仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 15

 何もない部屋の真ん中の椅子に座って三本煙草を吸って、哲はようやく重たい腰を上げた。
 掌が乾いた血で突っ張っている。ビルのトイレに寄って鏡を見たら、酷い顔で驚いた。殴られた部分はえらいことになっている。腫れはそれほどでもないが、鬱血の色がものすごい。おまけに鼻血が顔の下半分を染めていて、このまま外に出たら通報されるに違いないご面相だった。
 さすがにこれはないだろうと、古び、曇った鏡に独りごちる。
 冷たい水と屈む度に痛む肋骨に毒づきながら、何とか血の汚れだけは洗い落とした。備え付けのペーパータオルで水気を拭きとったら一応見られるようになったが、腫れと痣はどうしようもない。溜息を吐き、洗面台についた手で身体を支えた。小さな排水溝に吸い込まれていく水の筋をぼんやり眺め、帰って洗濯でもするかと思いながら徐々に身体を起こす。庇ったはずのアバラはそれでも痛み、悪態を吐いてトイレのドアを乱暴に閉め、階段を数段降りたところで携帯が動き出した。
 誰からの着信なのか見たくなくて躊躇った。
 今更秋野がかけてくるはずはない。だが、秋野の関係者からかかって来た可能性はかなり高い。迎えを頼んだ川端か、猪田あたりだったら和むのに。そう思いながら渋々画面を見てみると、案の定、耀司の名前が表示されていた。
 秋野が出て行ってから結構な時間が経っている。その間、あの男が耀司のところへ直行して色々報告していたとは思えないが、そうでなくても耀司のことだ、話題は秋野のことに決まっている。頭では出るかどうか迷いつつ、殆ど無意識のうちに通話ボタンを押してしまっていた。舌打ちが出かけたが、耀司には何の罪もない。
「も」
「哲!!」
 もしもし、とも言わないうちに、耳元で耀司の馬鹿でかい声が炸裂した。割れて上擦った声にげんなりする。耀司がうろたえ、俺のせいだと自分を責めるのは想像できて、哲は小さく溜息を吐いた。
「よ」
「哲、哲っ!!」
 耀司、と名前を言い終わる前にまた耀司が喚きだした。
「お前、声でか——」
「秋野、秋野っ」
「少し落ち着け」
「あ、秋野、刺されっ……怪我した!」
「はあ? 何だよ、今更。知ってるって、その場にいたんだから。あのな」
「違う、今! うわ、それ、血っ!!」
 耀司の切羽詰まった声に、一気に身体中の血が下がった。
「哲、う、うち! 俺ん家! ちょ、秋」
 突然電話が切れて耀司の声がぶつりと途切れた。
 金気臭い血臭と、その場に渦巻く恐怖の臭い。
 感情にも臭いがあるのだと、初めて知った。
 背中にべったりと染み出してきた秋野の血。哲のシャツを赤黒く染めていく、秋野の中から滲みだす血。
 蒸し暑さに流れる汗と、血の臭いに滲む冷や汗。秋野の青ざめた頬に落ちた翳り、耳の奥で轟々と唸りを上げる血流、血管が脈打つ度に頭蓋が揺さぶられるようなあの怒りと恐怖。
 一気に蘇ったものは瞬間的に霧散したが、それでも哲をもう一度打ちのめした。
 階段を駆け下り、ビルの出口を飛び出した勢いですれ違った若いやつを思い切り吹っ飛ばした。
「おいっ!! 危ない——」
 地面に転がった男の連れが背後で怒鳴っていたが、ほとんど耳に入らなかった。
 どうして走ったりしているのか分からない。
 仕入屋には今後一切関わらないと決めたはずだ。他の誰のためでもない、自分のためにそう決めた。秋野が壊れるのなんか見たくない。そうするのが一番いいと思ったし、秋野も納得したではないか。
「残念だ」とあいつも言った。それで仕舞いのはずだろう。
 急ブレーキをかけたように足が止まり、哲は道路の真ん中で立ち竦んだ。
 知らぬ間に全力疾走していたらしく、息が上がって喉から掠れた音が漏れていた。息が苦しい。止まった途端に額から汗が噴き出す。生温い空気が腕に、顔に纏わりついて、液体の中を歩いているように錯覚した。
 急ぐことはない。行かなくてもいい。このまま耀司に任せておけば、何も問題ないはずだ。
 繁華街のど真ん中で、人の流れを邪魔しながらいらないことを考えていたのは一体どれくらいだったのか。気がついたらまた走っていた。
 長年の喫煙のせいで馬鹿になっている肺が苦しくて、それなのに、どうしようもなく煙草が欲しかった。

 大谷ビルヂング——看板は随分前に直っている——に辿り着き、耀司と真菜が暮らす三階まで一気に階段を駆け上がった。荒い息を吐きながら耀司の住まいのドアに向き直りかけ、階段の壁にべったりとついた大量の血糊に気がついた。
 毒々しい暗紅色が広範囲に飛び散っている、その量にぞっとした。擦ったように幅広の帯が上の階に向かって伸び、その先に不完全な手形が幾つかついていて、少なくともそのうち一つは秋野のものだと確信できた。
 ドアに背を向け階段に足をかける。この間、哲の目の前で流れた秋野の血よりも更に大量のそれ。インクやペンキではありえない生臭さ、金気臭さが鼻につき、膝が震えた。
 そこに秋野が転がっていて、血が流れていたらどうしたらいい。
 目の前に報復できる誰かがいればそれでいい。秋野が死んでしまっても仕方がない。だが、もしも秋野だけがそこにいたらどうすればいい。他に怒りを向ける相手が、誰ひとり、何ひとつ残っていなかったら。
 そうしたら、一体どうやって耐えればいいのか分からない。
 壁に塗りたくられた禍々しい血痕を横目に屋上まで一息に上り切り、肩で息をしながら重たい鉄のドアを押し開く。ドアノブにも薄く血の痕がついていた。喉が詰まり、動悸が激しくなって一目散に逃げ出したくなる。何を見ることになるのかは意識して考えず、哲は扉を開け放った。

 

「俺の勝ちだ」

 最初に目に入ったのは、既に血が止まって乾き始めている秋野の左腕の傷だった。
 傷はかなり長いが、そう深くはない。
 足の先から顔まで、しっかり眺める。大量出血を思わせる傷はどこにもなく、秋野は煙草を銜え、背筋を伸ばし、自分自身の二本の脚でしっかり立っていた。
 溜息が聞こえ、哲は視線を横にずらした。耀司がフェンスに凭れて立っており、泣きそうな顔で哲を見ていた。
「勝ちも何も——俺は別に賭けたりとか……」
 耀司の台詞は尻すぼみに小さくなっていき、哲にじっと見られて完全に消えた。
「この」
 思ったよりも嗄れた声が出た。咳払いし、息を整えようと深呼吸する。まだ膝が笑っていて、真っ直ぐ立ってはいたがぐらぐらした。
「この、くそったれがっ!!」
 腹の底から一喝したら、がしゃんと派手な音がした。後ずさった耀司がフェンスにぶつかったらしい。分かっていたが、耀司のことはすぐに忘れた。
「てめえ、一体何のつもりだ!」
「何って?」
「耀司に電話させたろうが、ああ!?」
「あいつが勝手にかけたんだ。俺がそうしろって言ったわけじゃない」
 しれっと言って、秋野は煙を吐き出した。口の端を曲げるいつもの笑い方が癇に障る。
「お前に電話しろなんて一言だって口にしてない。俺が自分で自分を刺して、それから壁にパックの血ぶちまけたから動揺したんだろ」
「はあ!? 自分で? パック? 何だって!?」
 歩み寄る哲に向け、秋野はポケットからナイフを取り出してくるりと回して見せた。さっき哲の手首のロープを切った小ぶりのナイフだ。
「そう。自分で刺した。それから、演出のために処分予定の血液製剤を撒いてみた」
「血液製剤だあ!? お前赤十字じゃあるまいしすぐ手に入るわけねえだろそんなもん!!」
「あのなあ。お前、俺を誰だと思ってるんだ?」
 呑気に笑う仕入屋にかっときて、その手の煙草を払い落として踏みつけた。秋野は片眉を引き上げたが何も言わない。手を伸ばしてシャツの胸倉を引っ掴み、十センチ高いところにある頭を引き寄せる。
「笑えねえ冗談で人を呼びつけんな、この馬鹿が!!」
「笑えないかもな。でも別に冗談じゃないよ。それに呼びつけてない」
「うるせえ黙れ!! 来いって言わなかっただけで同じことじゃねえか!」
 咄嗟に出た拳を、秋野は避けようとしなかった。拳の骨で秋野の頬骨の硬さを感じ、殴られる直前に秋野が笑ったことを骨の動きで知る。完全に治っていない拳が痛み、走っているときには感じなかった肋骨の疼痛がぶり返す。抑えきれない怒りが胸郭を押し上げ突き破りそうに暴れ出し、哲は獣じみた唸り声を上げた。
「馬鹿にしやがって——!!」
「馬鹿になんかしてない」
 秋野は薄茶の目を細めて笑う。何事もなかったような表情が哲の怒りに油を注いだ。
「無駄な労力使わせんじゃねえよ! 一体どういうつもりだこの野郎!」
「なあ哲、お前、全速力で走って来たか?」
「他に一体どうしろってんだよ!? 当たり前のこといちいち聞くなっ!!」
 哲は吼えるようにそう答え、言い終わる前から後悔して口を噤んだ。面倒くさいことになるだけ、言っても仕方のないことだ。だが、反射的に言葉にしてしまったのだからもう遅かった。
「だから言ったろ、耀司」
 薄らと笑みを浮かべた秋野の指が哲の首に触れる。秋野は手の甲で哲の首筋をゆっくり撫で、哲を見つめたまま耀司に声をかけた。
「哲が、来ないわけがない」
 秋野は薄い色の目を細め、哲の首筋をきつく掴んだ。
「俺が刺されたって聞いて、全力疾走してこないわけがない。そう言ったろう」
 催眠術にかけられたように視線を逸らせないまま、秋野の指の形を感じて身震いする。
「……そうだな。お前の言う通りだよ」
 耀司の声がして、フェンスに触れるがちゃがちゃという音がする。哲から見えないところで耀司が溜息を吐くのが微かに聞こえた。
「だからって俺をびびらせて使うのやめろよ。言ってくれれば……」
「お前に演技はできないだろう。やらせだってばれたら、こいつは来なかったんだろうし」
 含み笑いとともに、手の甲が哲の頬に移動した。腫れた頬の上を滑る骨ばった手の感触。強い風が吹いて秋野の前髪を弄ぶ。黄色の目の上に黒い前髪が落ちかかり、別の風に払われてまた瞳が露わになった。秋野の胸倉を掴んでいたままだったと気付き、手を離す。
「……あの血、何とかしろよな」
「血痕落とす専門の業者を知ってる。呼ぶよ」
「頼むよ、ほんと。真菜があれ見たら、幾らお前の仕業でも激怒するぞ」
「朝までに全部終わらせておく」
 重たいドアの閉まる音がして、耀司が階下に下りて行ったのだと知れた。秋野は煙草を銜えて火を点け、かなり長いこと黙って煙を吐いていたが、不意に哲に目を向け、口を開いた。
「騙くらかして悪かったよ。お前がどうするのか確信はあったけどな、それでも実際に見たかったんだ。俺が言うことをお前がどう取ろうと自由だが、心底俺のことがどうでもよくなったっていうなら、何を言っても始まらんわけだから」
「……何言ってんだかわかんねえんだけど」
 それ以上どう返したものか分からなくて立ち尽くす哲を見やり、秋野はゆっくりと煙を吐いた。
「自分でも不本意だし、歪んでると思うよ」
「だから一体」
「多分これも一種の愛情ってやつなんだろう」
「——はあ?」
 空気が抜けたような哲の声がおかしかったのか、それとも他に意味があるのか。秋野は微かに目を細め、唇の端を曲げて笑った。
「歪んでようが何だろうが、よりによってお前相手に愛を語るなんて、俺も正直寒気がするよ」
 屋上に照明はなく秋野の輪郭はぼんやり滲んでいたが、顔は見えた。
「なあ、哲」
 繁華街の明かりを映し、立ちこめる朝靄のように白く光る空。地上の光の反射でしかない、偽りの天の明かり。それは紛い物であると同時に本物で、光であるという事実は変わらない。例え光源がどこであろうとも、照らされるものにとっては同じことだ。
 言葉もなく突っ立つ哲に向かって小さく肩を竦め、秋野は煙草を落として踏み消した。