仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 1

 駅前の喧噪は男の癇に障った。
 上唇の上に汗、そしてワイシャツの脇にもじっとり汗をかいていた。
 だが、暑かろうが寒かろうが、今の彼にはどちらでも同じことだった。季節外れのコートのせいで感じる暑さ。そして、腹の底でふつふつと滾る冷たい怒りのせいで覚える寒気。
 耳障りな甲高い声で下品な言葉を吐く若い女。背中を丸めて歩く中年男。横に四人並んで通路を塞ぐ主婦らしき集団。どいつもこいつも気に入らない。
 誰も彼もが癇に障った。
 彼と違って人生に満足している奴ら。
 恵まれた奴ら。
 彼より劣るかも知れない彼ら。

 悪いのは、俺じゃない。

 

 

「遅えよ」
 哲は吐き捨て、歩み寄った秋野を睨みつけた。大抵の人間なら走って逃げ出すような鋭い視線は、しかし秋野にとってみれば怖いどころか思わず頬が緩むものでしかない。
「人の顔見て笑うな」
 眉間に深い皺を寄せた哲は更に低い声で言い、秋野の向う脛めがけて爪先を繰り出した。もっとも、そこで足が出るのは想定内だ。さっとかわすと憎々しげに睨まれる。秋野はさらに唇の端を吊り上げ、哲の眉間は益々寄った。
「時間通りだろ。お前が早いんじゃないのか」
「人が多くてイラつくんだよ」
「ああ。それは分かる」
 哲と駅前で待ち合わせをしたことは殆どない。余程の用がなければわざわざ人混みで顔を合わせる必要はなかったし、休日の真っ昼間ともなれば嫌になるくらい人がいるのだ。駅前はまるで人の大河。確かに、九割方黒と茶色の頭が作る流れは見ているだけでうんざりする。
「さっさと帰りてえ」
「今日でなくたっていいんだぞ」
 眉を上げてみせると、哲は小さく溜息を吐いた。
 こんなところで待ち合わせたのは、解錠の仕事があるからだった。駅前のビルのなかにある個人経営の雑貨屋が依頼人で、海外で買い付けたかなり古い鍵付きチェストを傷つけずに開けたいというのが依頼内容だ。急いでいるわけではないというが、哲がこの近くで別の仕事があるというので、それが終わってから、ということになったのである。
 日曜の午後一時。人出は恐らくピークに近いだろう。快晴、気温は既にかなり高い。明るい陽射とは対照的にうんざりした表情で周囲を見回し、哲はもう一度仕方なさそうに息を吐いた。
「いや、今日済ませちまうわ。またこんなとこ出てくると思うと嫌になる」
「高校生の頃とか、来なかったのか」
「あの頃は周りなんかどうでもよかったんだよ」
「今だってそうじゃないのかね」
「意味が違う」
 ついてくる哲の声を聞きながら、秋野は前方を歩く女の小気味よく上下するジーンズの尻を眺めた。
「人混みも案外悪くないよ」
「どうせ女でも見てんだろ」
「人が多けりゃ目の保養も多い」
「周り見る気にもなんねえよ。それに、美人は眺めるより同じ部屋にいたほうがいい」
「ごもっとも」
 そう答え、秋野は女の尻から哲へと視線を移した。
 今日の哲は実年齢より年下に見える。暑いから、といって短めに切った髪のせいだろう。今年は猛暑日続きで、暦の上では夏が過ぎても延々と残暑が続いている。元々暑いのは好きでないらしく、高い気温と湿気が鬱陶しいと盛んに言っていた。坊主にするのは今回も諦めたらしい。青地に黒のチェックが入ったシャツの色味は涼しげだが、本人は暑さにずっとしかめ面だ。
「遠いのか、そこ」
「いや、歩いてすぐ」
 ビルの名前と店の名前を告げると、哲はああ、と頷いた。
「あれだろ、一階にエステが入ってるビル」
「よく知ってるな」
 まさか、自分で通っているわけではあるまい。言いはしなかったが通じたらしく、哲は呆れたような顔をした。
「行くかよ、俺が」
「分からんぞ。脛毛を剃る男も多いっていうから、最近」
「やめてくれ。つるつるな脚の俺なんて、俺じゃねえ」
「脚の毛くらい大した問題じゃないと思うがね」
「じゃあてめえが剃ってみろっつーの。大体よ、何、男のくせにつるつるになってどうすんだよ。意味が分かんねぇだろ、つるっとする意味がよ」
 憤然として言う哲が面白い。おかしなところで保守的なのは錠前屋の特徴だ。
「剃りたくなきゃ剃るなよ。で、何で知ってるって?」
「あ? ああ、この間そこに勤めてる女と寝たから」
 あっさり言って、哲は短くなった髪を掻き上げた。
「昔のバイト先の事務の子。転職したんだってよ。この間偶然うちの店来て、なんとなく流れで」
「ふうん?」
 秋野の顔を一瞥し、哲は嫌そうな顔になった。
「にやにやしてんじゃねえよ。気色悪いな」
 耀司がこの場にいたら、秋野のそういうところが理解不能だと言われるだろう。哲に執着しながら女の尻に目を奪われ、哲が女と寝ても意に介さない。しかし、愛だ恋だというわけでなし、哲の行動にいちいち目くじら立てるつもりはなかった。別段我慢しているというわけでもない。女を抱きたいなら抱けばいい。そういう意味では、哲の行動に大した興味は持っていない。
「にやにやなんかしてない。微笑ましいなあって顔だろう、これは」
「何が微笑ましいって……でもあれだな、そこなら場所聞いて一人で行きゃよかったな」
「まあ、どうせ俺もこっちに用があるし」
「つーか、ここで別れてお前そっち行けば——」
 一瞬首筋の毛が逆立って、強い日差しの温度が消える。粟立った皮膚が何かを報せ、意識を哲の低い声に向けたまま、秋野は瞬間的に五感を周囲に振り向けた。ばたばたとした足音。金属が空を切る音、耳障りな喘鳴、汗の臭い。女の悲鳴。複数の人間が発した、声にならない動揺の気配。
 咄嗟に哲の腕を掴んだまではよかったが、更に悲鳴が上がり、それに驚いた誰かが足をもつれさせて秋野にもたれかかってきた。予測不可能な方向からかかった体重に動きを阻まれ、舌打ちする。
「な」
 腕の力だけで哲を遠くへ突き放す。
 背中に当たる太陽の光。照りつけるそれが何かで遮られる。
 背中側に衝撃を感じ、秋野は思わずつんのめった。

「——おい!」
 哲の怒声が何故か遠く聞こえた。一瞬周囲の音が途切れ、次の瞬間、若い女の甲高い声が無音の世界を切り裂くように耳に届いた。一気に聴覚が正常になり、どよめきが、悲鳴が、人の発する様々な音が蘇って耳朶を打った。
「秋野!」
「怒鳴るな、うるさい」
 刺されたのは理解していた。
 ただ、背中側なのでどのくらいの傷なのか分からない。何で刺されたかも分からなかったし、痛みはまだどこにもなかった。がくりと力が抜けた膝を立て直して身体を起こす。首を回すと、何かを喚き散らす男の背中が少し離れたところに見えた。この暑いのに、スプリングコートを着込んでいる。男は右手に持った三徳包丁を振り回し、手当たり次第誰かを傷つけようと暴れていた。
 秋野は背中側に手を回した。シャツの脇腹が濡れていて、触れた掌は真っ赤に塗れ、ぬらぬらと光っている。
「くそ……運が悪い」
「無駄にでかいから目立つんだろ」
 哲は無表情で低く言うと、Tシャツの上に着ていたシャツを脱ぎ、それを手早く畳んで秋野に押しつけた。
「何だ——暑いのか」
「馬鹿か、てめえは」
 一見完全な無表情は蒼白で、どちらが刺されたのか分からないほど強張っていた。目だけがぎらぎらと光り、食いしばった顎に筋肉が浮いている。不機嫌な顔はしょっちゅうだし、怒った顔も見たことがある。だが、目の前の表情に、出血による貧血のせいだけでなくくらっと来た。
 自分の置かれた状況も、怪我のことも、意識からすっぽり抜けた。
 真っ青な空と、蜃気楼が浮かぶほど熱せられたアスファルト。エアコンの室外機が吐き出す異常な熱気が渦巻くビルの間の地面目の前に佇む男を押し倒し、そのすべてを食い散らかしたい衝動だけを実感した。背中の傷から滲み出す血液を差し出して得られるならそうしたい。いくらだって、誰にだってくれてやる。
「心臓に悪い」
 秋野の呟きに一瞬訝しげに眉を寄せ、哲は小さく舌打ちした。
「止血してろ」
 吐き捨てた哲は、今まさに老女の背中を切りつけた男に向かって駆け出した。