仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 6

「ササキくーん」
 確かタエ、という名前の、バイト先の近くにあるキャバクラのキャバ嬢が、コンビニの前で背伸びしながら手を振っていた。たまに店に飯を食いに来るから顔見知りだが、タエというのが本名なのかどうかも知らない。
「よう。何してんだ。こんなとこで客と待ち合わせか」
「違うよう。ササキくんが来たら、一緒にお散歩してってお客さんが」
 哲は眉を上げ、タエの顔を見た。しかし、タエはにこにこ笑うばかりで、事情を知っている様子も——更に言えば、疑問に思っている様子もまったくなかった。
「まあ、いいか」
「え? 何なに? 何がいいのぉ?」
「何でもねえ。じゃあ一緒にお散歩すっか」
 苦笑し、哲はタエについて歩き出した。

 

 タエに連れて行かれた別のコンビニの前では、見知らぬ大学生が待っていた。それから三人案内役が交替し、着いた先は数年前に潰れたラーメン屋だった。普段、人の出入りがないのだろう。枠が歪んだのか油切れなのか分からないが、引き戸はぎいぎいと軋み、随分長い間開けようとする力に抵抗した。
 いい加減帰ってやろうかと思った頃、内側から引き戸が開き、「コツがいるんだ」という声と共に、男の不機嫌面が現れた。
 秋野とレイの幼馴染、近野千晴。以前、人を雇って哲を拉致した男だ。あの後顔を合わせたのは中華料理屋で一度。今回で通算三度目である。確か前回は空気か何かと同じ扱いをされた気がする。要するに、無視されたのだ。
 店を畳んでから随分経つだろうに、建物からは未だに食べ物屋の匂いが抜けていなかった。仏頂面のチハルに促され、カウンターの前に並ぶ、僅かに歪んだスツールに腰を下ろす。哲との間にひとつ椅子を挟んで腰を下ろしたチハルは、煙草を取り出し一本銜えた。
「いいネタがあんだけど」
 前置きがないのは、気を遣うふりをすることすら時間の無駄だと思っているからだろう。しかし、商売の話をするにしては、渋々という感じが否めない。
「俺に急ぎの用って、商売か」
「そうでなきゃあんたの顔なんか見たくねえよ」
「そんな嫌なら他のやつに売れ」
 チハルは、哲の台詞に綺麗な顔を歪めて舌打ちした。顔を見る度に思うのだが、チハルの顔は整っている。まるで人形のようで、それも愛らしいというより美しい、というのに近い。しかし、刺々しい表情がせっかくの容貌を台無しにしているのは間違いない。
「こっちだって別に好きでやってるわけじゃねえよ、うるせえな」
「何イライラしてんだ」
 煙草に火を点けながらのんびり言うと、チハルは腹立たしげに眉を寄せ、靴の先でカウンターを何度か蹴った。よくよく観察していると、チハルは我儘な子供に近いということがよく分かる。誰かに構ってほしくてぐずっているのだ。そう思うと、脚を折られたレイはともかくとしても、秋野のようにこの男を嫌う気になれない。もっとも、嫌うほど興味が持てないだけの話かも知れないが。
「電話で済ませりゃよかったじゃねえか。大体、神田さんにも内緒って何」
「……あいつに知られたくなかったら悪いのかよ」
 秋野もそうだが、チハルもレイとは特別仲がいいわけではないらしい。
「で、何を売ってくれんの」
「買うのかよ」
「聞きもしねえで金出せってか? つーか、幾らだよ、そもそも」
 チハルが指を立てた。掛ける万、だろうが、高いのか安いのか、情報という商品の相場が分からない哲には判断つかない。
「それって高いの、安いの」
「——高い、っていうわけないと思うんだけどよ。売る立場の俺は」
「ああ、そうか」
「……半額でいいよ、そしたら」
「何だよ、そしたらって。いいよ、値引かなくても」
「マジかよ」
「買う気ねえもん」
「……あんた、相変わらずすげえ腹立つんだけど」
「まあまあ」
 不意に思いつき、手を伸ばして「怒るなよ」と頭を撫でると、チハルは本気で憤慨したらしく、顔を真っ赤にして固まった。結構からかいがいがあって面白いのに、こういうことが得意なはずの秋野がそうしないのが不思議ではある。だが、考えてみれば、縋りつくような思慕と嫌悪を一緒くたにぶつけられたら、そんな余裕もなく厭うことしかできないのかもしれない。
「灰、落ちる」
 カウンターに落ちそうになっている穂先を指差すとチハルは哲を睨み付け、足元の昔懐かしいリノリウムの床に灰を落とした。
「帰っていい?」
 チハルに金を出してまで知りたいことなどない。腰を上げかけたら、チハルは渋い顔をして「待てよ」と吐き捨てた。
「金はいらねえよ。この間、アキが刺されたろ。噂になってる——」
 言いかけ、チハルは哲の顔を見て蒼白になった。唾を飲み込み、つっかえながらようやく「親の仲間内で」と言い終えた。
 哲は知らず詰めていた息を吐く。秋野の母親はフィリピンからやって来た。同郷の仲間は大勢いるらしく、チハルの親もその一人である。異国の地で祖国を同じくする人たちの絆は強く、彼らの中で諍いがあっても、外に対しては団結する。下手な情報を日本人に漏らしはしない。
「そうか」
「ああ。ニュースになってるから事件はみんな知ってるけど……たまたまあそこにいた奴がいて、アキが刺されたの見てた」
 あんたのことも、と付け加え、チハルは哲の右手に目をやった。煙草を持つ指はまだ関節が腫れている。皮がずる剥けになってしまった部分は乾燥させてはいけないと言われ、まだ拳全体がでかい絆創膏のようなガーゼに覆われている。
「意識不明の重体だってな、あの容疑者」
「そうみたいだな」
「……動機とか、本人の口から聞けてねえって」
「それが?」
 その辺は、哲もニュースで見て知っていた。容疑者の男は確か四十代前半。妻の浮気から離婚に至り、直後にリストラに遭ったとか。まさに泣きっ面に蜂、というやつだが、だからと言って他人を刺す免罪符になりはしない。男がネット掲示板に投稿した数々の文章から、動機は前述の事情に間違いないだろうとされていた。男は襲われた被害者に抵抗され、反撃されて重体。意識が戻り次第、警察の取調べが始まるらしい。
「多分、あの男はラリってた」
 チハルは哲の拳を見つめたまま低い声でそう口にした。静かな空間でも聞き取りにくいほどの小声に、哲は僅かに眉根を寄せた。
「直接は知らねえけど、俺がさばいてる薬……買ってたって話だ」
 目の前の男が、暴力団に目をつけられないほどの量の違法ドラッグをさばいているのは知っていた。以前エリの同僚の彼氏が顧客だったことがある。件の彼氏にそれを薦めた男は不用心にも高校生とそれを使ったが、高校生が考えなしにSNSに投稿したことから警察が介入し、捜査されそうになったのだ。秋野の忠告でチハルが一時的にドラッグの扱いをやめたらしいというのは聞いていたが、結局再開したのだろう。
「そうか」
 再度男の顔を思い浮かべようとして、やはり失敗した。テレビに何度も映し出される顔写真は随分と引き伸ばしたものらしく、画像が粗くてぼやけていた。何かの証明写真なのだろう、レンズを真っ直ぐ見つめ、唇を引き結んだ男の顔は、三日前に自分の手で死ぬほど殴った相手のものとは思えない。
 真っ当そうなその顔写真と、刃物を振り回し唾を飛ばして喚く男とがどうにも繋がらないでいたが、薬物の影響下にあったのだとしたら、それも頷ける話である。
「責任、感じてんのか」
「…………別に」
「あんたのせいじゃねえよ」
 チハルが弾かれたように顔を上げて哲を見た。意外な台詞だったのか。責められる、と思っていたのかも知れない。哲は煙をゆっくり吐きながら語を継いだ。
「あんたが薬を渡して、刃物渡して、通行人を刺してまわれって言ったんじゃなきゃ、本人の責任だろ。あそこに秋野を呼び出したのがあんたならともかく、あの馬鹿がたまたまそこにいて鈍くさく刺されたのもあいつの責任だろ。横に突っ立ってて何も出来なかったのは俺の責任だろ」
 カウンターの上を掌で撫でる。ざらついた木の上に溜まった埃が舞い上がった。
「だからって、あんたがひとつも悪くないとは言わねえけどな」
「…………」
「あの野郎が怪我したからって、自分を責めて青くなるくらいならそんな商売やめちまえよ」
 勢いよくスツールを蹴り、腰を浮かしたチハルに目を向ける。チハルは「そんなこと」と言ったっきり言葉が続かなかったのか固まって、不貞腐れた態度でスツールを戻すとカウンターに片肘を着いた。
「あいつにいちいち言ったりしねえから落ち着け」
「……うるせえよ」
 チハルは相変わらず険のある表情を浮かべつつ、それでも反発はしなかった。何も、哲が諭したからというわけではない。秋野がここにいないからだろう。
 中性的な横顔に面白くない、と言いたげな表情を貼り付け、チハルは新しい煙草を引き出し、火を点けずに指先で弄んだ。なるほど、レイに知られたくなかったのも無理はない、と哲はようやく得心した。
 自分より恵まれない生い立ちでありながら、遥か高みにいるかのような秋野に猛烈に憧れ、同時に心底厭う。友情を求め、居場所を求め、捻くれた愛情表現を相手に押し付け駄々っ子のように振舞うチハル。秋野に絡むのは相反する感情の発露だ。自覚があるのかどうか分からないが、もう一人の幼馴染に知られ、揶揄されるのは我慢ならないに違いない。
 なんだかな、と思いながら煙草をカウンターの向こうのシンクに放る。
 哲はスツールから腰を上げ、チハルの肩を軽く掴んで引いた。
「何だよ」
 構えていなかったせいで素直に振り返ったチハルの脇腹に、思い切り右の拳を叩き込んだ。
「——っ!!」
 煙草を取り落とし、身体を二つに折ったチハルの髪を掴んで顔を上げさせた。涙の滲んだ瞳が見開かれ、酸素を求めて口が開く。口の端を思い切り殴りつけたらチハルは吹っ飛び床に転がった。治りきっていない拳が猛烈に痛み、哲はチハルを見下ろしながら、束の間歯を食い縛った。
「う——」
 口の中が切れたのか、咳き込んだチハルの口から血液混じりの唾液が垂れる。
「あんたのせいじゃねえって分かってても、腹は立つ」
 低く吐き捨て、哲は建付けの悪い引き戸を開けて店の外へ出た。
 チハルの嗚咽は、閉まりきった戸の向こうに閉じ込められ、哲にはもう聞こえなかった。