仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 9

 走って追いかければ追いついたかも知れないが、途中で知り合いの店に寄って用事を済ませた。何も今日でもなくても構わないのは分かっている。そうしなかったのは、嫌なことを後回しにしたいという心理が働いたからに他ならなかった。
 いつかの礼に、と持たされた洋酒をぶら下げて哲の部屋に向かう。アパートにたどり着く直前、まるでご機嫌を取るために買った土産のようだと気付き、捨ててしまおうかと思ったが、勿体ないのでやめておいた。
 ゆっくりと階段を上り、薄っぺらなドアの前で数秒躊躇した。ノックするか、旧式のチャイムを鳴らすか、それともこのまま帰るべきか。結局どれも選ばず、ただドアを開けて三和土に立ち、後ろ手に鍵を掛ける。いつもと同じ哲の部屋は、いつもと同じ、哲の煙草の匂いがした。
 床に広げた新聞から顔を上げた哲は、僅かに眉根を寄せて煙を吐き出した。立ち上る紫煙に哲の瞳が一瞬霞む。その瞬間、いつもの熱がそこに立ち現われ、そして消えたのは幻だったのかもしれない。そうあってほしいという願望が起こした錯覚だったのかもしれない。幻でも錯覚でもないといいと思いながら、秋野は三和土で一歩進んだ。
「何か用か」
 発せられた哲の低い声に感情は籠っておらず、秋野を拒む響きもなかったが、それ以上のものも一切なかった。初めて会った頃の無表情。すべてを箱の中に収めて鍵をかけたような哲の佇まいに不快感が沸く。
「用がなきゃいけないのか」
「……用がないなら何でそこにいるんだよ、あんた」
 身体中の血が一気に下がった気がした。
 胃がしこったようになり、無意識のうちに息を詰める。
 あんた。
 そう呼ばれたことに愕然とし、そして同時に頭に来た。
 ここ数年で感じた中でもっとも激しい怒りが目の前を一瞬黒く塗り潰し、指先の感覚を束の間奪った。瞬間的に戻った視界と感覚が、怒りの声すら奪い去った。
 フローリングを模したクッションフロアの床に袋に入った酒瓶を投げ出した。割れなかったとは思うが、正直そんなことはどうでもよかったし、その瞬間には意識していたとも思えない。
 土足のまま上がり込み、床に広げた新聞に屈み込んでいた哲の脇腹を蹴り飛ばした。
 転がった哲の肋骨を再度蹴り上げておき、哲に背を向け飛んだ煙草を靴底で踏み消す。床が焦げたが、火事になるよりはいいだろう。
 哲が飛び起きた気配がする。歯の間から漏れる威嚇の呼気、襲い掛かりかけ、寸前で秋野の傷のことに思い至り、躊躇した気配。哲自身が己の躊躇に気付く前に、秋野はバックブローを振り抜いた。
 顎に当たった感触が手の甲の骨を揺らす。哲の口から濁った呻きが漏れ、振り返った秋野から数歩下がって膝を折った。睨みあげる目の焦点が僅かにずれている。軽い脳震盪を起こしたかもしれない。いつもならほんの少し加減をしてやろうと思うのに、今はそうは思えない。
 片膝をついている哲に大股で歩み寄る。右の二の腕を掴んで固定し、掌でこめかみを強く殴った。哲が暴れ、掴まれたまま立ち上がった。足の甲を向こう脛にまともにぶつけられ、痺れるような痛みに一瞬涙が滲む。
 拘束された腕を振り解こうとして果たせず、哲は秋野に詰め寄った。顔がぶつかりそうなほど近寄り、右の拳で秋野の肝臓を打つ。腕を掴んでいて威力が半減していなければ、腹を押さえて悶絶していたかも知れない。
 哲は顔を上げ、目をぎらつかせて秋野を睨んだ。歯を剥き、奥歯の間から低い唸り声を押し出して、まるで獣だ。さっきまでの無表情とはまるで違う。間近で見る恐ろしい形相に歓喜するのは、世界広しと言えども多分自分だけだろう。
「寝てたのか」
「ああ?」
 凄んだ声は低く、ざらついていて凶暴な響きがあった。
「ようやく目が覚めたって顔だ」
「ぐらぐらするぜ、てめえのせいで」
 頭を振り、哲は床に血の混じった唾を吐いた。
「俺が目に入らないって顔だったから、こっちを向いてもらいたくてさ」
 ふざけんな、と呟く哲が秋野の脛を蹴る。
「入ってねえんだよ、元々」
「ご挨拶だな、おい、錠前屋」
 秋野は哲の腕を掴む指に力を籠めた。掴まれた哲の腕にも力が入って筋肉の束が浮き上がる。背中側に回すように、捻るようにすると哲の眉間に皺が寄った。
「なあ、何がどうなってるんだ?」
「何がだ」
「耀司が言ってたよ。お前は自分から顔を見せないだろうって」
 突然我に返ったように、哲の瞳から獣じみた色がすっと消えた。憑き物が落ちたかのような鮮やかな変化に面食らったが、辛うじて手は離さなかった。
「そうなのか? 一体何がどうなってる」
 狭くて散らかった部屋の真ん中で、何を話しているのだろうと思う。閉じられたカーテンの向こうはいつもと変わらない夜のはずだ。哲の身体から力が抜け、秋野の加える力に抗っていた腕の筋肉も弛緩した。
「哲——」
 戦う気のない相手を押さえつけても意味がない。自然と緩んだ秋野の拘束からするりと逃げ出し、哲は二歩下がって秋野の足元に目を向けた。
「土足で上がんじゃねえよ、馬鹿野郎」
「悪かったよ。気になるなら拭いてやるから雑巾寄越せ。そんなことは後でいい」
 哲は顎をさすって顔をしかめた。
「耀司は自分のせいだって言ってる。自分がお前を詰ったからだってな。俺の周りに気を遣って身を引くとか、それは真面目な話か?」
「真面目な話だ」
 哲は小さく肩を竦め、表情のない目で秋野を見た。
「耀司の言う通りだ。俺にだって良心はある。お前を放置して失血死させたら、色んなやつが泣くだろうが。また似たようなことがあったら同じことになる。そうなっても俺は責任取れねえってことに気付いただけだ」
「哲」
「話は終わった。これで仕舞いだ、帰れよ」
 呆気ない幕切れだ。
 案外と冷静に、そんなことを思った。
 愛ではない。恋ですらない。それでも、執着は特別な何かのはずだった。なくても生きていけるけれど、簡単に手放す気にはなれない何か。だが、人と人との関係は、相手の感情を斟酌しないと言いはしても、結局は相手あってこそだ。
 これでおしまい。
 物語の最後のように、簡単な言葉で終わらせられるささやかな何か。哲にとって、自分との関係がその程度だったのだとは思わない。だが、何が理由だったにせよ、哲はあっさり終わりと言ってのけた。
 暑いのか寒いのか、不快なのか無感覚なのか。不意にすべてが曖昧になり、背中にじっとり汗をかく。治りきっていない傷が引き攣れ痛みが走る。
 俺が刺されたのが悪いのか。どうしてだ。
 悪いのは、俺じゃない。
 目の眩むような怒りと焦りと痛みが身体の中心を駆け上がった。腹の底からせり上がる何かに背骨が折れそうな圧迫感を感じる。絶対に手放すものかと、自分勝手な決心で頭がいっぱいになった。秋野の目を見た哲が怯んだのを感じ取る。自分の表情は見えないが、哲の顔を見ればどんなものかおおよその見当はついた。
「俺が納得できるように説明できないなら受け入れない」
 息継ぎせずに言い終える。哲が眉間に皺を寄せ、秋野から目を逸らす。
「今説明したろうが」
「そんなまともな理由が、お前の本心とは思えない」
「お前がどう思おうと俺の知ったことかよ」
 目の前が赤くなり、耳の奥で血が逆巻いた。秋野は哲を睨みつけ、低くしわがれた声を絞り出した。
「いいか、お前がどこへ逃げたって俺は追いつく。嫌だって泣き喚こうが、知らん。チャンスはやった、それも何度もだ。覚悟が足りないって俺を怒鳴りつけたのはどこのどいつだ!? 今更俺を放り出そうなんて承知できるか、畜生!!」
 秋野は吼え、壁を蹴った。
 大半は子供の頃に覚え、軍人くずれのアンヘルにダメ押しされた下品で多彩な悪態を無意識のうちに吐き散らす。まくしたてるそれが四ヶ国語のちゃんぽんになっていることにも気付かなかった。秋野は哲の胸倉を掴んで引っ張り上げ、何かが見えはしないかと、哲の瞳の奥を覗き込んだ。