仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 4

 結局耀司が店主からの謝礼を受け取る間、哲は無表情で突っ立っていた。店主に頭を下げられ会釈したがどこか上の空だったのは、手が痛かったのかも知れない。
 タクシーに乗り込み輪島の店の近くで降りる。当然一緒に来るものだと思っていたら、哲はその場で足を止めた。
「悪いけど、一人で行ってくれ。俺、こっち何とかするわ」
 こっち、というのは右手のことらしい。
「輪島さんのところで処置してもらえるって」
「まだあの馬鹿の背中だか腹だか縫い合わせてるかも知んねえだろ」
「それはそうだけど、ちょっと待ってればいいだろ」
「俺、まずいと思う」
「は?」
 耀司は思わず間抜けな声を上げて辺りを見回した。誰かが見ているか何か——見られて困ることは特にないが——したかと思ったのだ。
 まだ陽は傾いていないが、陽射しは微かにやわらかな黄金色を帯び、耀司は一瞬秋野の瞳を思い出した。昼間の光に照らされた哲の顔は普段と変わりなく、一体何がまずいというのか、表情からその意図は窺えない。
「何が?」
「あいつがあのまま死んでも、仕方ねえと思った」
 淡々とした哲の言葉に、耀司は耳を疑った。骨ばった顔には特別な表情は何も浮かんでおらず、ポケットに突っ込んだ右手以外、変わったところは何もなかった。
「死んでもって、それは、どういう」
「死ねばいいなんて思ってねえぞ、言っとくけど」
「それは分かってるけど——」
「そうじゃなくて」
 腫れた右手の指をポケットに突っ込みかけてためらい、左手で煙草のパッケージを引っ張り出す。哲はパッケージに顔を近づけ直接銜えた煙草をぶらぶらさせた。
「さっき、俺が一番に考えてたのは、あの馬鹿のことじゃなかったってこと」
「……」
「あいつを刺した奴のこと考えてた」
 耀司は哲の顔を見た。その声はどこまでも平坦で、高揚も、動揺もその片鱗すら見られない。あるのかもしれないが、少なくとも分かりやすく表れてはいなかった。煙草の穂先に灯った小さな火が、必要以上に赤く見える。風を遮るように添えられた右拳は、秋野が見たら卒倒しそうなほど血塗れだった。
「あの包丁男、本気で殴り殺してやるつもりだった。その間にあいつが失血死とかしちまっても、それはそれで仕方ねえなと思いながら殴ってた。なあ、耀司」
「哲——」
「俺はどっかおかしいんだと思うぜ。別に今に始まったことじゃねえ。昔からだし、多分何かが足りねえんだと思う」
 天気の話でもするようなさりげなさに、唐突に怒りが湧いた。
 哲になら秋野を預けられると思ったのは、二人の間に特別な何かがあるからだ。秋野が、哲は特別だと言うからだ。その特別が恋愛ではなかったとしても、秋野がそれでよければ耀司は別に構わなかった。それなのに、哲は秋野を見捨てるようなことを言うのか。
「哲にとって、秋野は特別じゃないのかよ!」
 思わず声を荒げた耀司に哲が僅かに目を瞠る。そうして束の間視線を逸らし、哲はゆっくり煙を吐いた。
「何でだよ。目の前で秋野が死んでも仕方ないなんて……」
「刺されたのがお前だったら、刺した奴に構ったりしねえ」
「…………」
「それが真菜でも、利香でも、俺の母親でも、友達でも、多分同じだ。真っ先に救急車呼ぶなり、車で医者に運ぶなり——何とかしようとすると思う。刺した奴が逃げても、追っかけるよりそっちが大事だって、理性的に判断できると思う」
「秋野じゃなければってことか?」
 頷いた哲は言葉を探すように視線を泳がせてから語を継いだ。
「俺にとって、あいつは特別だ。嘘じゃない。誰とも違う。けど、お前が望んでる特別とも多分違う」
 哲の持つ煙草の先が風に吹かれて細かい灰を散らす。迷いのない声に、怒りは生まれたときと同じくらいの速さで消えていった。まだ高い太陽に照らされて、哲の立ち姿には影がない。
「あいつを刺した奴を見逃せるわけねえ。理性なんかどっか飛んでっちまって、正直言って何考えてたかもはっきり覚えてねえよ」
 苦い片笑みを浮かべ、哲は煙草を吸いつけ煙を吐いた。
「警察と関わりたくないか止めろって言われたから仕方なかったけどよ——息の根止められなくて、今もすげえ後悔してる。最初からあの包丁で喉から腹まで掻っ捌いてやりゃよかった」
 哲の言葉は冗談とは思えなかった。その顔つきに、耀司の背を寒気が走った。
「傍にいてやってくれって、真菜に頼まれた。あいつが飽きるまでいてやってもいいって答えたけど、ただいるだけじゃ、真菜やお前の期待には応えられねえよな」
 何もかもありのままがいいというのは間違いだ。嘘でもいいから望むことを言って欲しい。そう思うのが人だろう。耀司は、哲に言って欲しかった。誰よりも秋野が大事だ、死にそうになったら何をおいても助けると。その場にいられないに違いない自分の代わりに、秋野の身を案じ、必ず守ると。
「そんなこと言うなよ——俺」
「だから、もう止めようかと思ってよ」
 低く、抑えた声に寒気がした。哲は自分のスニーカーの先に目を落とし、まるで何かを朗読しているかのように、淡々と語を継いだ。
「あいつに関わんのは止めるって言ってんだよ。その方がお前も安心だろ」
 哲は酷く冷静な声でそう言って、顔を上げると肩を竦めた。こういうときに限って空は明るく、雲はごく薄くたなびき、陽射しはまだ強かった。薄い煙が哲の髪を撫でるように立ち上る。輪島の店はすぐそこだが、何故か、その僅かな距離が果てしなく遠い。
「そんなの、哲らしくないだろ」
「何が?」
「他人がどう思うからって……そんなの違うだろ! 秋野と哲の、二人のことじゃないのかよ!」
 怒鳴る耀司に、哲がやけに年寄り臭い顔で苦笑した。まるで頑是ない子供になったような気がして、耀司は、じわりと潤んだ瞳を哲から逸らした。
「俺が、誰が何て言ったって、他人にどうこう言われたくないって、哲ならきっとそう言うって……」
「あいつの都合とか、感情とか、そんなの知らねえ。斟酌する気もねえ。誰が何を言ったって、そこんとこは変わんねえよ」
 哲が軽く肩を竦めるのが、目の端にちらりと映った。
「ずっと、それだけでいいと思ってたけどよ——あいつの周りにはいるだろ、たくさん」
 哲が不意に黙り込む。耀司の背後に通行人が近付いたのだ。若いカップルは手を繋ぎ、楽しそうに笑い合いながら哲と耀司の傍を通り過ぎた。女の子のスカートの裾が風に揺れる。髪の先が楽しげに跳ねるのを、耀司は半分放心しつつ見送った。
「いるって、誰が」
「お前と真菜、利香も、お前の親御さんも、エリも。他にもたくさん、俺が知ってるのも、知らないのも」
 穏やかな声には思いつめた響きも焦りも苛立ちもない。ただ低く淡々としたそれは、耀司の腹の底に沈み、ゆっくり積み上がる。
「あれは俺のものじゃねえ」
「あれって、」
「秋野」
 哲は滅多に秋野の名前を口にしない。本人がいない今、名前だけが妙に存在感を持ち、哲の低い声で語られた。
「秋野は、お前のだ」
「何だよ、それ……」
「お前ので、尾山さんので、利香ので、他の誰かのだ。あの野郎が死んだら泣く誰かので、それは俺じゃねえだろう。本気で死ねって言ったことなんかさすがの俺でも一遍もねえよ。けどな、目の前で血ぃ流してるあの野郎が死んでもいいって本気で思えた。あいつはもしかしたらそれでもいいって言うかも知れねえ。けど、お前らはどう思う? それでいいって思えねえだろ」
 哲は財布が入っていたのと逆のポケットから、携帯灰皿を取り出した。
「同じことがあったら、俺はまた同じことをする。あいつにも、お前らにも何の責任も持てない」
「だから——秋野は特別で、でも秋野の安全を第一に考えられないから、だから身を引くってことなのか? 俺や真菜や利香のために?」
「……まあ、要約すりゃそうなるかな」
「哲——」
 哲は暫く耀司の顔を見ていたが、不意に苦笑して顎を掻いた。
「お前、本当にいい奴だよな」
「え?」
「なあ、俺はお前みたいに真っ当でも、正直でもねえんだよ」
 低い声でそう言って、哲は耀司に背を向けた。
 何事もなかったように遠くなる哲の背中を、耀司は途方に暮れる思いで見送った。