仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 10

 チャイムが鳴って、それと同時にドアノブが回る。
 秋野が哲の胸倉を掴んでいた手を離した。濃い金色の斑紋が数えられるくらい間近にあった薄茶の瞳が遠ざかる。金色と茶色、鳶色が入り混じったそれは、哲から離れ、音のする方へ向けられた。
「あれ——哲、いるのか?」
 ドアの向こうから聞こえてきた胴間声は川端のものだ。
「今開ける」
 答えると、哲が動く前に秋野が玄関に向かい、三和土に下りて鍵を開けた。秋野の向こうに見える川端はいつものよれよれのディオールを小脇に抱え、紙袋をぶら下げて立っていた。
「おお、何だ、あんたかい……おいおい、何だ。何かあったのか」
 陽気な口調が突然変わり、川端は秋野と部屋の中の哲の顔を交互に見た。哲からは秋野の背中しか見えないから、どんな表情を浮かべているのかは分からない。
「いえ、別に。どうぞ、俺は帰りますから」
 低く穏やかな声で告げると、秋野は振り返らずそのまま去った。
 川端が避け、できた隙間からするりと抜け出る。廊下を歩く音も、階段を下りていく音もしなかった。
「哲……」
「突っ立ってねえで入れば?」
「悪いことしたな、突然来て。知り合いと会ったら解錠の仕事を頼まれたもんだから。近くに来てたんで寄ってみたんだ」
 川端は後ろを振り返りながら玄関に入ってドアを閉めた。
「別になんともねえよ。あいつは帰るとこだったし」
「何かあったのか。ん? 何だ、ざらざらしてるなあ、この床」
「ああ、土足で上がってった野郎がいてよ。避けといて。拭くから」
 訝しげな顔をする川端を追いやり、洗面所から古いタオルを出してきて台所で濡らす。秋野が立っていたところには靴底から落ちた砂が散っていた。大した量ではないが、靴を履かずに踏めば一粒だって気になるものだ。それに、自分が吐いた血もあった。
「じゃあ、これは置いておくぞ。急がないっていうから、気が向いたらやってくれ」
「今やっちまってもいいけど、おっさんが待てるなら」
「ああ、俺は構わんよ」
 よっこらせ、とでかい声を出しながら、川端が床に腰を下ろす。胡坐を掻いているが、突き出た腹のせいでいまひとつ尻の据わりが悪そうだ。
「何だ、哲。お前手怪我してるのか」
「ああ? あー、ちょっと」
「転んだとか言ってくれるなよ、突っ込むしかないぞ、その言い訳は」
「腹減ったから齧った」
「あのなあ」
 川端は渋い顔をして煙草を取り出し、床の上の灰皿を引き寄せようと前屈みになった。しかし、必要以上に出っ張った腹が邪魔くさいらしく、起き上がり小法師のように前後に揺れている。
「おっさん、無精しないで立って取れよ」
「一旦座ったら立ちたくないのが人間だろう」
「立ちたくないんじゃなくて立てないんじゃねえの? だから腹が出んだよ、まったく」
 腹を叩く川端の前に灰皿を押しやって残りの床をさっと拭い、タオルをシンクの中に放り込む。川端の傍に戻って紙袋を受け取った。
「明日でいいんだぞ」
「やるって」
「そんな手でか」
「別に——」
 傷のことを言っているのだと思った。今は治りかけだから、関節を外したまま解錠したときに比べればどうということはない。そう答えるつもりで紙袋を掴む自分の右手に目を向ける。
「…………」
 細かく震える右手から、川端へと視線を移す。川端は煙を吐き、ゆるく首を振った。
「止められんなら、やめとけ」
 哲は紙袋を床に置き、持ち主の意に反して震え続ける右手に低く毒づいた。

 

 手の震えはなかなか治まらず、哲は結局その日の解錠を諦めた。急ぐ仕事ではないというのに無理矢理済ませることもない。それに、せっかく治まった痙攣がまた始まったら、癇癪を起してしまいそうだった。
 明日取りに来ると言っておきながらなかなか腰を上げない川端に根負けし、哲は傷を負った顛末を語ることになった。
「そうか。お前、あの場にいたのか。しかし、それとさっきのあれは何の関係があるんだ?」
「あれって何だよ」
「仕入屋の顔だよ」
「いつも通りだろ、顔は」
「哲、お前なあ」
 川端は溜息を吐き、缶を持ったまま人差し指を振った。
「仕入屋の目、あれは尋常じゃなかったぞ。一見なんでもない顔して歩いてったけどな」
 哲は川端の太い指から目を逸らし、秋野が立っていたあたりに目をやった。何の変哲もない床。何の変哲もない古ぼけたアパート。いつもと違うところは、秋野が放り投げたところに転がったままの洋酒の瓶以外特にない。
「あの野郎に関わるのを止める」
 川端は何か言いかけた口を開いたまま、哲の顔を凝視する。その顔がおかしくて思わず笑い、哲は火を点けないまま持っていた煙草を何となく床に立てた。
「そうするほうがいいと思ったから」
 パッケージから次々と煙草を取り出し、床の上に立てていく。白い棒が床から突き出ているように見え、つまらない部屋が少しだけ面白味を持ったような気がした。
「……お前がそうしたいならそうすればいい」
「ああ」
 川端が床にビールの缶を置く。振動で煙草が揺れ、端の一本がすぐに倒れた。目を凝らすと、煙草の下に拭き取りきれず残った砂が落ちていた。手で払って置きなおすと、今度はきちんと直立する。
「じゃあ、明日な」
 よっこらせ、という掛け声とともに腰を上げ、川端は帰って行った。ドアが閉まり、川端の背中が見えなくなる。階段を下りる重たげな足音が遠ざかり、そして何も聞こえなくなった。
 お前がそうしたいなら、と川端は言った。だが、別にそうしたいと望んでいるわけではない。そうするのが一番いいと思っただけだ。
 煙草を一本ずつパッケージに戻し、最後に置いた一本を残して哲は手を止めた。
 耀司に話したことは、半分は嘘だった。秋野が死んでも仕方がないと考えた、それは事実だ。だが、そのことで秋野を大事に思う誰かが傷つくとか、責任云々とかいうのはほとんど作り話だ。
 耀司は分かっていないだろうが、自分はそんなまともな人間ではない。ただ、そういうものが、誰もが納得しやすい、理由らしい理由に違いないと思っただけだ。
 あの時秋野を顧みなかったことで、秋野を取り巻く様々な人々、そのうちのほんの一握りの人にさえ、自分は配慮できないのだと知った。あるのは己の執着だけ、自分がどうしたいかというだけだ。本当に関心を持っている相手はただ一人、自分には秋野しか見えていないと思い知らされた。
 大分前から自覚はしていた。だが、ここまでとは思っていなかった。
 哲は、秋野を作り上げた過去、その要素のひとつひとつには興味がない。
 とはいえ、何もないところから今の秋野が出来上がったわけではない。過去から現在に至るまで、大勢と関わり合っているからこそ今の秋野が存在している。だから、自分たちを取り巻くすべてのことを拒絶して、二人しかいない世界に閉じこもりたいとは思わない。
 それなのに、このまましたいように行動すればいつかそういう結果を招くのが見えた気がした。
 半ば確定されたようにすら思える、その閉じられた未来が怖かった。
 人は変わる。当たり前のことだから変化が悪いとは思わないが、哲だけを見る哲だけの秋野になってしまったとしたら、それは本来の秋野が壊れてしまうことと同義に思えた。そう思い至った途端、怖くなったのだ。
 秋野のために身を引くというのとはまるで違う、自分勝手な怯えだった。
 秋野しか目に入らない。あの男にしか本気で興味を抱けない。他人に、秋野本人にすら言えないくらいの空恐ろしい程の執着が、いつか秋野の何かを損ねるかも知れないと思うと堪らなかった。
 自分が何かを失うのは別にいい。自業自得だから構わない。だが、哲のありようが秋野に何かを強要し、そうして結果的に壊すなら、今の秋野が変わるなら、いっそ近くにいないほうがいいに違いなかった。
 そこまで考え、哲は自分の思考に苦笑した。
 まったく、いかれていると思う。この数年で、引き返せないところまで来てしまったことを改めて自覚した。そんなふうに思うのはどこか馬鹿馬鹿しくて、同時に妙に腹立たしかった。
「あのくそったれがいなくたって、死にゃしねえ」
 床の上の煙草を戻し、寝転がる。くすんだブルーと白のパッケージを眺めても、煙草の銘柄以外、何も見えてはこなかった。哲はパッケージを放り投げ、うつ伏せになった。
「——ただ死にそうな気分ってだけで」
 床に頬をつけてみると、目の前に小さな砂粒が見える。秋野から遠ざかると決めたことが、まるで足の裏で感じる一粒の砂のように哲の胸の内にひっかかった。