仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 8

「よう」
 居酒屋の前に立つ秋野に目を向け、哲はごく当たり前の顔でそう挨拶した。
「佐崎さん」
 そう言ったのは秋野ではなく、服部とかいうバイトの子だ。
「あっ、こんばんは!」
 哲に続いて店から出てきた大学生はぱっと笑顔になって頭を下げる。就職活動のために黒っぽく変えた髪の色はそのままのようで、前より幾分大人びて見えた。
 服部はまだ紺のTシャツに黒い前掛けという格好のままだが、哲は私服だ。以前の哲は閉店まで店に詰め休みは日曜というのが決まりだったが、従業員が増えたので最近は早上がりの日が増え休みも週に二回になった。服部が抜けたらまたどうなるのか分からないが、それまではまだ時間がある。
「こんばんは。今日は遅番?」
「はい! そうなんです。あ、佐崎さん、池田さんがちょっと聞いときたいことがあるって。茄子が何とか」
「ん」
 踵を返して店の中に戻った哲を見遣った秋野に、服部が声をかけた。
「これから、飲みに行くんですか?」
「うん、まあ……あいつが行くって言えば」
「そうなんですね」
 服部はちょっと笑い、秋野と目が合うと不意に笑顔を引っ込めた。
「あの、佐崎さん、何かあったんですか」
「何かって?」
 俺に愛想を尽かしたらしい、という他に?
 自虐的な台詞は口に出したところで仕方がない。それに、耀司が伝える哲の話がもし真実ならば、愛想を尽かされたというのは間違いになる。
 服部は曲がってもいない前掛けをいじくりながら、ええと、と呟いた。
「右手怪我して一週間くらいお休みしてたんですよね。お休みしてた間に一回だけ会ったんですけど……電話したら飯食うかって言ってくれて」
「へえ」
 多分、秋野が輪島に安静にしていろと言い渡され、診療所に寝泊まりしていた期間だろう。
「結構、酷かったです。どうしたんですかって聞いたら、ぶつけた、って。佐崎さんがそれ以上言いたくないんだって思ったら、それ以上訊けませんでした」
 耳につけたピアスのうちの幾つかがネオンを反射してきらきら光る。この子は芯から真っ当で、心根の素直ないい子なのだと改めて思い、わけもなく彼や耀司が羨ましくて堪らなくなった。
「詮索するつもりはないんです。でも、危ないことに巻き込まれたりしてなかったらいいなと思って」
「最近会ってなかったんで、俺もよく知らないんだ。聞いておくよ」
 服部はほっと息を吐き、お願いしますと頭を下げた。哲は以前、この店で暴れた山城というチンピラを暴力で追い払ったことがある。哲の凶暴な部分が普段の生活で接する人々に披露されることはまずないのだが、服部はそれを目撃している。だから、拳の傷に不穏なものを感じたのだろう。
「何こんな野郎に頭下げてんだ、お前は」
 店から出てきた哲が顔をしかめ、服部の頭を平手で叩いた。
「勿体ねえことすんな、さっさと店戻れ」
「はい! お疲れさまでした!」
「おう」
 叩かれたのに嬉しそうな服部に手を上げ、哲はさっさと歩き出す。店に背を向けながら秋野に一瞥をくれはしたが、物に向けるそれと変わらぬ温度に腹の底がひやりとした。
 黙って哲の背を追って、一歩後ろを歩いてみた。筋肉はついているが、服を着ていると痩せて見える。秋野は目の前の決して広いとは言えない背中を追いながら、声をかけてくる顔見知りに適当な返事を返した。
 哲の背中が、秋野を拒んでいるならまだよかった。寄るな、失せろと面罵されれば理由を問える。だが、まだ賑やかな通りを歩いて行く哲はあくまでこちらに無関心で、秋野がそこにいることすら、気付いていないかのように遠かった。
「アキ!」
 意識する前に足が勝手に急ブレーキをかけ、つんのめりそうになった。振り返った秋野の背後、数メートル先から駆け寄って来たのはチハルだった。
「チハル」
「具合、もういいのか」
 皮肉も嫌味もない、素直な台詞に面食らった。そんなことで驚くのもおかしな話ではあるが、過去にチハルと穏やかな会話が成立したことがあったかどうか。驚いて固まる秋野の背中からふと気配が消える。哲が秋野とチハルを置いて歩き出したのだ。
「哲」
 声をかけたら肩越しにこちらを振り向いたが、それだけだった。目はまるで物を見るように秋野の上っ面を撫でて逸れて行く。歩み去る哲を追いかけたいと思ったが、チハルを置き去りにするわけにもいかず、振り向いた。チハルは一瞬棘のある表情を見せたものの、自制したらしくすぐに冷静な顔になった。
「悪い、呼び止めて」
「いや、構わんが——どうした」
「その……」
 言い淀み、チハルは長い睫毛を伏せた。随分しおらしく見えるが、長年チハルの性格に悩まされてきた幼馴染としては一時的なものと判断せざるを得ない。それより既に開いた哲との物理的な距離が気になった。遠ざかる気配に、この場に立ち止まっていてはいけないと感じたが、仕方がない。
「怪我したって聞いたんだけどよ」
「ああ」
「ごめん」
「何がだ」
 まさか、謝罪を耳にするとは思わなかった。チハルは周囲を気にしてか声を潜めた。
「お前刺した奴……俺の商品使ってたって——聞いたんだろ、あいつに」
 あいつ、というのは耀司ではあるまい。恐らく哲のことだと判断して、秋野はいや、と首を振った。
「聞いてない」
 話は聞いたが耀司からで、哲からは何ひとつ聞いていないのだから嘘ではない。
「……そうなんだ」
 気の抜けた声を出すチハルは随分無邪気に見えた。もっとも、歪んでいるところはあるが、チハルは老成しているとは言い難い。子供じみているといったほうが真実に近いから、驚くべきことではないかも知れない。まだ人通りの多い道の脇で、通り過ぎる人間の頭を見ながらそんなことを考えた。
「どうせ色んなとこから耳に入るだろうから、俺から説明しなくてもいいんだけどよ」
 この期に及んで逃げるのか、と思ったが、寸でのところで思い留まり口を噤んだ。今までは見えなかった幾ばくかの躊躇いや罪悪感が、明滅するキャバクラの看板の電飾に照らされ浮き上がる顔の中に見えたからだ。
「俺、そんな急に考え変えられねえし」
「何の話だ」
「でも、クスリは、扱うの止めようかと思ってんだ」
 早口で言ったチハルの耳が赤くなった。昔から、自分が悪いと分かっていながら意地を張るようなとき、泣きだす寸前で堪えているとき、こいつは耳を赤くする。子供のころから変わらないのだと思ったら、秋野の頬もふと緩んだ。
「そんな、すげえ利益上がるってわけじゃねえし……いや、数さばけばいいんだけど、あんまり派手にやるとまたうるさく言われるし、それも面倒だっつーか、今回は迷惑かけたし。だから、その」
「ああ」
「——今更だけど」
「今更ってことはないだろう。さっさと止めろって何回言ったと思ってる」
 癇癪を起こさないだけ随分進歩だ。言い返しかけたのだろうが、口の中でもごもごと言うだけに留め、チハルはアスファルトに目を落とした。まるでそこに何か面白いものがあるかのように視線を向けたままだ。
「今更、なんだけどよ」
「だから——」
「これ以上、お前に嫌われないようにすっかなと思って」
 おかしな声が出そうだったので、息を飲み込み、口を閉じた。チハルは耳も顔も真っ赤にして何やら意味の分からないことを呟くと、唐突に背中を向けて去っていった。
 チハルの口元には薄い黄色と青のまだら模様になった痣があった。哲に殴られた痕に違いない。一体何を言われたのか知らないが、チハルの変化は、チハル自身にとってはいいことなのだろう。秋野自身はそれこそ今更チハルと関係修復する必要性を感じないが、嫌かと問われればそういうこともない。幼馴染であることに違いはないし、嫌いな人間が増えるより、付き合いやすい人間が増えることに否やはなかった。
 今まで、多分何があっても変わらないだろうと思い込んでいたチハルの態度、そして哲との関係。拒絶されることも無視されることも本気で想像したことはなかった傲慢に改めて気付く。
 チハルとの関係が改善されたとしても、哲とのそれが壊れたとしたら。自分にとって、それは差し引きゼロには決してならない二つだった。
 とうに見えない哲の背中を追うように足を踏み出し、秋野は重く長い溜息を吐いた。