仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 2

 哲が男の背中に追いついたのと、男が女子高生を捕まえたのは同時だった。
「お前が悪いんだ!」
 男は少し離れたところに立つ秋野にも聞こえるくらい、大きな声で叫んでいた。
「お前が悪いんだ、俺は何も悪くないんだあ!」
 まさか、女子高生に心当たりはあるまい。しかし、例え論理的に説明できたとしても男は聞く耳を持たないに違いない。口から唾を飛ばして喚く男は正気とは思えず、女子高生は恐慌状態に陥っていた。掴まれた腕を振り払おうと身を捩って暴れ、男に負けないくらい大きな、そして甲高い悲鳴を上げ続ける。男の苛立ちは女子高生の声量に比例して酷くなり、充血した眼が見開かれた。
「うるさい、うるさい、俺より劣ってるくせにお前らは!!」
 男のコートの裾が翻り、包丁が陽射しにきらめいた。女子高生が細い笛の音のような悲鳴を発したその瞬間、哲の手が男の髪を掴んで引きずり倒した。女子高生は男の手を振り切り、鞄を放り出して脱兎のごとく駆けてゆく。翻る制服のスカートまで届いたのは、振り回された包丁が起こした微風だけだ。
 男が仰向けに倒れ、哲の足元に転がる。哲は男の頭を、まるでサッカーボールを蹴るようにインサイドで蹴飛ばした。
「うわあああ!」
 苦痛のためか、興奮のためか、男は喚きながらアスファルトの上で転がり、立ち上がろうと四肢をばたつかせた。ようやく立ち上がった男は雄叫びとともに包丁を突き出し哲に突進したが、哲は男の前腕を容赦なく蹴った。
 子供の鳴き声のような甲高い音が男の喉から迸る。実際に、周囲で子供が泣いていた。我先にと逃げ惑う大人たちの狂奔に怯えたのか、あちらでもこちらでも泣き声が上がっている。
 男の上半身は蹴られて傾き、それでも包丁を握り締めたまま横倒しになった。コートの裾が大きく揺れるのが、やけに芝居がかって見える。哲は男を跨いで腰を屈め、胸倉を掴んで引き起こし、男の顔に強烈な右フックを叩き込んだ。
「ありゃ痛いな」
 秋野が思わずそう呟くほど、会心の一撃だった。自分なら耐える自信はあるが、ごく普通のサラリーマンなら一発で昏倒するだろう。男の顔から血が飛び散る。鼻骨が折れる不快な音が妙に響く。しかし、異常な興奮状態にある男は失神せず、意味不明の叫び声を上げて包丁を振り上げた。だが、振り下ろす前に顎に拳を食らい、再度仰け反る。
 哲が男を胸元に引き寄せ、うなじに手を回して何か言っている。男の顔は見えないが、何か答えたような間の後に哲の頭突きがぶちかまされ、男の悲鳴がここまで聞こえた。
 哲が包丁を持った男の手首に膝を乗せ、体重をかける。包丁が地面に落ち、男が激しくのたうって、哲の身体が前に沈む。体重をかけ、手首の骨を折ったのだろう。えげつないことをすると思ったが、男に対する同情心は湧いてこない。ただ、哲のそのやりようが、普段とは違うということは感じられた。
 秋野は溜息を吐き、顔をしかめて一歩そちらへ踏み出した。押し当てた青いシャツが、滲み出す血液に黒く濡れている。だが、血が噴き出していないということは、動脈は無事だったのだろう。背中や腹を刺されて一番怖いのは内蔵が傷つくことだが、何の根拠もない自己診断では、今のところそちらも問題なさそうだった。だからと言って刺されて痛くないわけはないし、失血して辛くないわけでもない。アンヘルの馬鹿みたいな鍛練は色々な部分を鍛えてはくれるが、痛覚を鈍くはしてくれない。
「哲」
 歩み寄りながら声をかけたが、哲は反応しなかった。
「哲!」
 背中を伝った血が下着を濡らし腿まで伝うのを不快に感じながら、反応を示さない哲への危惧がそれに勝る。
 男の胸倉を掴む哲の左手は緩まず、右手は容赦なく男の顔に叩きこまれた。男の頭がぐらりと仰け反り、身体の力が抜けて行くのが傍目にも分かる。上下する哲の拳から血飛沫が飛び散って、男のワイシャツの胸元を濡らす。
「哲、やめろ! 右手が馬鹿になる」
 傷を庇いながら駆け寄って声をかけたが、哲は男を殴るのを止めようとしなかった。眩暈がして、足元がふらついた。哲は、よろめく秋野を一顧だにしない。
「哲!!」
 一喝すると、哲がようやく手を止めた。こちらを見上げた顔の白さに息が止まる。殺気で透き通ったように見える双眸に、吸い込まれそうに錯覚した。目の前にいるのは哲の顔をした人形で、呼吸などしていないのではないかと思わず疑う。そのくらい、哲の顔からは表情が欠落して、仮面のように見えたのだ。
「やめろ」
 絞り出した声が掠れる。暑さと失血で、額に熱いのか冷たいのか分からない汗が噴き出した。
「警察と関わりたくない」
 周囲の人間は一刻も早くこの場を逃げ出そうと必死だが、あと数分もしないうちに、今度は野次馬とマスコミ、そして警察で溢れ返るに決まっている。
 ごとり、と物が落ちるような音がして、無造作に放り出された男の頭がアスファルトに落下した。顔中が血に塗れ、瞼と鼻は腫れ始めている。元がどんな顔立ちか、推し量るのは不可能だ。
「哲」
 もう一度哲を呼ぶ。哲はようやく秋野の左手に握られた血塗れのシャツに目を向けて、人形のようにぎこちなく、しかし素早く立ち上がった。

 

 秋野と哲は混乱した現場から逃れ、施錠されていなかったオフィスビルに入った。日曜も営業している事務所があるらしい。蛍光灯が点いている窓が幾つか見えたのだが、誰に出くわすこともなく一階のエレベーターホール脇にあるトイレに着いた。騒動を見に行ってでもいるのか、それとも日曜だからなのか、ビルはしんと静まり返って人の気配がない。
 秋野は個室の便座の上に座らされて、何とも間抜けだと思いながら携帯を哲に手渡し眼を閉じた。哲は耀司と輪島への連絡を淡々とこなした。騒ぐでも心配するでもなくそれらを終え、開け放した個室のドアのところに、秋野を隠すようにして立っている。
 見られていることを感じて目を開けた。知らない人間が見たら、至極冷静に見えるだろう。哲は内心を伺わせない完璧な無表情で秋野をじっと見下ろしていた。
「……どうした」
 意外にしっかりした声が出た。問いかけに、哲は何も答えない。大丈夫か、と訊くでもない。哲の顔の中で、その眼だけが内側の何かを窺わせる窓のようだ。動かない顔の筋肉からは読み取れない何かが時折そこにちらりと覗く。だが、それが何か見極めることはできなかった。
 哲が無言で携帯を差し出した。掌を上に向けて出すと、哲がその上に携帯を置く。そのとき触れた哲の指先は氷のように冷たくなっていた。その手が左手だったことには後々まで気付かなかったが、冷たさにはその場で気が付いた。
「さっき」
 冷たいな、と思いながら、傷に当てていた哲のシャツを外してみた。噴出こそしないものの未だ滲み出す血に染まったそれは、洗濯してどうにかなるような状態ではない。
「——弁償しなきゃならんな」
「さっき、何だ」
 哲はようやく口を開いた。低い声は平板で、いつもの攻撃的な調子すらどこにもない。
「……さっき、あの男に何を言ってたんだ?」
 微かにサイレンの音が聞こえたが、まだ遠い。こめかみに滲んだ汗を手の甲で拭う。ビルの外で車のドアが開閉するような音がして、哲がトイレの入り口を見やる。すぐにばたばたと足音がして、ドアを叩きつけるように開け、耀司が勢いよく飛び込んできた。
「哲! 秋野は」
 哲は秋野に背を向けて、個室の入口から身体を避けた。耀司と輪島が秋野の傍に立ち、立てるかと訊く。耀司は秋野が腰かけていた血塗れの便座の蓋に顔をしかめ、一瞬ためらったがそのまま秋野を引きずるようにして個室を出た。
 外に止めた車の運転席にはシキが座って待っていた。シキは中国人だが流暢な日本語を話す。たまに輪島を手伝っている元医学生だ。
「人が集まる前に、早く行こう」
 輪島が振り返る秋野を急かし、その辺でよく見かけるシルバーのワゴン車の後部座席に秋野を押し込んだ。頭を押さえられてバックシートに収まる自分はまるでパトカーに押し込まれる容疑者のようだと思っておかしくなったが、笑う元気は残っていなかった。
「哲」
「後から行く。連れてくから」
 哲のことを思い出して呟くと、耀司の声が降ってきた。輪島が隣に乗り込んで来て、車のドアが閉められる。秋野は小さく息を吐き、ようやく身体の力を抜いて目を閉じた。