仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 13

 哲は血の滲む手を無造作にポケットに突っ込み、携帯を取り出した。携帯の表面に血がついたのを見て顔を顰め、別の手に持ち直す。何をするのかと思って見ていると、哲は電話を耳に当てた。
「……俺。ああ? 今——」
 哲は相手の名前を言わなかったが、微かに漏れてくる音で、それが川端の声だと分かった。哲はビルの住所と名前を川端に告げ、秋野の目を数秒見つめた。
「そこからなら十分かかんねえだろ——ああ。悪いけど、迎えに来てくんねえかな」
 逸らされた視線が癇に障った。川端を巻き込むのは本意ではないから、彼が来れば秋野は黙るしかない。それなら時間は十分しかないということだ。
「別に、そういうわけじゃねえけど。車? いや、うん。ああ。頼むわ、おっさん」
 哲が携帯をポケットに戻し、掌の血をTシャツの裾で拭いた。こちらに向けた一瞥に、目の前がかっと赤くなった。
 何も分からなくなったりはしなかった。目の前が赤くなるくらい強い何かを感じたが、冷静にそれを感じられるのは一体どういうわけか。哲の白目の部分はとても綺麗に澄んでいる。どうでもいい瑣末な事実が、何故か胸の痛みを喚起した。
 大股で近づき、左手で哲の手を掴む。傷の上から力を籠めて握ると哲が激しく悪態を吐いた。言い終わらないうちに頬骨の上を殴りつける。手を掴まれたままの哲は大きくよろけたが、秋野は手を離さずに傾ぐ身体を引っ張り戻した。哲が手を振りほどこうと腕を振り、肩を捩る動きで哲の鎖骨が浮き上がる。思い切り引き寄せて容赦なくそこに齧りついてやったら哲は喚いて秋野を蹴った。
 手加減せずに肋骨の辺りを数度殴りつける。はっきりした手応えがあり、哲が大きく呻いて身体を曲げた。
 今まで、どんなに腹を立てても哲にそこまでしたことはない。
 内蔵に刺さらないように加減して肋骨を折るくらい秋野にとっては簡単なことだが、そこまで痛めつけたいと思ったことは一度もなかった。そんなふうにしてまで哲の注意を惹きたいという焦燥に駆られたことは、ただの一度も。
 哲の手を握ったままの左手に神経が集中し、冷たくも熱くもないはずなのに、冷気と熱を同時に感じて指が痺れた。
 身体を起こしかけた哲の頬に、手の甲を強かに打ちつける。鼻血が流れ、哲が唸り声を上げ、そしていきなり秋野の身体は真後ろに引っ張られた。
「アキ!! 何やってんだよ、止めろ!!」
 思わぬところから引っ張られ、秋野は哲から手を離した。哲は腹と顔を押さえて呻いている。振り返ると何故かそこにはチハルが立っていて、怖い顔で秋野のシャツの背中を握り締めていた。
「何だ? ここで何してる」
「いいから離れろよ! 何やってんだこの暴力男!!」
「はあ?」
 思いも寄らない人物の顔を見たせいか、酷く間抜けな声が出た。チハルは秋野のシャツを離し、回り込んで来て秋野と哲の間に立った。鼻の下の血を拭う哲も、流石に驚いた顔でチハルの背中を見ている。
「一体……」
「アンヘルから電話あったんだよ!」
「アンヘル? あのオヤジ——一体何で」
 言いかけて、理由なんかないのだと気がついた。アンヘルには常識は通用しないし思いやりにも良心にも欠けている。引っ掻き回したら面白そうだと思っただけだろう。
 チハルはそれほどアンヘルを知らないから分からないに違いない。連絡があった理由を考えようとしたのか数秒押し黙り、顔をしかめてまた怒鳴った。
「知らねえよ、そんなの! 何か全然分かんなかったけど、ここ来いって!!」
「うるさいな、喚くな」
「はあ!? つーか、お前何やってんだ!」
「お前に関係ない」
 吐き捨てた語調の強さに怯んだのか、関係ないと言われて腹を立てたのか。チハルはびくりと首を竦め、そんな自分を恥じるように表情を険しくした。
「関係ねえよ、当たり前だろ! けど、こんなとこでこんなことして、誰か来たら通報されるぞ。この間の事件で誰も彼も過敏になってんだろうが! やるなら人目につかないとこでやれって!!」
 チハルは床に落ちているナイフを見て顔をしかめ、くそ、と呟くとTシャツの上に羽織っていたシャツを脱ぎ、ナイフに被せた。くるくるとシャツを丸めて持つと身体を起こす。Tシャツの色が哲と同じ紺色だったせいか、二人に同時に批難されているような気持ちになった。
「来いよ」
 チハルは哲の肘を掴もうと手を伸ばし、じっと見られて臆したのか目を逸らした。それでももう一度手を伸ばし、哲の腕を引っ張った。
「来いって!」
 まだ痣の残る唇を不機嫌に歪め、チハルは哲を引き摺るように歩かせた。頑是ない子供の我儘に付き合う年寄りのような表情を浮かべ、哲が小さく溜息を吐く。チハルは眦を吊り上げたが、それでも口を噤んだまま哲の背中を押して部屋から押し出した。
「……チハル」
「仲間割れかなんか知らねえけど、理由とか、俺は知りたくねえから!」
 チハルは肩越しに秋野を睨みつけ、整った顔を歪めて目を逸らした。
「お前もあいつも大嫌いだ」
 嫌われないようにする、と言ったときと同じように、チハルの耳が真っ赤になる。チハルはドア枠を三度蹴っ飛ばし、叩きつけるように扉を閉めて出て行った。

 

 千晴は歩く気があるのかないのか分からない錠前屋の背中をぐいぐい押しながら、無理矢理階段を下って行った。鼻血がまだ止まらないらしく、錠前屋はぐすぐすと洟を啜るような音を立てている。猫背気味なのは元々なのか殴られて痛いのかよく分からない。
「おい」
 錠前屋の頭の天辺に声をかけると、肩越しにチハルを一瞥し、錠前屋は「ん」と答えた。
「痛えのか?」
「あー、アバラがいった」
 ざまあみろと思ったが、さすがに口に出すほど子供ではない。何も言わずに階段を下りる。錠前屋も、別に何も言わなかった。
 秋野が錠前屋を殴ることに関して異論はなかった。仕事の話が折り合わないのか、仲が悪いのか。理由はどうでも構わない。千晴にとって錠前屋は、確たる理由はないものの目障りで、達観した様子もやたらと癇に障る相手である。止めに入ったのは別にこの男が殴られていたからではないのだ。
 それにしても、秋野がここまで見境なく暴力を振るうとは思わなかった。昔から喧嘩が強い、では括れないくらいだし——何せアンヘル直伝だ——今の仕事よりかなり危ないことに足を突っ込んでいたのも知っている。だが、だからこそ、秋野が普段腕力に訴えることはほとんどない。
「あんた、何やったんだよ。あいつあんなに怒らせるなんて」
 錠前屋のつむじが真下に見える。錠前屋は手の甲で鼻の下を拭ったが、答えはない。
「無視かよ。なあ、おい。つーか、あんたそのまま外……」
 錠前屋が階段を降り切ったところで、背後に人の気配がした。振り返る間もなく肩を掴まれ、身体が壁際に押し付けられた。荷物のように退かされたことに腹を立てる前に、押し退けられて空いた隙間を秋野の身体が通って行った。
 入口に向かいかけていた錠前屋の肘に秋野の手がかかる。後ろを向かされた錠前屋が目を瞠り、千晴を振り返って何か言いかけた。
「チハル」
 錠前屋を遮るように秋野がチハルの名前を呼び、錠前屋を引き摺って階段を上がって来た。錠前屋は声を出さずに抵抗していたが、その形相は必死だった。低い唸り声を上げ、腕を振り解こうともがいている。折れているらしい肋骨が痛むのか、身体を捻る度に顔をしかめる錠前屋の額にうっすら汗が浮いていた。
「外に人がいる」
 そう言いながら、秋野は千晴のシャツごとナイフを掴み、「シャツは弁償する」と呟いた。
「外に人がいんのは当たり前だろ! 人って、意味が分かんねえんだけど」
「これの迎えが」
「これって何だよ? 迎えって、おい、アキ!」
「川端さんって人がすぐ来るはずだから伝えてくれ。迎えはいい。俺が送るって」
「そんなこと言われても……」
「腹が出てて、髪は薄いが顔は濃い。見りゃ分かる」
 秋野は錠前屋の腕を引き、千晴を押し退けるようにして階段を上って行く。錠前屋が「おい!」と怒鳴ったが、秋野は素知らぬ顔だった。
「アキ!!」
 一体何だってんだよ。
 アンヘルにもアキにも錠前屋にも腹が立って喚いたら、秋野の足が不意に止まった。
「悪かったな」
 振り返った秋野はそう言い、まだ暴れている錠前屋に視線を向け、そうして再度チハルを見た。
「ありがとう」
 ぽかんと口を開けた千晴にそれ以上頓着せず、秋野は階段を上って見えなくなった。

 

 ビルの出入り口で突っ立っていると、向こうからオヤジがやって来た。小脇に上着を抱え、ハンカチで首筋を拭きながら億劫そうに歩いている。頭頂部は薄くなっているが、眉毛と腕の毛はかなり濃い。暑苦しいおっさんにうんざりしたが、千晴は渋々声をかけた。
「あんた、カワバタさん?」
 男が立ち止まり、警戒する様子もなく近寄ってくる。ハンカチは忙しなく動いているが、実際のところそれほど汗はかいていないように見えた。
「はい、どうも。川端ですが」
 間近で見ると益々くたびれた印象の男だ。ワイシャツは真っ白で清潔そうではあるものの、全体にかなり皺が寄っている。ワイシャツの第一ボタンは止まっておらず、それが見えるくらいネクタイが緩み、且つ左に傾いている。抱えているジャケットはこの暑いのにツイード生地だ。
「どこかでお会いしましたか。いやもうこの歳になると、物忘れが激しくってねえ」
「や、会ったことはねえんだけど、俺は」
「はあ」
 そう言いながらも、カワバタという人物は笑みを浮かべてハンカチを動かしている。ぱっちりした目にじっと見られると、何ともいえず居心地が悪くなってきた。
「伝言があって」
 千晴がぼそりと呟くと、カワバタはハンカチをズボンの尻ポケットに仕舞い、真剣な顔になってジャケットを持ち直した。笑顔は突然跡形もなくなって、まるで別人のように表情が鋭くなる。
「伝言って? 誰からだい?」
 強い口調に何となく気圧されて一歩下がった。何も悪いことはしていないのだから、後ろめたく思うことなんてない。そう思いながらもまるで言い訳するようにポケットに手を突っ込み、千晴はカワバタから目を逸らした。
「えーと……知ってんのかな……アキ。秋野」
「ああ」
 カワバタは安堵したように息を吐いて、また元のにこにこ顔の人畜無害なオヤジになった。
「知ってるよ。今ここに? 哲と一緒なのかな」
「自分が送ってくから迎えは要らねえって、あんたに言えってさ」
「そうかそうか。何だか知らんがそれはよかった」
 一人で納得しているらしく何度も首を縦に振っている。立ち去るタイミングを計りかねて突っ立っていると、カワバタが突然千晴を振り返った。
「ありがとう」
「え」
 思わず口を半開きにしたまま固まる千晴に、カワバタは重ねて礼を言って踵を返した。振り返りひとつ手を上げて去って行くさえない男性の後ろ姿に、千晴はぼんやり目を向けていた。
 幾らなんでも、人生において一度も感謝されたことがないわけではない。ろくでもないことばかりしてきたかもしれないが、礼を言われたことくらい人並みにある。だが、まったく知らない他人と、仲がいいとは口が裂けても言えない幼馴染からの感謝の言葉。ほんの僅かな時間に自分に向けられたそのふたつは何故か千晴の耳に残り、暫く経っても消えようとしなかった。