仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 17

 秋野の首に腕を回し、頭を抱く。
 喉仏を歯で擦るように愛撫され、呻きが漏れた。耳朶に歯を立て、こめかみに舌を這わせる。長い睫毛に唇で触れ、瞼の上から眼球を舐めた。
「食うなよ」
「毎度毎度うるせえな。ほんとに食うわけねえだろうが」
 吐き捨て、耳介に齧りつく。本当は、ほんとに食ってやろうかと半分くらいは思っているが。
 秋野が知っていると言わんばかりに喉を鳴らして笑い、骨に伝わる振動に思わず掠れた息が漏れた。
 悪態と煙をまとめて吐き出しながら、揺さぶられる身体と意識を真っ直ぐ保とうと努力する。右手に持った煙草の先から灰が落ちそうになって、灰皿に手を伸ばし、崩れかけた穂先を払った。
 銜え煙草のまま、背筋を駆け上がる感覚に背を反らす。背中と胸に鋭い痛みが走り、食い縛った歯の間から秋野を罵る言葉を垂れ流した。フィルターが潰れ、軋む奥歯の隙間から煙が漏れる。震える指で煙草を摘んだところで思い切り深く抉られ、思わず秋野のシャツの襟元を握り締めた。
 お互い、裸になってもいない。スニーカーと靴下はいつの間にか脱がされていたものの、秋野の膝に跨る哲のジーンズと下着は片脚に絡まったまま放置されている。秋野に至っては前を寛げただけ、おまけにこいつは靴も履いたままだ。
 服を脱ぐ間も惜しむように圧し掛かられ抵抗しなかったわけではなかったが、身体中が痛かったし、結局のところ拒むだけ無駄だと分かっていたのも事実だった。
 自分で自分が嫌になる。
 逃走に失敗し、より警備の厳重な刑務所に収監された脱獄犯か何かのようだ。煙草でも吸わなければやっていられない。しつこく煙草を要求したら、秋野は呆れ顔をしながらそれでも一本出して寄越した。
 秋野の腕が腰に回り、身体の位置を勝手にずらす。図々しく体内に居座るものの角度が変わり感じるところをまともに突いて、瞼の裏が赤黒く染まった。
「くそ——」
 哲のうなじを掴んでいた秋野の指が哲の煙草に伸びた。秋野が吐き出す煙が哲の鎖骨に纏わりつく。煙草を灰皿で押し潰し、指は元のところに戻ってきた。
 いっぱいに押し込めたものを更に深く埋める底意地の悪さが頭にくる。これ以上何ひとつ入れてくれるなと泣いて頼めば秋野は進むことを止めるだろうか。それとも持てるすべてを哲の中に吐き出して、内側から浸食しようと試みるか。
 粘つく音が絶え間なく響き、哲のささくれ立った神経を逆なでした。何度も深く突き刺され、圧迫感と快感に秋野の首にしがみつく。肩を噛まれ、尻を掴まれ突き上げられて、痛みと快感に涙が滲む。
 肋骨の痛みに酷く腹が立ち、握り締めた秋野の肩を爪で抉った。むかっ腹を立ててはいても背中の傷を避けるくらいの余裕はまだ残っていたが、それもほとんど吹き飛ぶ寸前だ。
「哲、さっき言ったことは——」
 秋野の声が頭蓋の中で何度も響く。眼窩の縁で跳ね返り、明後日の方向に突き抜ける。
 硬い腹に自分のものを擦りつけ、腹の中の硬いものに身体の内を擦りつけて、閉じそうな輪の中に及び腰で足を踏み入れる。怖い怖いと言いながらこうしているほうが結局のところ収まりがいいのだから、何にしても滑稽だった。
 哲は秋野の頭を抱え、それを肩口に押し付けて続く言葉を無理矢理止めた。
「何も聞きたくねえ」
「あのな」
 哲の肩を押しやり秋野は視線を上げる。その眼を本気で睨みつけ、哲は唸り声を上げた。
「本当に、まったく、一切、聞きたくねえ」
「お前、そんなガキみたいな」
「何でもいいからとにかく黙れ。勘弁してくれ。ほんと、やめてくれ」
 これ以上、どんな話も聞きたくなかった。愛とか恋とか、これからどうなるかとか、そんなことは今までほとんど考えたことがなかったし、今更考えたくもない。
「そうやって……」
 語を継ぎかける秋野を睨みつけ、哲は踵で秋野の腰を思い切り蹴飛ばした。
「黙れって!!」
 哲の怒声に微かに眉を寄せ、秋野は目を眇めて暫し押し黙った。
「聞きたくねえって何遍——」
 秋野の掌で口を塞がれ、もう片方の手で首を支えられて仰向けに倒されて、結局哲はその後の言葉を紡ぐことができなかった。

 

 壊れ物を扱うように横たえられたのは骨折への気遣いだろうが、その後の行為は気遣いのすべてを差し引いても強烈だった。
 腕を捕まえられて身体を引き伸ばされ、隘路を無理矢理広げられて自分も知らない身体の奥まで侵入された。身体が溶けたゴムか何かになった気がする。秋野の身体の一部が捻じ込まれる度、何かが自分の肉に揉み込まれ、練り込まれてしまうように感じて冷や汗が出た。
「これでお前が孕めば面白いな」
 秋野の低くしわがれた声が下腹を汚す体液のように耳元にねっとりとまとわりつく。
「なんつー冗談だお前……俺はカタツムリじゃねえっつの」
「そりゃそうだろう。腹の膨らんだお前なんか、想像しただけで吐きそうだ」
 当然ながら本気で嫌だと見え、秋野は顔をしかめて想像を振り払うように頭を振った。
「お前な……一体何が言いてえんだよ」
「何言いたいかは分かるだろ」
 哲は思わず乱れた髪の向こうの秋野の瞳を直視した。正面からまともに覗き込んだ瞳は金色に透けている。秋野は低く笑ったが、目は笑っていなかった。
「——萎えるからやめろ。聞きたくねえっつったろうが」
 何の前触れもなく秋野が身体を引き、内蔵を引き摺り出されるような感覚に、哲は仰け反り声にならない悲鳴を上げた。
 荒っぽく引き抜かれる度強烈に感じ、深く挿し込まれる度怒り狂って、嗄れた喉を振り絞って秋野に品のない罵声を浴びせる。
 生々しくて下品なセックス。女とするのとはまったく違う。暴力すれすれの激しさに興奮するなんて、それこそマゾだと半分諦めながら自嘲した。
 汗が顎を伝い、何もかもどうでもよくなって、秋野のうなじを掴んで握り締めた。秋野の襟足の髪が指に触れる微かな感触。それだけが意識を保つための手掛かりだった。
 この関係に愛なんてものが介在するとは思いたくない。
 本当に、嫌だった。そんなものを欲したことはなかったし、可能ならば放り出して逃げ出したかった。それでももしそれがそこに在るのなら、毒を食らわば皿までと、受け入れる外ないかも知れない。そう覚悟を決めたのは随分前の話だったが、愛情なんかを受け入れるつもりはなかったのだから、腰が引けても仕方ないではないかと胸の内に独りごちる。
 それでも、例え望んだ形でなくとも。どう足掻いてみても捨てられないなら、こうやって最後まで握り締めているしかないではないか。決して本意ではないのだと、誰に訴えたところで助けは来ない。自ら断った退路を惜しんでみても仕方がない。
 暗い部屋の中、視界に白と黒と朱色が交錯し、炸裂する。目を開けても閉じても暗闇がある。
 秋野の名を呼び、与えられたすべてを味わい奪い尽くして身悶えた。
 輪が閉じる。
 もうどうにでもなれという気分で派手に喘ぎながら、夜明けは来ないのかもしれないと漠然と感じた。一瞬このまま明けなくても構わないと思ってしまったような気がして、そんなことを考えさせた男のことを心底呪った。

 

 皺くちゃ、というのは正にこういうことを言うのだろうと思いながら、せめても届くところは伸ばそうと、秋野は爪先で布の寄った部分を押しやった。全体を見れば大した違いはなかったが、シーツの皺をひとつ減らしたことに満足して、煙草を揉み消し最後に肺に残った煙を吐いた。
 身じろぎすると、尻に硬いものが当たった。自分のものか哲のものかは不明だが、どうやらジーンズの縫い目らしい。見もせず掴んで床に放る。ごとん、と鈍い音がしたから、携帯が入ったままなのだろう。
 哲が腕を上げ自分の髪を掻き上げた。秋野に背中を向けているので定かではないが、どこかが痛んだらしく動きが止まり、その後、ちょっと驚くほどしわがれた声が下品な悪態を吐いた。
「風呂入るか」
「面倒くせえ」
 いつもの素っ気ない口調で返事を寄越す哲はこちらを向こうともしない。多分億劫なのだろう。秋野は身体を起こして哲の頭を見下ろした。目が慣れたとはいえ暗い中だ。じっと見つめているうちに輪郭が曖昧になっていく気がする。
「なあ、哲」
「何だよ」
「あの時お前何言ったんだ?」
「ああ? あの時っていつ」
「あの通り魔。あいつと何か喋ってなかったか」
「通り魔と会話なんかしてねえ」
「ほんとか?」
 返事を待って黙っていたら、哲の呼吸が徐々に遅くなった。ゆっくりした寝息が幾らか続いたところで、秋野は哲の肩を蹴った。
「おい」
「——んだよ、うるせえな……」
「まだ答えてないのに寝るな。なあ、お前ここで寝るのか?」
「……すげえ不本意だけど、無理だから」
 哲は上半身を捻って振り向き、不機嫌な顔をして秋野を睨んだ。かったるい、と顔に朱書きしてあるものの、先程まで滲み出していた凶暴さは、今は見えない。更に数秒秋野の顔に視線を留め、哲はまた身体を戻してあちらを向いた。
「どっかのエロジジイのせいで多分暫く腰が立たねえ。それにここんとこまともに寝てねえし、だから無」
 コンピューターの電源を落としたように突然言葉が途切れた。
「……哲?」
 規則正しい寝息が聞こえる。後頭部と背中しか見えないが、声をかけても反応しないし、どうやら本当に寝入ってしまったらしい。筋肉の乗った二の腕を掴んでこちらを向かせてみる。哲は目を開ける様子もなく、相変わらずの仏頂面で目を閉じていた。
「本気で眠ったのか、おい」
 鼻を摘んでみたが、動きはない。口も塞いでやろうかと思ったが、思い直して手を離した。
 セックスした後、哲が同じベッドで眠ることはまずないと言っていい。面白半分、強制的にそうしてみたことは何度かあるが、抵抗されなかったことはついぞなかった。今日は余程眠かったのだろう。まともに眠っていないというのが自分のせいならいいと思いながら、秋野はベッドから下りて浴室に向かった。
 シャワーを浴びて戻ってきたら、哲はまたあちら側を向いて眠っていた。覗き込んでみたが、不機嫌そうな寝顔は相変わらずだ。
「しかし可愛くない顔で眠る奴だな」
 哲を適当に退かしながら、寝具の隙間に入り込んだ二人分の衣服を救出する。哲のスニーカーが枕の下から出て来たので、それも放り投げて枕を直し、ベッドに入って哲の背中を引き寄せた。
 口の中で不明瞭な悪態を呟く哲を抱き、煙草臭い髪に鼻を突っ込み呼んでみたが答えはない。眠り込んでいて無抵抗でも、哲はどこまでも哲だった。骨ばっていて、誰にもなつかない野良犬のように愛想がなくて、秋野がいようがいまいが確固としてそこにある。
「なあ、何て言った? 教えろよ」
 頭の天辺に囁いて、顔を傾け、うなじに噛みつく。うー、と寝起きの犬のような唸り声がして、哲は鎖骨のあたりを力任せにばりばり掻きながらぶつぶつ呟いた。
「……鶏肉の脂肪取っとけ。あと、柚子と七味唐辛子がいるから」
「何だその寝言」
 笑いながら、秋野は哲の手を鎖骨から遠ざけ身体を抱え直した。顎に哲の髪が触れるのを感じながら、暗い天井に目を向ける。
 目が覚めたら突然元通りになっていたりはしないだろう。
 秋野が言ったことのせいで、修復は尚更難しくなっただろう。それでも、哲がどこかへ消えるよりはずっといい。先があるなら待つことは苦ではない。手の届くところに哲がいるなら、やりようは幾らでもある。
 今眠ってしまったら、いつもの夢を見る気がした。
 優しさの欠片もないが、とにかく叩き起こしてくれる哲は——どうやら久方ぶりの——熟睡中だ。夢に捕まりたくなかったら、眠らないのが最善の策らしい。明るくなったら目を閉じよう。その頃には、悪夢も気を変えるだろう。
 夜はまだ明けない。今は、まだ。
 せめて明るくなるまでは、哲を腕の中に収めておきたかった。

 

 

 どこか歪んで濁った男の喚き声も、女子高生の悲鳴も泣き叫ぶ周囲の声も、何もかもが哲の癇に障った。
 こめかみに、生え際に、脇の下に、じっとりと冷や汗が滲み出てくる。
 だが、暑かろうが寒かろうが、今の哲にはどちらでも同じことだった。アスファルトから立ち上る熱気。そして、腹の底に鉛を抱えているような不快感と激しい悪寒。
 事情も、理由も、目的も知らない。ただ、秋野を刺した目の前の男が気に入らなかった。
 殴りつけた男が仰け反って倒れそうになるところに手を伸ばし、胸倉を掴んで引き寄せた。
 男の顔がよく見えない。まるでノイズ混じりの画像のようにすべてがぶれ、眼前の男の輪郭も顔立ちも定かでなかった。異常な精神状態にあるのは男なのか、自分なのか。
 このまま秋野が失血死したとしたら?
 一瞬そんな声が聞こえ、躊躇うことなく声を打ち消す。
 そんなの知るか。
 死ぬならそれはあいつの選択、そうなったら仕方がない。秋野の人生背負う気はない。
 それより目の前の男を跡形もなく叩き潰し、引き裂いて、腹の中身を踏みつけ焼いてやりたかった。
 その間に秋野が失血死したとしたら?
 そんなの知るか。
 悪いのは俺じゃない。多分違う。
 だってそうだろう、間抜けにもこんなことで死ぬのなら、それは全部、あいつが悪い。
 男は涎を垂らしていた。哲を見ているようで見ていない眼球が細かく左右に揺れている。男のうなじに手を回し、哲は男に向かって歯軋りしながら呟いた。
「——人のものに勝手に手ぇ出しやがって、殺してやる」
 ただ傷をつけただけではない。刃物で肉を切り裂き、血を流させた。
 あいつの価値など、何一つ知らないくせに。
 男の口から甲高い声が呪文のように迸る。
「悪いのは俺じゃない俺じゃないあいつが、あの男があいつが悪いそこにいたから!!」
 何か考える前に頭突きをかましていて、男の悲鳴が鼓膜を揺らした。
 頭蓋の中にわんわんと響くのは、悪いのは自分じゃないと、他の誰かを責める男の悲鳴、ただそれだけ。
 自分の悲鳴であるはずがない。
 自分の悲鳴であるはずが。