仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 14

 連れ戻されてなるものかと、哲は本気で抵抗を試みた。万力のように腕を締め上げる秋野の手を振り解こうともがいた。だが、折れてはいなくともヒビは入ったに違いない肋骨が自己主張を止めないものだから、いささか情けない抵抗だったのは否めない。
 易々と連行されるなんて屈辱だ。頭に来て叫び出したくなったが、許容だけでなく拒否も無関心とは対極にあると気付いて何とか飲み込んだ。
 本当は無関心なんかではない。
 今も、秋野に殴られた場所が痛い。身体中に散らばる、疼くような鈍痛。ひとつひとつが声を持ち、恨みを晴らせと声高に主張する。声に従い、頭蓋の中で荒れ狂う衝動に身を任せ、吼え、殴り、蹴り、噛みついて引き裂きたかった。だが、そうすれば結局同じことになるだけだ。
 同じことが繰り返され、いつか出口が塞がれる。
 哲は左手で額を擦り、歯の間から空気を押し出した。数秒目を閉じこめかみに指の腹を押し付ける。何かが軋む音に目を開けると、秋野がドアを開けていた。引っ張られ、背中を押されて押し込まれてたたらを踏む。
 最初は秋野の知人とやらに引っ張り込まれ、続いてチハルに強引に押し出され、今度は秋野に押し込まれた。どいつもこいつも人を荷物みたいに扱いやがって、と思うとむかついた。
 文句を言うくらいなら構わないはずだと自分を納得させて振り返ったが、口を開く前に突き飛ばされて壁際に追い詰められた。またぞろ殴られるのかと筋肉に力が入ったが、足を踏ん張り重心を低くしたところで抱き竦められ、物理的に息が詰まる。ベアハグかよ、と思ったが、腕の力はすぐに緩んだ。
 離れることは許されなかったが、密着とは言えないくらいには身体が離れた。
 秋野の顔は無表情で、さっきまでとは別人のように見えた。何を考えているのか分からない薄茶の目が、真正面から哲を見つめる。背中を見せて走り去りたい、そう感じることに腹が立つ。今でも、秋野のどこかが恐ろしいのだ。
 秋野は哲の顔をじっくり眺め、おもむろに口を開いた。
「耀司に言った理由、あれ、本心じゃないだろう」
「……」
「まともすぎる」
 同じ問いの繰り返しだったが、秋野の声は表情と同じように低く落ち着いて、さっきまでの張りつめた様子が消えていた。間近で見る瞳に吸い込まれそうになる。濃く長い黒い睫毛、漆黒の瞳孔と虹彩のコントラスト。様々な色合いの金や茶色の細い筋が、そこだけ別の生き物のように煌めいている。
「俺がまともなこと言っちゃ悪いか」
「いや」
 秋野はあっさり答え、首を振った。腕は哲を拘束したままだが、表情に緊張はない。
「お前は自分で思ってるよりは真人間だと思うが、こと俺に関してはかなりいかれてる」
「……自惚れんじゃねえ」
「事実だろ。なあ、本当の理由を言えよ」
 何か言うつもりなどなかった。哲は秋野がどう思おうと構わない。だから、説明の必要があるとは思っていなかった。恋人と別れるわけでなし、弁解することは何もない。
「出口が」
 そう思ったのに、言葉が口を衝いて出た。言ってしまったからには仕方ないかと思ったが、すべて伝えてしまうのは業腹だった。それに、多分うまく伝えられない。頭の中を言葉が飛び交いこんがらがって、哲は数秒口ごもった。
「出口?」
「……お前と二人きりなんてご免ってことだ」
 うなじに秋野の指を感じ、他人の体温と自分のそれとの差に、ごく僅かに鳥肌が立つ。指はゆっくりと哲の肌を擦った。指の力はごく弱く、掴まれているという感じもない。そういうふうに触れられるのは苛立たしくて、手を持ち上げて秋野の指を振り払った。
「檻みてえだ。狭くて出口もないような、そんなの」
「ずっとそうだったって言いたいのか」
「違う」
 秋野の肉食獣じみた瞳が一瞬消えた。数秒後、消えたのではなく単に瞬きしたのだと気がついた。何故か、顔立ちが、表情が目に入らない。あるのは金色のそれと低い声だけだ。
「何でか知らねえけど、俺にとってお前は特別だって思ってた。でも、特別だなんだっつったって、結局は程度問題だろ。誰かより気が合うとか、誰かより価値があるとか、誰かと比べてどの程度どうかって。俺が今まで関わったやつらの中で比較して、それでお前が一番何か引っ掛かるってことだと思ってた。確かにお前は特別で、でも、お前しか存在しなかったわけじゃなかった」
 哲は身体の力を抜いた。肋骨の痛みが倍加したように感じて舌打ちし、ゆっくりと息を吸い込み、同じように吐いた。力を籠めて秋野を突き放す。秋野は一歩下がって大人しくそこに立っている。
「俺に見えてんのはお前だけだ」
 何だって、つまらないことを口にしている。そう思ったが、話すことはない、さっさと立ち去れと言い張ったって、諦めの悪いこの男を追い払うのは難しい。
「お前より耀司の方が好きだし、女と寝るほうがずっといい。なのに、お前じゃない他の誰にも本気で関心を向けられねえって、それって一体何なんだよ?」
 秋野は微かに首を傾げて哲を見た。野生動物が一瞬見せる表情と仕草によく似ている。何を考えているのかよく分からないこの顔が、哲は嫌いだ。
「前は違ってた。こんなじゃなかった。唯一ってわけじゃなかった。年数か? 何かの積み重ねで変わったのか? 俺には分かんねえし、分かっても元に戻せねえよ。そんでこのまま続けて、変わり続けて、それでお前しか存在しなくなったとしたら? おかしいだろ、そんなの。それで——…………」
 結局、言いかけて最後で思い留まった。
 自分の執着の度が過ぎているせいで秋野が壊れるのが怖いなんて、死んでも口にしたくなかった。
 お前のためだ、なんて口が裂けても言いたくない。お綺麗な自己犠牲だと思われたら洒落にもならない。そんなものとはまるで違うのに、語彙が貧困なせいかそれとも頭が悪いせいか、どうしてもうまく表現できないのだ。
 しかし、例え今より巧みに言葉を操れるとしても、多分口には出せないだろう。
 怖いと認めるのは恥ではないのだと、頭では分かっている。だが、気付いてしまってからずっと、哲のくだらないプライドは、認めることを拒んで暴れ、もがいている。
 望んでこうなったわけではない。進みたくて進むわけではない。掴みたくて掴んだはずだがもう分からない。望まれてもいないのに他人のために怖がって、遠ざかろうと決めたのに捨てきれなくて眠れなくて苦しくて食えもしなくて辛いなんて誰が言える? 自分で手放そうとしておいて、行かないでくれなんて言えやしない。
 危うく涙が出そうになった。
 悲しいわけではない。多分、悔しいのだ。自分でどうにかできるものならどうにかしたい。初めて秋野の顔を見たあの日より一日前に戻れるものなら喜んで戻りたかった。
 人生から、記憶から、身体の中から、きれいさっぱり仕入屋の存在を消せるなら、知らないうちに持っていかれた何かを欠けることなく取り戻せるなら、何を失ったって惜しくないと本気で思えた。
「そうか」
 秋野の静かな声が耳朶を打ち、哲はいつの間にか掴まれた手首に視線を落とした。血でべたつき汚れた右掌が上を向いている。秋野の指が手首に絡み、哲の手を持ち上げていた。
 傷ついた掌の上に何かが置かれる。それが何か分からなくて、哲は瞬きを繰り返した。渋いカーキ色はチハルのシャツの色だ。握らされたそれは布だけではないようで、芯の方は硬かった。布の隙間から鈍い光が覗いていて、それが金属だと知れた。
「残念だよ、哲」
 低く深く、笑いを含んだような秋野の声。眉を顰めた哲と視線を合わせ、秋野は哲の記憶にある中で一番優しげで、そして残酷そうな笑みを浮かべた。
 秋野の手からゆっくりと力が抜け、哲の手首から離れていく。手の甲を撫でる指先の冷たさが妙に印象的だった。最後に指先を軽く握って離れると、秋野は何も言わずに哲に背を向けた。
「おい!」
 秋野が立ち止まって振り返る。底光りするような金色の双眸に見つめられ、哲は束の間何を言いかけたのか失念して息を呑んだ。
「——要らねえ。持って行け」
 ようやく喉から出た声は、妙にしわがれていて小さかった。
 チハルのシャツとナイフを差し出すと、秋野は戻ってきてそれを受け取り、黙ってドアから出て行った。
 静かにドアが閉じられて、埃っぽい部屋に一人になる。まるで世間から隔絶されてしまったかのように音のない空間で、哲は暫し呆けたように突っ立っていた。
 秋野が手の届くところにいない毎日。
 それなりに手間取りはしたものの、結局こうして手に入れた。
 怖気づいた俺が悪いのか。そう思ったら、ほんの少しの間だけ、呼吸ができなくなった気がした。