仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 7

 タレに浮く白い点々——固まり始めた脂——の数を数えながら、秋野は二本目の煙草をくゆらせた。
 焼き肉屋の店内は、騒がしいとまではいかないものの、客の笑い声、店員が厨房にオーダーを告げる音、食器の触れあう音や何かに満ちていて静寂とは程遠い。
 その店の中で、秋野と耀司の周りにだけ、音がない。
 無音というわけではないが、少なくとも会話はなかった。無煙ロースターに紫煙が吸い込まれて行くのを見つめながら、耀司の声も吸引されてしまったのではないかと秋野は訝った。

「全快祝いには早いけど」
 そう言って耀司が秋野を誘ったのは焼き肉屋だった。耀司の勤めるゲイバーの客が数ヶ月前に始めたというその焼肉屋は小奇麗で、いかにも若者が好みそうな雰囲気だった。カップル客も当て込んで、煙と匂い対策にこだわったらしい。食事券を貰ったからご馳走すると笑う耀司と一緒に店に入ったときは、こんなふうに気まずくなるとは思いもしなかったのだが。
「黙ってちゃ分からん」
 煙草二本分の沈黙の後、秋野は溜息と一緒に吐き出した。
「いつまでそうやってるつもりだ。子供じゃあるまいし、何も言わなきゃやり過ごせるとは思ってないんだろう」
 耀司は、既に氷が融けて薄くなった酒のジョッキをおしぼりで拭い、たたみ、テーブルを拭いて唇を噛んだ。
「……うん」
「とっとと吐けよ」
「秋野、ドラマの刑事みたいだ」
 少しだけ笑い、耀司は視線を上げて秋野の顔を見た。
 ついさっきまでは酒のせいで上気していた顔が今はどちらかというと青白い。機嫌よく飲み食いしていた耀司が突然こんなふうになったのは、耀司自身の発言が原因だった。
 最近哲と会っていない、と秋野が言ったのに特別な理由はない。ペーパーナプキンを取ろうと手を伸ばしたら、抜糸が済んでいない背中の傷が引き攣れた。それで、何となく思い出したから口に出したというだけである。
 用事がなければひと月顔を合わせないことくらい珍しくもない。だが、今回は見知らぬ男に刺されてから一度も顔を見ておらず、まったく見舞いに来ないというのも、どこか不自然だと思ってはいた。とはいえ、秋野にかかずらってはいられないほど忙しいということもあるだろうと思っていたし、耀司に返事を求めてのことではなかったのだ。
「あ——ちょっと、調子が……っていうか、その」
 突然言葉に詰まった耀司は、秋野に見つめられてしどろもどろになり、口に入れかけていた肉をタレに戻して箸を置き、また取り上げて再度置いた。
「……何隠してる」
 幼い頃から知っている耀司に対して、感情の発露を遠慮することはほとんどない。多分脅しつけるような口調になったのだろう、耀司が怯んだ顔をして目を逸らした。そうして秋野が煙草を二本灰にする間、耀司は黙り込んでいたのである。

 

 肉の焼ける匂いの中でそれ以上話を続ける気にはなれず、秋野は耀司を促して店の外へ出た。
 すぐ近くにある古いバーに入り、煙で煤けた壁と同じくらいくたびれたマスターにコーヒーを頼む。酒を頼まなくても嫌な顔をしないどころか、コーヒーを淹れることが好きらしく、歓迎される。そのせいか、深夜になるとバーの癖に何故か喫茶店の様相を呈するのだが、今は宵の口のせいか、他にはカウンターで酒を飲んでいる客が二人いるだけだ。そこまで好きならどうしていっそ喫茶店に転身しないのか。その辺りはよく分からないが、コーヒーでは儲からないとか、何か理由があるのだろう。
 脚が歪んでいるのか据わりが悪いテーブルに置かれたコーヒーは、水面が少し斜めになって見える。
「それで?」
「……手が、痛いんじゃないかと思う」
「何だって?」
 何を言っているのか分からず問い返すと、耀司は観念したらしく長い息を吐いた。
「右手、怪我してるんだ。もうそろそろ治ったと思うけど、色々言われたくないんじゃないかな」
「右手」
「少なくとも、お前よりは軽傷だよ」
 だけどね、と付け加え、耀司はコーヒーカップを手に取った。口はつけず、カップの中身を眺めている。
「なんて言ったっけ? あの容疑者。ニュースで見ただろ、秋野も。意識不明の重体だって。哲が殺しかけたからなのは見てたよな? それで手、怪我して」
 確かに、哲が本気で男を殴っていたのはよく覚えている。痛くて暑くて最悪な気分ではあったものの、記憶が飛ぶほどの傷ではなかった。
「関節外れただけだって言ってた。だけど、ここんとこ、皮ずる剥けになって、そんで、少しよくなったとこでまた殴ったりしたから」
「誰を」
 秋野が出したやわらかく低い声に、耀司が泣きそうな表情を浮かべてコーヒーカップを握り締める。こういう声を出すときの秋野が一番怖いことを分かっているからだ。
「……近野さんだよ」
「チハル?」
 思ってもみない名前に、秋野は銜えた煙草に火を点けかけて手を止めた。
「何であいつの名前が出てくる」
「容疑者がラリってたんだって。どうせ、ニュース見てないんだろ」
 薬、という言葉とチハルの顔が結びついて合点がいった。チハルは自分では使わないが、未だに違法な薬を売りさばいているらしい。
「哲から聞いた。神田さんに呼ばれて、事務所に行ったって。誰かが、哲と話したいって神田さんに連絡したらしい。神田さんもそれが誰か知らなくて、それで実際会ってみたら近野さんだったんだって」
「それで、あれがチハルを殴ったのか」
「そう聞いた」
 耀司が頷く気配がする。先ほどまでの耀司のように黒い水面を見つめながら、秋野はいささか妙な気分になった。哲がチハルを殴る理由がよく分からない。そして、チハルがわざわざ、自分が薬を売ったと伝えたわけも。
「何で、そんなこと」
「どっちがだよ」
「どっちもだ」
「……普通に考えればいいんじゃないの」
 コーヒーから立ち上る湯気が顎をくすぐる。香ばしいコーヒーの香りがやたらと鼻につく。
「直接の原因じゃないかも知れないけど、近野さんに非がないわけじゃないだろ。だから哲は腹立てたんじゃないのか。近野さんだって、責任感じたから哲に連絡取ったんじゃないかと思うけど」
「……」
 真っ当な意見だが、果たしてそれが哲とチハルに当て嵌まるのか。黙り込んだ秋野に声をかけず、耀司がコーヒーを啜る音がする。ソーサーにカップを置く音が、ほんの少しだけ乱れた気がした。顔を上げ、耀司に視線を向け直す。薄暗い店の中でそれでも一番明るい天井の照明が作る影がその顔に落ちていた。
 秋野はついいつまでも子供だと思ってしまう男の顔を見下ろした。店内で一番明るい照明が上からその顔を照らす。猫のような大きな目は、幼い頃は彼を女の子のように可愛らしく見せていたものだ。今となっては大きな瞳も男っぽくなった顔にぴたりと嵌り、女っぽさは——女装しているときでさえ——僅かも見当たらない。
「他にもまだ何かあるんだろう」
 耀司の顔が強張って、カップを掴む指の先が微かに震える。
「手の怪我見せたら秋野が騒ぐから、会いに来なかったんだと思う」
「それはさっきも聞いた」
「だから——」
「いい加減にしろ」
「秋野」
 零れ落ちた声が小さく、掠れる。湯気とコーヒーの香りが耀司の声を隠すように、薄暗くて古ぼけた店の調度の表面を這った。
「——哲から秋野に会いに来ることはないと思う。電話してくることもない」
「何で」
「手が治っても」
「何だ、それは」
「お前の傷が治っても」
「耀司!」
 思わず荒げた声に店の中にいたすべての人が数秒秋野を注視し、また目を逸らした。元々静かだった店内に張り詰めた静寂が漂い、少し時間が経つうちに、コーヒーの湯気のように何となく薄れていった。
 口を噤んだ秋野を見る耀司の顔が青いのが、薄暗い店の中でもはっきり分かった。怒鳴りつけたからなのか、それとも見ているほうが青くなるくらい俺は顔色を失っているのかと、そんなことを考える。
 火を点けないままの煙草は気付けば掌に握り込まれて曲がっていた。折れてはいないから吸えるだろう。軽く伸ばして銜えたフィルターを、火を点ける前から無意識に噛み締めた。
「何でそんな話になってるんだ。そもそも、何で俺に直接言わないんだ、あれは」
「それは分かんないよ」
 耀司が悲しげな顔でゆるゆると首を振る。
「俺が悪いんだ」
 今にも泣きだしそうに顔を歪め、耀司は秋野の顔を見た。
「多分俺のせいだよ。ごめん、秋野」
「……何だか分からんが、お前のせいってことはないだろう。来ないっていうなら、それは哲が自分で決めたからじゃないのか。誰かに何か言われてほいほい言うこと聞く男か、あれが」
 コーヒーカップの表面を撫でるような耀司の仕草は、どうしていいか分からないからだろう。ようやく口を開いた耀司の出す声は、酷く掠れて震えていた。
「とにかく、俺が原因なんだよ」
「だからどういう意味だ、それは」
「あの時、お前が死んでも仕方ないって思ったって」
 秋野が眉を上げると、耀司は縋りつくようにカップを掌に包んで握り締めた。
「お前は特別なんだって言ってた。だからあの時お前を刺したあの男を殺すことしか頭になくて——それで、自分はそういう人間だから、責任持てないから、俺とか利香とか、とにかくお前を大事にしてる人に悪いから、お前に関わるのはもう止めるって」
 思いがけず頭蓋の奥に痛みが走り、息が詰まった。哲が何をどう思おうと構わないと思っていた。今も基本的にその考え方に変わりないが、関わるのを止めるというその言葉を、人伝に聞いたことが酷く応えた。
 哲が秋野に何も言わないということには、多分哲なりの理由があるのだろう。言いづらいことを人に言わせる、それは哲のやり方ではない。だが、哲の真意は想像の埒外にある。大体、いくら考えたところで他人の腹の底など分かるはずもない。
 耀司が伝える哲の話は確かにもっともらしかったが、それが哲の本心かどうかは分からなかった。
「会って話してくれるだろ、哲と」
 秋野が頷くと、耀司は煙草を捻り潰す秋野の手元に目をやった。
「俺、哲は絶対秋野を裏切らないって思ってた」
 秋野は視線を上げたが、耀司は秋野ではなく吸殻を見つめたまま呟いた。
「それは今も変わんないよ。これは裏切りじゃない。だろ?」
 秋野は頷き、財布を取り出しながら立ち上がった。耀司が顔の前で手を振り、財布ごと秋野の手を押しやって行けと促す。しかし、財布から札を抜いてテーブルに置き、耀司の方へ押しやった。
 たかが数百円にこだわったわけではない。ただ、数秒でも構わないから、哲と会うのを遅らせたかった。哲と初めて顔を合わせて既に数年。初めてのことだった。