仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 3

「全治四週間はかたい。普通なら」
「普通ならって何、輪島さん」
「普通が四週間なら、秋野は二週間で治る気がする」
 耀司が言うと輪島は笑ったが、すぐに真顔になって秋野を軽く睨んだ。
「笑い事じゃないよ。角度が違って横隔膜突き破ったり、体重がもっと乗ってて腸を破ったり、動脈傷ついてたり」
「もういいよ、怖い想像は」
「とにかく、ちょっとでも不運だったら命に関わる怪我になってたかもしれないんだ。とりあえずは、自分の運と硬い腹に感謝しろよ」
「世界で一番感謝したくない男に感謝してるよ。俺を毎年飽きずに、しかも強制的に山籠りに付き合わせてくれてありがとうって」
 自分を鍛えた髭面の元傭兵アンヘルの顔を思い出したのか、秋野は渋い顔になる。さすがに疲れただろう、秋野の横顔はやつれ気味ではあるが、病室らしく白で纏まった室内でも死にそうには見えなかった。
 出血は多く見えたが、命に別条があるほどの傷ではなかったらしい。もっとも、輪島や秋野がどこまで本当のことを言っているのか、耀司にはよく分からないのだが。
 秋野を追いかけすぐに輪島のところへ向かうつもりだった耀司がここに着いたのは、ついさっきだ。その間に秋野の傷の処置は終わったらしい。本人は澄ました顔でベッドの上に身体を起こして座っていたから拍子抜けしたが、泣きだしそうな安堵も感じた。秋野と違って、暴力沙汰に慣れてはない。それ以上に、秋野は大事な身内だった。
「とにかく、安心した。俺、真菜に電話してくる。あと、哲と」
 輪島が不思議そうに「そういえば、佐崎君は来ないの?」と訊く。秋野が金色の目をこちらに向ける。耀司は携帯を片手に立ち上がり、肩を竦めた。
「下までタクシーで一緒に来たよ。けど、どうしても行くとこあって、間に合わないからってとりあえず行った。後で様子知らせるって約束したからさ」
 嘘はひとつも吐いていない。だからだろう、秋野も特別疑念を表すことなく「ふうん」と呟く輪島に向かって別の話をし始めた。ドアを後ろ手に閉め、真菜の番号を呼び出しながら、耀司は哲の強張った顔を思い出していた。

 

「お前、行けよ。先に」
 ジーンズのポケットに手を突っ込んだままこちらを振り返った哲の頬には、僅かながら血が飛んでいた。顔のどこにも傷はないから、返り血なのだろう。指摘すると手の甲で頬を拭い、哲は黙って耀司から目を逸らした。
 一階にエステが入っている小奇麗なビルに殺伐とした表情の哲は酷く不似合いだったが、そう思うのは事情を知っているからだろうか。白とクロームで統一された、一見無人の店内がガラス越しに見える。もっとも、外から見える部分で施術されている人がいるわけもないから、無人に見えるだけかもしれない。
「俺が行ってもすることないからいいんだよ。哲だってさっき同じこと言ったろ」
 数秒こちらの顔を見つめ、哲は何も言わずに背を向けた。小さなエレベーターに哲に続いて乗り込んだ耀司は、気まずい沈黙に押さえつけられるように俯いた。
 ビルの五階の雑貨屋で解錠の仕事がある。
 秋野が乗った車を見送った哲はそう言って、タクシーを拾おうという耀司に首を振ってみせた。
「でも——」
「俺、連絡先知らねえんだよ。あいつの持ってきた仕事だろ。連絡なしにすっぽかすわけにいかねえし」
「俺は分かるよ」
「だからってこっちキャンセルして俺が行ったって、何もすることねえだろうが。だから、行けよ」
 哲はそう言ったが、どうしても置いて行く気にはなれなかった。それで、一緒に件のビルまでやってきたのだ。
 哲が向かう仕事のことは耀司も知っていた。そもそもがマナが受けた電話である。秋野が使っている細工師の紹介だから、特別怪しいことも危ないこともなさそうだ。それでも哲を一人にできなかったのは、単に自分が一人になりたくなかっただけなのかもしれない。
 エレベーターを降り、廊下を進む。すぐ右手にドアがあったが、店の名前が違う。奥に進むともうひとつ、今度は事前に聞いていた名前が書かれたガラスのドアが見えた。哲が先にドアを開ける。ドアにぶら下がった小さなベルが来客を告げると、奥から髭面の小柄な男が現れた。
「いらっしゃいませ」
「鍵、開けにきたんですけど」
「ああ、どうぞどうぞ、すみませんねえ、わざわざ」
 穏やかそうな顔いっぱいに笑みを浮かべて頷く度、後ろで結んだ髪がぴょんぴょん跳ねる。白髪混じりのそれは、灰色の毛並みを持つ動物の尻尾に見えた。
 本人は髪の毛以外は至って普通の男だが、店はなかなか雰囲気があった。漆喰風の壁の白、濃い焦げ茶の柱、ベージュのファブリック、アンティークゴールドの小物や金具。女が喜びそうな色数の少ない店内には、今、客は一人もいない。
「さっき、外で騒ぎがあったんですってね」
 店主は正に騒ぎの渦中にいた哲を振り返り、悲しげに眉を下げた。
「怪我人がたくさん出たって。物騒な世の中になりました」
「ああ——そうですね」
 店主はそれ以上何も言わず、店の奥の倉庫らしき場所へ二人を案内した。
「これなんですけどね」
 店主が恭しく布を外すと、飴色のアンティーク家具が現れた。耀司には——恐らく哲にも——その価値は分からないが、店主の様子からすると貴重なものなのだろう。哲は店主が示す錠前の部分を確認し、説明に軽く頷いていた。
「ええと、それじゃあ僕は——?」
「どうぞ、お店の方にいらしてください。終わったら呼びます」
「じゃあ、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げ、店主は耀司ににっこり微笑んで表に戻って行った。哲は耀司を肩越しに見ていたが、耀司が動こうとしないのを見てとると、小さく息を吐いてチェストに向き直った。
「……向こう行ってろよ」
「邪魔しないよ」
 売り物と思しき椅子を引っ張り寄せて腰掛ける。初めて会った頃に金庫を開けるのを見たが、耀司が哲の仕事に同行することはほとんどない。だから、哲の手元が見える位置に椅子をずらしたのは、単純な好奇心からだった。
 哲はもう一度耀司を振り返って諦めたように溜息を吐き、ポケットから手を引っ張り出した。
「それ……っ、哲!」
 勢いで椅子を倒しそうになり、慌てて背凭れを掴んで止めた。哲が前を向いたまま小さく舌打ちする。
「だから向こう行ってろって言ったのかよ!」
「さあな」
 哲の右手は赤黒く腫れ、間接部分にできた酷い擦過傷から血が滲んでいた。秋野が刺されたというだけで、電話では他に何も言っていなかった。だが、ちょっと擦りました、という傷ではなかったし、状況からして何かにぶつけたとも思えない。だとしたら、殴ったのだ。恐らく、秋野を刺した人間を。
「ちゃんと手当しないと……」
「終わったらな」
 耀司には目を向けず、哲はジーンズの尻ポケットからラテックスの手袋を引っ張り出した。手袋へ、無造作に右手を捻じ込む。見ているだけで自分の手が痛くなり、耀司は思い切り顔をしかめた。腫れ、傷ついた手に乳白色のゴムがぴったり張り付く。被膜越しに見える傷はやけにグロテスクで、ホラー映画の特殊メイクを連想させた。
「哲」
「何だよ」
「痛くないのかよ」
「痛いに決まってんだろ」
 何を言っているんだという顔をして振り返り、哲は小さく肩を竦めた。右手の指をばらばらに動かし、眉を寄せる。チェストに屈んだ哲は、それ以上は話をするつもりがないという雰囲気だった。
 小さく、古く、繊細な作りらしい錠前に集中しながら、時折顔をしかめて右手を握ったり開いたりする。手袋に滲む血の色が徐々に面積を広げるのが痛々しい。出血が多いわけではなくて滲んだ血が擦れて広がって見えるのだろうが、傷ついているのは間違いない。
 鍵が開く小さな金属音がして、同時に哲が悪態をついた。
「くそ、痛ぇ!」
 怒ったように言って、哲は道具を乱暴に尻ポケットに突っ込んだ。手袋は左手だけ外し、右手はそのままジーンズのポケットに隠す。頼まれたわけではなかったが店主を呼びに表に向かいながら、耀司は重い息を吐いた。