣れればほとんど同じである。
 二つ目の理由は、開け放されたドアの向こうで犯罪が行われる可能性が非常に高い、ということだ。
 今更真っ当な人間のふりなどしようと思ってもできないが、やはり自分が開けたドアの向こうで人が傷つけられるのに無関心ではいられない。
 盗みくらいならいいが、寝ていた家人に暴力を振るったりされると思うと気が重くなる。
 喧嘩は好きだ。愛していると言っていい。
 だが、抵抗できない相手に暴力を振るう趣味はない。同じく暴力であるということは否定できないが、一方的に相手に危害を加える強盗と、お互い様でやり合う喧嘩は別物だと思っている。だから、今回の依頼も断るつもりだったのだ。

——とかなんとか。
 理由はいくらでもつけられる。
 本当は秋野と顔を合わせたくないだけだった。だが、思うとおりに行かないのが、世の中の常なのだろう。

 

「ドアノブ引っ張って揺さぶったら開くんじゃねえの!?」
 思わず大きな声を出してしまい、でかい掌に口を塞がれた。
「声がでかいよ」
 しかし、そう言う仕入屋の声もごく普通の音量で、どうも辺りを憚る、という雰囲気ではない。長い指に爪を立てながら引き剥がし、唇を撫でていく指先に思い切り噛み付いた。
「痛いよ」
「うるせえ、くたばれ」
 吐き捨てて口元を手の甲で拭い、哲は改めてその建物を眺めてみた。
 一体、築年数はどのくらいになっているのだろうか。
 建物は素人目に見ても明らかに片側に傾いでおり、限りなく廃屋に近い。屋根は瓦ではなくかつては青かっただろうトタンで、少なくとも表面積の三分の一に赤錆が浮いていた。
 玄関ドアのある壁には窓が二つ。大きめの窓の向こうには黄ばんだレースのカーテンが見える。手洗いなのか台所なのか、小さな窓の向こうに洗剤や何かのプラスチック容器が幾つか見えるが、生活感を伺わせるものといえばそのくらいで、人が住んでいるかどうかは定かではない。
「まったく……だから飛び込みの仕事は嫌なんだ」
「俺に言うなよ」
「てめえのせいだろ」
 睨み付けたら薄茶の目が細められ、仕入屋は、何も言わずに薄く笑った。

 

 秋野が哲の前に姿を現したのは四週間ぶりだ。
 秋野が刺され、哲が秋野から逃げ出そうとして失敗し、所謂元の鞘に収まった格好になった翌朝、秋野は消えた。といっても失踪したわけではない。夜のうちに仕事が入っただけだったらしいが、哲が目覚めた時に秋野は既に部屋にいなかった。
 散々やりたいようにやられて身体中がだるい上にアバラが痛んで、哲は酷く不機嫌だった。勿論、自分で決めたことを完遂できなかったせいもある。何はともあれ施錠して秋野の部屋を出た数時間後、急な仕事が入って暫く戻れないとメールがあり、それ以来顔を見ていなかった。
 その間ずっと女のところに転がり込んでいたという仕入屋は、戻ってくるのと一緒にこの依頼を哲に放り投げて寄越したのである。
 依頼人は数年前、短い間だが、秋野が遊んでいた相手らしい。秋野の知り合いの店のクリスマスパーティーで、秋野が連れていた女だと言われたが、顔はまったく思い出せなかった。ただ、ケーキを持ってうろうろしていた女の腰のくびれは何となく目に浮かんだ。
「よく覚えてねえけど、あれか、コーラの瓶みてえな腰の女か?」
「……お前、女をパーツで覚えるの、やめたほうがいいぞ」
「うるせえ。文句あんのか、俺の素晴らしい記憶力に」
「文句じゃないよ。単なる老婆心」
「まったくもって要らねえ親切心だな」
 秋野は喉の奥を鳴らして笑い、煙を吐き出した。天井に向かって流れていく煙を目で追いながら、秋野が穂先の灰を払う。哲が見つめる灰皿の底に細かい灰のかけらが散った。
 バイト先にふらりと現れた秋野といつもの定食屋——というか中華料理屋というか——で飯を食い、秋野の部屋に場所を移した。つまみなしで何とか言う強い酒を飲み始めたところで、秋野が解錠の仕事があると言い出したのだ。
 知り合って数年経つが、顔を合わせるのが四週間ぶりというのは別に珍しいことでもない。だが、その直前のごたごたと、それにまつわる秋野の発言はいつものこと、とは言い難かった。
 飯を食って、その後秋野の部屋に足を向けるという行動は特に意識したものではなかったが、敢えて今まで通りにやろうという気負いがなかったとも言い切れない。そんな自分の心理が何となく面白くなかったせいか、哲は妙に苛立っていた。
「俺が人んちの錠前いじりたくねえって、知っててそういう話すんのか、お前」
 棘のある物言いに気付いたかどうか、秋野は煙草を銜えて肩を竦めた。
「でも、仕事がないよりかはマシだろう。今月は少なかったって、耀司に聞いたぞ」
「そりゃそうだけどよ」
「錠前いじってないお前はいろんな意味で足りてないからな」
 何だそりゃ、と呟いてみたが、言っていることはよく分かった。だが、この男を調子に乗らせてもいいことは何もないから黙っておく。もっとも黙っていたって読まれるのだが、それはそれで別の話だ。
「まったく、寝物語に頼まれたからってほいほい受けてきやがって。女の依頼だからってお前、」
「あ、そういうことを言うかね」
 そう言って秋野は笑い、灰皿に煙草の先を押し付けた。軽い口調と、煙草を押し潰す仕草の乱暴さ。乖離したそれに遅まきながら失言したと気付いたが、後の祭りだ。
「お前、俺を何だと思ってるんだ?」
 微笑みが貼りついてはいたが、目の前の男の表情は本物の笑顔とは程遠かった。
 何だってなんだとか、うるせえこの野郎とか、憎まれ口なら幾らでも叩ける。だが、既に掘ってしまった墓穴を更に深くするのは馬鹿だと思って黙っていた。
「あれだけ大騒ぎしたんだ。少なくとも今このタイミングで女と遊べるほど、俺も能天気じゃない」
 捻り潰され、フィルターと葉の部分が分かれて跡形もなく崩れた吸殻からようやく秋野の指が離れた。
「……悪かったよ」
 素直に謝罪したのは分別からというより防衛本能のなせる業だった。秋野を怒らせてもいいことはない。楽しめる殴り合いに発展しそうなら敢えて怒りを煽ってみることもあるが、そうなるかならないかくらいは判断できる。今秋野を挑発してみたところで、楽しく喧嘩ができるとは思えない。
 秋野は薄茶の瞳でじっと哲を見ていたが、ややあって口を開いた。
「まあいいけどな。だけど」
 後に何か続くのかと思ったが、予想に反して秋野はそのまま黙り込み、新しい煙草を取り出した。銜えるでもなく手に持ったそれに目を落とす秋野の顔は、少し疲れて見える。
 他人の胸の内を正しく推し量るのは難しい。
 四週間前の諸々を秋野がどう思っているのか、本当のところはよく分からない。その一端に触れたとは思うが、哲が理解したのは恐らくほんの一部分に過ぎないのだろう。それでも、あの時と、それからついさっきの自分の言動が思いの外秋野を傷つけたに違いないことには気付いていた。
 無意識に掴んだ自分の首筋は強張っていて、いつの間にか緊張していたのだと知れた。
「だから、悪かったっつってんだろ」
 言葉が床に落ちてそのあたりに転がっている気がする。本心からの謝罪だったが——そうは聞こえなかったとしても——言った瞬間取り返して飲み込みたくなったのも事実だった。
 お互い無言で向かい合ってやや暫く、ようやく秋野が煙草に火を点け、濃い煙を吐き出した。
「じゃあ」
「ああ?」
「じゃあ、解錠を引き受けてくれ」
「あ? ああ。いいけど——って、おい!!」
 先ほどまでの顔が嘘のようににたりと笑った秋野に向かって、哲は思わず身を乗り出した。
「てめえ、いい加減にしとけよ! 人が真面目に」
 秋野は喉の奥を鳴らして笑い、前髪を掻き上げた。
「俺だってすこぶる真面目だよ」
 テーブル越しに頬に伸びてきた指を払い除ける。秋野の笑みが大きくなり、指は懲りずに伸びてきた。
 最後の瞬間、まるで蛇か何かのように素早く動いたそれに襟元を掴まれて、思い切りテーブルに側頭部を打ち付けられた。
 視界が揺れ、一瞬目を閉じ、歯を食いしばる。テーブルに押し付けられていないほうの耳に秋野の息と煙がかかり、低い声が間近で囁いた。
「怒ってるかどうか教えてやろうか? ああ、まだ怒ってるよ。あの時、お前は勝手に俺を締め出そうとしたんだ。謝ったからって簡単に許されると思うな。俺が十代のガキみたいに傷ついたって知ったら胸がすくんだろうな。それは結構だがな、俺は自分の傷心具合をひけらかす趣味はない。自分から傷口広げるほど自分のことが嫌いじゃないしな」
 べろりと耳の中を舐められて、哲は思わず息を飲んだ。細く鋭い音がして、秋野が低い声で笑った。
「お前よく言うだろ、サド野郎って。他人の傷口抉ることに抵抗はないが、自分がされると気に障る。俺はそういう性質なんでな、下手に弄るな。いいな?」
 すごい力で押さえつけられ、下敷きになっている耳が酷く痛む。
「おい、痛えっつの!! 分かったから手ぇ——」
「この四週間、留守にしてる間にお前が消えるんじゃないかと思ったら気が気じゃなかった」
 もがいてみたが、結局体力を消耗しただけに終わった。秋野の手にさらに力が加わって、哲は痛みに低く呻いた。
「眠れないわ、頭痛と胃痛が常時襲ってくるわで俺はぼろぼろだ。女抱いてる暇があったと思うか? まあ、暇はあったといえばあったが、そんな気分じゃなかったね。全部放り出してすっ飛んで戻って来たかったが、そうもいかない事情があった。だから、つまらない冗談はやめてくれ。ずっととは言わない。少なくとも、俺に余裕ができるまでは。分かったか?」
「分かっ……」
 答えかけたのに、もう一度頭を天板にぶち当てられて言葉が途切れる。
「傷心の俺がお願いしてるんだ、せめてくだらない仕事くらい引き受けてくれたっていいだろう。どう思う? 哲」
「分かった、やりゃいいんだろ! やるって! やりますよ!」
「いい子だ」
 甘い声音で告げる間も、大きな手が頭をがっしりと掴み、押さえつけて離れない。さすがにどうやっても逃れられず、不自然な姿勢のまま唸るしかなかった。
「哲?」
「何だよ!! やるっていったろ!! 離せ馬鹿!」
「やらせろよ」
 微かに掠れた声が耳元で囁いた。秋野らしくもない下品な物言いのせいか、耳の中に呼気が入ったせいか、鳥肌が立つ。
「この……死んじまえクソ虎! 真性サド野郎!!」
「お前がかわいくてたまらんよ。俺はいかれてるな」
 相変わらず甘ったるい声で言って、秋野は哲の耳朶を軽く噛んだ。ものすごい力で哲の頭を押さえつけたまま立ち上がり、器用にテーブルを回ってくる。
 頭を押さえられたまま後ろから圧し掛かられて、テーブルの縁が胸骨に食い込んだ。
「重てえ! 退け! 人の頭いつまでも押さえてんじゃねえおいコラ!! まだアバラが痛えんだよ!!」
「嘘吐くな。四週間だぞ、もう治ってるだろ。頭に響くからぎゃあぎゃあ喚くの止めてくれるか」
 妙に楽しげに言って、秋野は哲のうなじにがぶりと噛みついた。大したことをされたわけでもないのに、身体が跳ねる。何度か噛まれる度に肩が震え、テーブルについた腕ががくがくした。首筋を舐め上げられた瞬間喉からみっともなく震えた声が漏れ、天板が一瞬曇った。
「……哲?」
 別に感じたわけではない。秋野の訝しげな問いを聞く前に自覚していた。
「何だ。どうした?」
「別に」
「何でもないって言いたいなら、答えるのが早すぎる」
 耳の後ろで低い声を出され、腕の毛がぞわりと浮いた。
「——俺が豹変すると思ってるのか? いきなり優しくなって、愛を囁き始めるとか」
 肯定はしなかったが、黙り込んだ哲の背中の上で秋野が静止し、ややあって呆れたような溜息を吐いた。
「あのなあ……」
 手がゆっくりと頭から離れたが、背中の上に乗っかられているので身動きが取れない。折れた肋骨は秋野の言う通りくっついたのか、特別痛むこともない。文句を言いかけたら肩を掴んでひっくり返され、テーブルの上に仰向けにさせられた。
 目の前に秋野の顔があり、真正面から哲を見下ろしていた。僅かに乱れた前髪が、秋野の少しやつれた顔に影を落としている。薄茶の瞳を眇め、秋野は僅かに首を傾けるようにして哲の顔を覗き込んだ。
「……何だよ、本気でびびってるのか」
 訊ねられ、酷く癪だったが正直に頷いた。認めても認めなくても、どうせ読まれているなら同じことだ。
「簡単に認めるなよ」
「何で。どっちだって同じことじゃねえか」
「——そうだな」
 秋野は哲の上からゆっくり退いた。そのままごろりと床の上に転がって仰向けになり、秋野は天井を見つめて溜息を吐いた。
 哲が上体を起こして座り直しても、秋野は哲への興味を失ったようにその場に転がったままだ。
「死んでんのか」
「死んでないよ」
 長い脚を蹴っ飛ばしたら秋野は少し笑ったが、暫くそうしていたと思うといきなり立ち上がって出て行って、哲が帰るまで結局戻ってこなかった。

 翌日——つまり今日——秋野は何事もなかったかのように哲の部屋に表れて、仕事に行くぞと哲の重たい尻を蹴飛ばした。
 プレッシャー下でのこととはいえ、自発的にやると言ってしまったのだから、今さら撤回するわけにもいかない。ドアノブを掴んで揺さぶるか、もしくは蹴飛ばしたらすぐに開きそうなドアの前で哲は何となく溜息を吐いた。解錠する前に既に落胆しているというのも我ながら珍しい話である。
「そんな顔するな」
「うるせえな。黙ってろ」
 睨みつけたら秋野は両手を上げた降参ポーズで、にやにやしながら一歩下がる。無駄を承知でもう一度睨んでおいて、目の前の錠前に向き合った。
 このタイプのシリンダー錠はそれこそ目を瞑っていても開けられるし、ちょっとピッキングをかじれば誰でも同じことができる。秋野自身、恐らくこのくらいは簡単に開けられるはずで、わざわざ依頼を持ってきた意味がよく分からなかった。
「で? 開けんのか?」
 解錠は数秒で済んでいる。哲が訊ねたのはドアを開けるか、ということだ。
「いや」
 秋野は首を横に振り、哲を促して建物から離れた。まだ陽が沈んでそれほど経っていない。元々曇天だったせいもあって、あたりは妙に薄暗かった。人通りは皆無と言ってよく、見咎められた心配はなかったが、あれでは人に見られたところで心配のしようもなかった。
「なあ、何で俺よ?」
 前を行く背中に訊ねてみる。暫く無言で歩いてから、秋野はゆっくりと振り返った。薄茶の目が少し黒っぽく見えるのは、薄暮のせいだろう。
「何が?」
「だから」
 少し先を行く秋野に追いつき、隣に並んで煙草を取り出した。歩き煙草は忌み嫌われる昨今だが、人通りもないし、そもそもこの界隈でうるさいことを言う人間がいるとも思えない。
 アパートも一軒家もすべてが古く、打ち捨てられたように手入れが行き届いていないものが多い。立ち込め始めた夕闇に紛れてしまいそうな黒ずくめの、どこか剣呑な雰囲気の秋野が違和感なく溶け込んでいるということは、住居のメンテナンスに気を遣うような住人が少ないということなのだろう。
「あんなボロ家の鍵、お前だって開けられるだろうが。何でわざわざ俺よ。鍵開けて、その後何かあるならまだしも」
「気にするなよ」
「——いいけど、別に」
「代金は今度渡す。じゃあな」
 秋野はそれだけ言うと哲の返事も待たずに踵を返し、背中を見せて歩き去った。
「……何だよ、一体」
 別にだらだらと一緒にいたかったわけでもなんでもないが、釈然としない思いで呟いた。
 昨日怒らせたのは故意ではなかった。それに、今日の様子を見る限り、秋野も根に持った様子はない。もっとも、色々と隠すのが上手い男ではあるが。
 消化不良の仕事のせいか、それとも秋野の態度のせいか。自分でも何に苛立っているのか分かりかねて溜息を吐きつつ、哲は自宅に足を向けた。