仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 12

 その日の夕方哲が踏み込んだビルの中は、やたらと静かで埃っぽかった。
 微かに黴の匂いがする。古本屋のような匂いは、廊下に積み上がった汚いダンボールのせいだろうか。薄暗い廊下を進み、目的のドアを探した。
 昔からの知り合いからメールが来て、解錠の仕事を依頼されたのは一昨日の深夜だった。知り合いは時に電話、時にメールで仕事を回してくれる相手で、暫く会っていないが顔も知っている。元々は祖父の友人で、彼からの依頼を断ったことはほとんどなかった。
 先方の希望は昨日だったらしいが、バイトがあると伝えると今日でも構わないという返事が来た。今回もいつもと同じような依頼だったが、場所だけが初めてのビルだった。だが、それだけで一体何を疑えばよかったのか。
 かつてはオフィスビルだったらしく、色褪せた社名のプレートを出したままのドアも幾つかあった。それらを通り過ぎ、一番奥のドアの前に立つ。ドアの中ではなく外で待っていてくれという指示を疑うことなく、哲はドアに背を向け、廊下の向こうに目をやった。
 その瞬間、襟首を引っ掴まれ、気がついたら仰向けになっていた。
 背後のドアが開いて手が伸びてきたのだと分かったのは暫く後になってからのことだ。一体何が起こったのか、床に後頭部をぶつけた瞬間にはまだ分かっていなかった。
 真上から黒い影が覆いかぶさり、日本語ではない言語が聞こえた、と思ったのが最後。自分がどうなったのか理解しないまま、哲は意識を手放した。

「いい音がした」
 アンヘルはのんびりとそう言って、足元に転がった哲の頭を軽く蹴った。
「手加減しなかったけど、大丈夫かな」
「大丈夫だろ、こいつ石頭だから。しかし、そう思うならもう少し気を遣えばいいと思うけどな」
 秋野は昏倒した哲を見ながら椅子から立ち上がった。アンヘルは相変わらずにやにやしっ放しで、緊張感のかけらもない。
 ドアの前に立っていた哲を部屋に引き摺りこんだのはアンヘルだった。人形のように引き倒された哲の頸動脈を圧迫し、失神させる手際はそこらのチンピラ風情とは別物である。アンヘルは見た目こそだらしなくて得体の知れない外国人のオヤジだが、元軍人の元傭兵、要するにそういう技術で飯を食ってきた人間だ。
 常識も良心もほぼ手持ちがないらしいのは陸軍を不名誉除隊になったことからも明らかだし、長い付き合いだからよく分かっている。特殊部隊にいたとかいう噂が本当かどうか知らないが、どっちにしても、一緒にされたら真面目に奉職している軍人が憤慨するだろう。
 汚い部屋にはいつも日本人ではないグラマラスな若い美女がいて——同じ女を三度以上見かけることは滅多にない——どうやって手に入れたのか知りたくもない金を山ほど持っている。
 痩身に無精髭、一本に結わえた長い黒髪は天然のウェーブがかかっている。よく見ると恐ろしいくらい整った男っぽい顔立ちで、禿げの兆候も、腹が出っ張っている様子も一切ない。外見だけなら秋野と親子だ、と耀司がよく言っているが、こんな男と親子になるくらいなら禿げたほうがまだマシだ、と秋野は本気で思っていた。
「お前一人でできるだろう、このくらい。何でわざわざ俺を呼ぶ必要がある」
「まだ背中が痛いんだよ」
 アンヘルの言うとおり、いつもならこのくらいは自分でやるところだ。だが実際まだ背中の傷が痛んだし、そもそも気配を消すのはアンヘルのほうが上手かった。相手は哲、気配に関しては野生動物並みに鋭敏な感覚を持った男だ。
「この坊主はあれだな、前にチハルに頼まれて拉致した奴だろう。そうは見えないが、ヤクザか? それともお前もこいつに恨みがあるのか」
 しゃがみこんで哲の顔を覗き込み、アンヘルは首を傾げた。長い髪が一筋垂れ、哲の上でゆらゆらと揺れる。
「いや。ただの仕事仲間だ」
「じゃあ何で寄ってたかって拉致したがる」
「チハルは俺を呼び出すのに誰か知り合いを使いたかっただけだろう。俺は話をしたいだけだ」
「それにしちゃ乱暴なやり方じゃないのかねえ」
 楽しそうに笑って、アンヘルは哲の頬をぴたぴた叩いた。
「こんなことされて、目が覚めたら怒るだろう。俺にお願いするってことは、おとなしい奴じゃないんだろう?」
「まあ、それなりに」
「どうして自分でやらない?」
「さっきも言った。まだ背中が痛い」
「そうかい。しかし、これじゃ話どころじゃないかもしれんぞ」
「礼儀正しくお話しましょうってお願いしても無視されたんでね。俺は無視されるのは好かないんだ」
 アンヘルは人の悪そうな笑みを浮かべて何か言いかけ、結局何も言わず欠伸をした。
「まあ、どうでもいいが。どうする、転がしておくのか」
「いや。手伝ってくれ」
 アンヘルは哲の脇に手を入れ軽々と持ち上げた。
「吊るすか?」
「……話をするって言ったろ。吊るさない」
「吊るしたって口は動くぞ。多分、座らせるよりずっとよく動く」
「でも、吊るさない」
「はいはい」
 放っておいたら勝手にやりかねない。秋野は哲を人形のように持ち上げるアンヘルに向かって「吊るさないからな」と念を押した。

 

 あれから何度か電話をかけたが、結局ろくに話はできなかった。
 何回かに一遍は着信を無視されたが、それ自体はいつものことだから別にいい。しかし応答があってもほとんど会話にならず、会って話そうと言えば心の籠らない詫びとともに電話を切られた。
 幾らかの時間待てば改善されるなら、待っただろう。気が短いほうではないし、待つこと自体は構わない。だが、待ってもどうにもならないなら、早く済ませてしまうほうがいいに決まっている。
 だから、哲の仕事関係の知人を調べ、伝を使ってメールのアカウントを拝借し、適当な依頼をでっちあげて呼び出した。普段なら極力避けるアンヘルに手伝いを頼んだのは単に背中が痛いから。アンヘルに伝えた以上の意味はないと、自分でも信じたかった。
 椅子に座らされた錠前屋は首を垂れ、身動きひとつしなかった。左右の肘掛にそれぞれの手首、腰を背凭れに縛り付けられている。正直このままずっと寝ていてくれればいいのにとも思うのだが、それでは何の意味もない。
 仕方なく哲に近づいて、スニーカーを履いた足を蹴る。一度目では反応がなく、二度目には短い唸り声が返ってきた。哲の足の届かない距離まで後退し、声を掛ける。
「哲」
 音声になった答えはなかったが、犬が水を払うように頭が左右に振られた後、ゆっくりと持ち上がった。
「何だ、てめえか。しつこいな」
 低い声にも目にも感情と呼べるものは僅かなりとも見当たらない。
 上がる頭と同じようにゆっくりと視線が上がる。見上げてくる瞳は鋭いがそこに熱はなく、乾いて底は見えなかった。
「仕事のメールも、あれか? なりすましってやつか」
「ああ」
「俺の都合に合わせて日程変えるとか、ご苦労なことで」
 鼻を鳴らし、哲は自分を見下ろした。手首と腹の縛めに目をやって、もう一度鼻を鳴らす。
「——俺の襟首掴んで引っ張りやがったの、あれ誰だ」
「まだ傷が痛いんでな。知り合いに手伝ってもらったんだ」
「だから、誰だよ」
「知り合い」
「ふうん。それにしたって、縛ることねえだろ。むかつくな」
「まあそう言うなよ。会って話がしたいってお願いしたのに、聞かなかったのはお前だろ」
「お願いされた記憶はねえなあ。なんか脅されたような気はすっけど」
「脅しちゃいないよ。お前にそんな手がきくとは思ってないし」
「言ってろ」
 縛られている人間とは思えない態度で平然と会話を続けるのは哲らしい。だが、今まで散々避けていた相手である秋野と当たり前の顔をして言葉を交わす、その真意は分からなかった。
 そうするのが一番無難だと思っているのか、それとも、今更秋野が何をしようとどうでもいいのか。今は後者が正しく思えて、そう考えたらまたぞろ腹が立った。
「そんなに言いたいことがあるなら聞くから解けよ」
「そうだな」
 意図したより愛想のない声になり、哲が片方の眉を僅かに引き上げる。その顔を眺めながら内心で舌打ちし、それでも涼しい顔をしてみせるくらいの冷静さは秋野にも残っていた。
 他人に腹の底を見せないことが、過去にどれだけ自分の助けになったか。それ以上に得意なことなどないはずなのに、この男が相手だとつい自分を見失う。見失う——というか、覆いをかけるのを忘れてしまう。それを我が事ながら面白いと思うのは確かだが、今の状況では自分を面白がるのは難しい。
 秋野は蹴っ飛ばされるのを覚悟で哲に近寄った。緩く腕を組んで立ち、表情のない顔を見下ろして、手の甲で哲の頬を張った。
 顔がぶれ、噛み締めた哲の唇にうっすらと血が滲む。
 哲は痛いとも痛くないとも言わず、表情のない目で秋野を見上げ、数秒見つめた後目を逸らした。
 秋野はついさっきアンヘルから取り上げたナイフを取り出して哲に屈み込んだ。右手首とナイロンロープの隙間に刃先をこじ入れ、力を込める。簡単には切れない素材を選んだのは当たり前のことだったが、こうして切るときには厄介だった。
 ようやく切れたロープを掴んで引っ張る。床に捨てたオレンジ色に哲の目が向いた。拘束を解かれても肘掛に置かれたままの腕に触れると視線が上がる。哲の骨ばった手を裏返し、掌にナイフの柄を握らせて、秋野はゆっくり三歩下がった。
 暫く秋野に視線を据えていた哲は、秋野に動きがないと分かると手を持ち上げた。残りのロープを自分で切り、ばらけたそれを床に放る。ナイフを右手に持ったまま、哲は両手で前髪をかき上げて、長く、深く息を吐いた。
 掌が離れ、髪がばらばらと額にかかる。ゆっくりと下ろされていく腕。腕と前髪の隙間から見えたぎらついた瞳には、一瞬ですべてを窺わせない無表情の膜がかかった。
 足元に落とされたナイフが床に当たって硬い音を立て、数度回転してその場で止まる。
「座ってろよ、哲」
 唇が切れ、頬骨のあたりが赤紫になっている。哲は呼びかけた声に反応せず、立ち上がって床に血の混じった唾を吐いた。
 秋野は大股で哲との間合いを詰め、胸倉を引っ掴んだ。椅子の脚が床を擦って大きな音を立て、無理矢理腰掛けさせられた哲が喉元を押さえつけられ獣じみた唸りを上げる。ばたつく脚は、強く蹴っ飛ばしたら大人しくなった。
 哲の薄く開いた唇の間から、空気が漏れる掠れた音がする。
 手を離すと、哲が咳き込んだ。秋野は妙にすっきりした頭で、泣いて掻き口説いたらこいつは逃げ出すだろうかと、するつもりもないことを考えた。
「話してえなら聞くつってるだろ! むかつく奴だな、いちいち」
「座ってろって言ったの、聞こえなかったか」
 平板な声だった。自分でも、何も籠っていないただの音に聞こえた。
「聞こえた。だからって何で言う通りにしなきゃなんねえんだよ。見下ろされて命令されて、そんで黙って聞いてろってか? ふざけんなよ、何様だお前」
「…………」
「言うことあんだろ。俺はねえぞ」
 哲は前髪を掻き上げ、秋野の動きを窺うようにゆっくりと椅子から腰を上げた。
 立ち上がった哲の足が落ちていたナイフを踏みつけた。哲は屈み込んでそれを拾い上げ、掌で弄ぶ。柄を掴んで放り上げ、また柄を掴む。刃先で指先を傷つけでもしたらどうするのか。ただでさえ腫れが引ききっていない哲の右手に気を取られ、今何をすべきか束の間忘れた。
「——終わりか?」
 哲が言い、視界に赤い色が飛び込んできた。突如出現した色はほんの小さな面積だったが、さっきまではそこになかった。それが何なのか理解できず、秋野はただ暗紅色の染みを見ていた。
 多分、実際には数秒。我に返り改めて見直すと、哲の掌から血が垂れていた。
 数秒前に抱いた懸念がそのままの絵面で再現されていた。ナイフの刃を握った哲の掌から血が流れ、細い筋が手首へと流れて行く。血が滴り、床に小さな斑点を描く。哲はナイフを握ったままの自分の右手を黙って眺めていたが、諦めたような小さな息を吐き、固まる秋野の顔にゆっくりと視線を向けた。
 故意なのだと、目を見て分かった。ミスではない、分かっていて右手で刃を握ったのだ、と。
 ナイフが床に落とされて硬い音を立てる。同時に、秋野の中で、何かが止まった。壊れたのかもしれない。そうでなければ、なくなったのかもしれない。あるいは、産まれたのか。
 分からなかった。