仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 16

 その瞬間の哲の顔を、多分一生忘れることはないだろう。
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはああいう表情を言うのだと思った。豆鉄砲を見たことはないが、鳩はある。感情が欠落し、ただ唖然としているその顔は、地面から顔を上げた鳩そっくりだ。
 愛情云々を口にしてあんな顔をされたことは今まで一度もなかったし、多分これからもないに違いない。
 最初の数秒哲はそうして固まっていたが、徐々に眉が顰められ、眉間に真一文字の皺が寄った。怒っているのか、疑っているのか、呆れているのか、そのすべてなのか、どれでもないのか。訊ねたところで答えが返ってくるとも思えず、秋野は腰を屈めて吸殻を拾い上げた。
「行くぞ」
「……行くって?」
 哲はどこか腰が引けた様子で呟く。笑いそうになったが、臍を曲げられても厄介だから何とか堪えた。
「輪島さんとこ。手、何とかしてもらえ」
 それだけ言って踵を返す。重たいドアを引き振り返ると、哲はまだ先程のところに立っていた。ドアを開けたまま待っていると、渋々と言った様子で歩き出す。
 一歩踏み出すたびに顔をしかめ、普段より猫背気味だ。肋骨が折れたのだろう。折るつもりで殴ったのだから当然だ。耐えきれずに小さく笑うと、哲は不機嫌そうに低く唸り、秋野の横をすり抜け階段を下りて行った。

 輪島は心底呆れた、という顔をして、わざとらしく溜息を吐いてみせた。
 秋野の腕の傷は自分でつけたものだったが、絆創膏を貼って済む程度ではなかった。哲も自分で刃物を握ったのだから同じようなもので、輪島の表情も当然である。
 大人しく処置を受け、誰もいない一階に下りた。傷だらけのカウンターに突っ伏して寝てしまいたい。そんな衝動を押さえつけ、煙草を吸って哲を待った。
「この間も言ったけどな、自分の身体は大事にしないと」
 輪島が哲を伴って階段を下りてきた。哲の右手には包帯が巻かれている。一部が赤黒く痣になっている顔と併せて見ると、KO負けしたボクサーのようだった。
「十代じゃないんだから、生傷作りすぎだ。佐崎君もだよ。肋骨は骨折二本ヒビ一本、おまけに右手も和範に聞いたのより傷増やしてるし」
「あー……ええと」
 あの時負った哲の右手の怪我は手塚が処置したらしい。哲は輪島を見て、すみません、と頭を下げた。輪島は苦笑し、哲の肩を軽く叩いた。
「いや、俺に謝ることないけどね。心配してるだけ。秋野、お前もほんと自重しろよ」
「分かってる。ありがとう、輪島さん」
 秋野はカウンターの椅子から腰を上げ、哲を一瞥した。哲は秋野の視線を数秒受け止め、そして逸らした。飴色になったカウンターの上を哲の視線が滑る。
 開店準備中にやってきたから、客は誰もいなかった。まだ綺麗なままのカウンターに、間隔を開けて灰皿が置いてある。輪島の妻が選んだという、白地に青の模様が入った陶器の灰皿。店の中で唯一真新しいそれが、秋野の目を引いた。
「……佐崎君」
 輪島の低く潜めた声が耳に届き、秋野の意識は灰皿から引き戻された。
「秋野と行くの嫌なら、行かなくていいと思うよ。無理に連れて行くってあいつが言っても、俺が許さない」
 輪島はどこから取り出したのか、布巾を弄びながら秋野を一瞥し、哲に視線を戻した。哲は輪島の顔を暫く見つめ、ちょっと笑った。
「——有難うございます」
「佐崎君」
「……自分のことなんで——」
 輪島に答える哲の声は低く微かで、途切れ途切れに聞こえた。秋野に聞かせようとしているわけではないからかも知れない。
 秋野は話している哲と輪島に背を向けて引き戸を開けた。まだ内側にあった紺色の暖簾が頭に触れる。すぐに哲と輪島が続いて現れ、輪島はこちらに手を振って、看板を出して暖簾を外側に掛け始めた。
 輪島の手元をぼんやり見ていたら、背後に哲の気配を感じた。秋野が肩越しに振り返ると、すぐそこに哲が立っていた。
「まだ話あんのか?」
 屋上で見せた呆けたような表情はどこにもなかった。冷たくはないが険しい目つきで秋野を見つめる哲は突っ立ったままだ。
 ついさっき愛だか恋だか——この際もう何だっていいが——を話題にしたのは夢だったのではないかと思えるくらい、哲の態度は素っ気なかった。
「お前がまだ俺を避ける気なら、あるよ」
「……分かった」
 哲は無表情に告げ、先に立って歩き始めた。

 

 哲は秋野の部屋に向かっているようだった。自分の部屋に向かわないのは、いつでも立ち去れるように、ということなのだろう。
 それほど長くはない道中、哲はずっと秋野の前を歩いていた。見る限り、いつもと様子は変わらない。全力疾走が徒労に終わって怒り狂っていたのが嘘のように、落ち着いた歩み方だった。ポケットに手を突っ込んで黙々と歩く。肋骨が痛いはずだが、それも普段より僅かに猫背気味なだけで、知らなければ気付かないくらいの違いだった。
「なあ、哲」
 先にアパートの前に辿り着いた哲の背中に向かって呼びかけた。適当にワックスをつけただけの哲の頭がゆっくりとこちらを向く。街灯が上から照らす哲の顔は骨格が際立って妙に男臭かった。
 秋野は哲に追いつき、間近で哲の顔を見下ろした。秋野が灯りを遮ったせいで、哲の顔から陰影が消える。そのせいなのか、哲が何を思っているのか、表情からは推し量れなかった。
 内心を一切窺わせない仮面のような不自然さは払拭されていたものの、淡々としたその態度はやはりいつものそれとは少し違った。
「歓迎される発言じゃなかったのは分かってるが、取り消さない」
「…………」
 更に一歩近寄って見下ろすと、哲の睫毛が目の下に薄い影を落とした。日本人に多い、真っ直ぐ下を向いたそれ。直線的な睫毛の形は哲だけのものではないというのに、どうしてか哲をよく表しているように思えた。
「聞かなかったことにして、全部なかったことにして、俺から離れようと思ってるんだろ? 今もまだ」
 哲は答えなかったが、それが答えのようなものだった。
「駄目だ。許さない」
「てめえの許可なんかいらね——」
 秋野は哲の首筋を掴み、力いっぱい引っ張った。首と肩を抱え込むようにし、噛みつく勢いで口付ける。差し入れた舌を噛まれたが放っておいた。噛み切られることはないだろう。それならば多少の傷が何だというのだ。
「な——……てめ、この、道端だぞおいっ!!」
 喚いた哲に腹を殴られ、半歩下がる。秋野は腕の中から脱け出そうとした哲の肩を掴んだままアパートに足を向けた。引き摺るように階段を引っ張り上げ、何とか部屋の前に辿り着く。哲は身を捩って逃げようとしたが、身体ごとドアに押さえつけられて唸り声を上げた。幾ら哲が喧嘩巧者と言っても体格と膂力では間違いなく秋野に劣っているし、おまけに今は怪我をして、疲れている。
「どういう」
 皆まで言わせず唇を重ね、顎の骨ごと掴んで無理矢理口を開けさせた。歯の裏側をなぞり、口蓋を舌先で辿る。哲の喉の奥から濁った威嚇音が響き、唾液が唇の端から顎へと伝った。噛まれた舌の先が微かに痛み、口の中が錆臭い。哲の両手首をそれぞれ掴み、顔の横に縫いとめた。全身で押さえ込み、哲の息が上がっていくのを感じながら突き入れる舌の角度を変えて貪る。
 柔らかい舌の感触と、弱々しくも抵抗を止めない骨ばった身体の感触の違いに興奮した。浅い呼吸が触れ合う肌を湿らせ、哲の喉から低く掠れた呻きが漏れた。
 すぐ近くでドアが開閉する音がした。哲の唇を舐めながら目を上げると、隣の住人が突っ立っていた。暫く空室になっていた隣にこの若者が引っ越してきて数ヶ月経っただろうか、出入りを見かけたことはあるが、きちんと見るのはこれが初めてだ。
 ごく普通に「何か用か」と言ったつもりが、何故か口から出たのはスペイン語だった。理由は秋野にも分からない。水商売風の若い男は数秒呆けたようにこちらを凝視していたが、秋野と目が合うとぎょっとした顔をして、ほとんど走るように歩き去った。
「部屋の前で何なんだよ、馬鹿かてめえは!!」
「ろくでもなくて悪かったな。暫く離れてたらもう忘れたのか」
 怒鳴る哲に覆いかぶさったまま、鍵を取り出す。もう一度顔を捕まえて口付け、その姿勢のままドアを押し開けた。哲の右足の甲がまともに脛にぶつかって、頭のてっぺんに痛みが抜ける。掴んでいた手首を捻り上げて背中に回しながら、勢いのまま、哲の身体を閉めたドアに叩きつけた。
「い——っ」
 眉の上をドアにぶつけた哲が痛みに息を飲むのを見て溜飲が下がった。脛を思い切り蹴られれば、秋野だって痛いのだ。鍵をかけ、警察が容疑者にするように哲を引っ立て靴を脱がずに部屋に上がった。すぐそこの壁にもう一度哲を押し付ける。腕を間に挟み、密着させた胸で背中を圧する。哲は秋野と肋骨について多彩な単語を並べ立てて激しく毒づき、その様子が嬉しくて更に腕をねじ上げた。
「痛え! 折れるだろうが!! アバラの上に腕まで折る気かこの野郎!!」
「加減してるから折れないよ。お前が喚くと楽しくてたまらん」
「このサド野郎が……!!」
「まあ否定はしないが、お前が相手のときだけだぞ。それに」
 肩越しにこちらを睨みつける哲の目には、ここ最近ほとんどお目にかかれなかったあの獣じみた色があった。
「多分俺の前でだけなんだろうが、お前はマゾっぽいよ、哲」
 秋野が耳元で囁くと哲は物凄い目付きで睨みつけてきたが、特に反論せず、ただ「にやにやすんな」と吐き捨てた。
「俺が怖いんだろう?」
 耳朶に、うなじに歯を当てながら訊ねてみる。答えは返ってこなかったが、元々期待していなかった。閉め切っていた部屋の空気は生温く澱み、陽が落ちて幾らか気温が下がったとはいえ十分に暑かった。密着しているせいで服の下に汗が滲む。哲の首筋も僅かに湿っていて、しっとりした肌の感触が妙に扇情的だった。
「最初からずっと怖かった、違うか?」
「うるせえな。だったら何だって」
「今も怖いんだろう。ずっと怖かったくせに、これから先が怖いから離れるなんて馬鹿げてる」
「俺が言ってんのはそういうことじゃねえし——」
 Tシャツの裾から手を入れ、輪島が貼った湿布の上に掌を当てて力を籠める。哲は身体を硬くし、一層強く圧迫すると言葉はそれ以上続かなかった。荒い呼吸が壁を伝って天井へと逃げて行く気がする。哲のすべてを我がものにしたい。例え呼吸ひとつでも逃がすのは惜しいと思った。
 髪を鷲掴みにして壁に頭を押し付ける。掴んだ髪の束に、引っ張られた生え際に口付ける。指を離し、ゆっくりと元に戻ろうとする髪に、耳の後ろに、首筋に鼻を擦り寄せ哲の匂いを嗅いだ。煙草で燻されたような髪の香り。いい香りとは言えないが、それは間違いなく哲の匂いだ。
 多香子がいなくなった時もそうだった。辛いかもしれないが、哲がいなければ生きていけないわけではない。哲がいても悪夢を見てうなされることに変わりない。哲が離れて行こうとした本当の理由も分からず、自分自身の胸の内すら曖昧なままで、それでも図々しく欲しいと言えることだけが事実なのだ。
 悪いのは俺じゃない、始まったのは俺だけのせいじゃない。哲への執着が何故か歪んだ愛らしきものになってしまったのも、俺だけのせいじゃない。幾らそうして己を擁護してみたところで何の益もない。先に手を打とうとした哲を阻むのも自分、正しいのは哲なのかも知れないとしつこく耳元で囁くのも自分なら、それがどうしたと叫びたいのも自分だった。
「理由はもうどうでもいい。幾ら説明されたって、どうせ他人の腹の中なんて、分かるわけがないんだ」
 哲の身体をひっくり返し、壁に背中をつけさせた。痛みを堪える顔をしているが、歯を食いしばったまま一言も発しない。哲は何かを量るように目を眇め、真正面から秋野を見据えた。刺々しいと言ってもいいその瞳を更に険しくし、哲は何も言わずに秋野の眼前に立っていた。
「どこへもやらない。だから諦めろ」
 壁に手をつき哲を閉じ込めるようにして、首から顎、耳へと噛みつきながら口付ける。
 哲の腕がゆっくりと動き、払われるかと思ったら、腕は秋野を引き寄せた。身体を離して顔を覗き込む。相変わらず険しい表情のままこちらを睨みつける瞳の奥に、諦念らしきものが浮かんで見えた。
「哲」
 低い唸り声で返事があったが、当然ながら意味は分からない。動物じゃあるまいし、と呆れながら、秋野は哲の首筋に顔を埋めた。哲が秋野の髪に指を突っ込んで掻き乱す。肌に歯を立て吸い上げる度、荒っぽく梳き、縋るように掴まれる。反らされた喉に思い切り噛みついたら、膝蹴りされた。
「痛いよ」
「自業自得っつうんだよ」
 低く吼えるような声音に思わず笑みが浮かぶ。その場に押し倒そうと脚を払いかけ、すんでのところで思い留まった。肋骨を折っているのだから、さすがにそれは酷だろう。ついさっき敢えてそこを攻撃したことを棚上げして、秋野はひょいと身体を屈めた。
「うわっ!?」
「俺だってやりたくてやるわけじゃないぞ。言っとくけど」
 横抱きにされた哲は憤怒の形相で、秋野の胸に膝を入れた。
「どんな嫌がらせだ!! 下ろせこの馬鹿!!」
「あのなあ、気を遣ってやってるんだぞ。暴れるな。あちこち痛むんだろう」
「どの口が言いやがんだそういうことを!!」
 部屋を大股で横切って、ベッドの上で哲から手を放す。多少手荒く放り出したところで、床に倒されるよりマシなはずだ。投げ出された哲の足を見てそういえば靴を履いたままだったと思い出したが、結局どうでもよくなって、そのまま哲の上に覆いかぶさった。