仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 5

「あれ以来会ってなかったっけ?」
「そうなんじゃねえの」
 哲の気のない返事に溜息を吐き、レイは受け付けのお姉ちゃんが運んできたコーヒーにミルクを足した。
 哲がレイの事務所に呼びつけられたのは、秋野が刺されてから三日目のことだった。酔っ払った秋野を迎えに行って以来レイとは接点がなかった哲だが、別に残念とも思っていなかった。このまま縁が切れればいいと思っていたのに、ままならないものである。
 何の用かは知らないが、暇だったから足を運んだ。受け付けのお姉ちゃんが今度はどんなのになっているのか確かめたかったというのもある。
 今回は日本人ではなさそうだがアジア系で、シャンプーのCMに出られそうな作り物めいた黒髪にまず目が行く。まさかヅラじゃないよなと思ったが、女にそんなことを訊く度胸はないから黙っていた。
「電話じゃ言えねえって、何の用」
「いや、それはまあ、口実?」
「はあ?」
 コーヒーを啜りながら睨むと、レイは笑いながらコーヒーを掻き混ぜた。
「久し振りに錠前屋さんの顔見たいなと思って……って言っても信じてくれないよねえ」
「分かってんなら言うなよな」
「冷たーい」
「うそつき」
「佐崎くんも子供みたいな言い方することあるんだね」
 レイは吹き出し、もはやコーヒーだかミルクだから分からなくなった液体を啜った。
「まあ、嘘なんだけどさ」
「ほら見ろ」
「ごめんね。電話で言えないってことはなかったんだけどさ——アキのこと、刺した奴いるじゃない?」
 そこで間を置き、レイは哲の顔をじっと見た。電話で済ませなかったのはこちらの反応を見たかったからなのだろう。まったく、趣味が悪いし、遠慮がない。思ったことが顔に出たのか、レイはにやりと笑う。
「顔色変わったよ、って言ってみたかったんだけどなあ」
「言えばいいんじゃねえの」
「変わってないのに言ってもつまんないよ」
「で? あの男がどうしたって」
 あの男、と言ってはみたが、哲の中では既に顔立ちも不確かだった。拳に当たる骨の硬さは覚えている。男が漏らす苦悶の声も、暴れる力の強さも覚えているが、それだけだった。
「あの男のことで、佐崎くんと会って話したいって人がいるんだって」
「誰」
「知らない」
 レイは本当に知らないらしく、不満げに眉を寄せた。
「話持ってきたのは別の情報屋なんだよね。俺はよく知らない相手で、聞いても全然教えてくれないんだ。直接佐崎くんに連絡取ればって言ったんだけど、依頼人の指定だからって」
「ふうん」
「危ない話じゃないとは言ってたけど、そんなの自己申告だからね。危ない、の基準だって人それぞれでしょ?」
「まあな」
「どうする? 話聞く?」
 哲は雑誌に出てくるようなコーディネートの室内を漫然と眺めながら暫し思案した。
 一体誰か知らないが、あの男について何の話があるというのだろうか。逃げ回っているならともかく、とっくに警察に身柄を確保された男である。
 ワイドショーが、週刊誌が、ネット上の噂が、男の全人生を丸裸にしている真っ最中。それに、例え世間が知らない事実があったとして——それがどれだけセンセーショナルなものだったとしても——哲にとっては何の意味もない。結局殺せなかったという以外、特に思うこともなかった。
 白い壁を眺めながらそんなことを考えていたら、なんだか眠たくなってきた。
「面倒くさいから聞くわ」
「あのねえ、普通、面倒くさいと聞かないんだよ、人は」
 レイが呆れたように言ってかぶりを振る。
「断る方法考えるほうが面倒くせえよ」
 これはまったくの本心である。相手に気を遣い、間に入った人間に気を遣い、角が立たないように言葉を選ぶ。考えただけでうんざりして、もうどうでもいいから好きにしてくれと言いたくなる。勿論時と場合によっては嫌々ながらも努力するが、この件についてはその必要を感じない。
 哲は欠伸を噛み殺しつつ、レイがテーブルに置いたコーヒーカップの中身に目を向けた。ミルクで濁った水面は、窓にかけられたブラインドと同じ色だ。角の取れた優しい色は、依頼人を和ませるための色合いだろうか。
「じゃあ、連絡取ってもらうよ。佐崎くんには俺から連絡するから」
「分かった」
 哲が腰を上げると、レイも一緒に立ち上がる。レイはドアのレバーに手をかけ、立ち止まって振り返った。
「そういえばさ」
「ああ?」
 声を潜め、レイは哲に身体を寄せた。
「今度の受け付けの子、どう思う?」
「…………どうって言われても」
「あの髪、本物かな?」
 哲は思わず吹き出して、レイの背中をばしりと叩いた。
「引っ張ってみろよ」
「嫌だよ」
子供のようにふくれっ面をして見せながら、レイはゆっくりドアを開けた。

 

 レイから電話が来たのは、事務所を辞して一時間と経たないうちだった。そんなに早く連絡が来るとは思わなかったが、レイも同じらしいのは電話の向こうの声から分かる。
「何をそんなに急いでんだか、分かんないんだけどね」
 向かいの店の裏で電話する男を見るともなく眺めながら、哲は煙草の煙を吐いた。
 以前はよく女同士が喧嘩していたのだが、この間また店が変わって別のキャバクラが出来た。キャストと呼ばれる女たちは裏には滅多に出てこないが、店長らしき男がしょっちゅう携帯片手に裏口に立っている。店の中ではできない話なのだろう、なかなか男前なのだが、険しい表情を浮かべ、早口で何か言って数分経つといなくなる。一度険のある視線を向けられたから睨み返したら、それ以来、こちらを見ないようにしているらしく目が合わない。
 時間と場所を告げるレイの声に頷き、哲はしゃがんでコンクリートに煙草を擦りつけた。
「行きゃ誰かいんだろ、そこに」
「うん。道端で話したいわけじゃないだろうから、そこから別な場所に移動すると思うよ」
「ああ」
「あ、佐崎くん」
「何」
「アキはどんな感じ? 元気そう?」
「知らね」
 レイが何か言っていたが、電話を耳から離したので聞こえなかった。ボタンを押して通話を切る。向かいの店の男が不意に視線をこちらに向けた。久し振りに目が合ったので会釈すると、驚いた顔をして目を逸らされた。
 意地の悪い喜びに束の間浸り、子供じみた感覚に溜息を吐く。その場にしゃがんだまま、哲は携帯を握る、ガーゼに覆われた拳を見つめた。
 まだかなり痛むが、幸い骨折はしていなかった。人差し指と中指の関節が外れていたが、手塚が僕は内科医なのにとぼやきながら戻してくれたのだ。
 あの日、耀司を置いて歩き出した哲は、耀司に告げた通り手塚のところへ足を向けた。手塚は内科の開業医だが、昔は救急病院にいたと聞いたことがあるし、そうでなくても軽い外傷の処置くらいできるだろうと踏んでのことだ。普通の病院に行ってもよかったのだが、変に勘繰られたら面倒である。転んでぶつけたというにしては不自然だし、虐待の加害者だとでも思われたら厄介だ。
「……まさか、秋野を殴ったんじゃないよね?」
 手塚は哲の拳を洗いながら、顔をしかめた。
「あの野郎を殴ったんなら、一緒に連れて来てる」
「そうか」
「つーか、あいつ今背中から血出して、縫い合わせてる最中」
「は!?」
 手塚に事の顛末を話す間も、哲はどこか上の空でいた。直前に耀司と交わした会話を、耀司の泣きそうな顔を、思い出していたからだ。今、コンクリートについた灰の跡を眺めながら、哲は小さく息を吐いた。

 レイからの電話に出たとき気がついた二件の不在着信。
 今はどちらとも話すことはなかったし、話したいとも思わなかった。