仕入屋錠前屋66 夜はまだ明けない 11

 ドアを開け秋野の顔を見ただけで、仲直り——別に喧嘩しているわけではないだろうが——してめでたしめでたし、ではなかったということだけは分かった。
 ただ耀司にとって意外だったのは、秋野は怒り狂ってはいるものの、死人のような目になってはいないということだった。
 もう何年も前の話だが、多香子が秋野を裏切ったあのとき、秋野の瞳はまるで死んだように見えた。空虚な中に、時折見え隠れする様々な感情。それが本当はどういうものだったかは本人以外分からないだろうが、少なくとも自分に見えたものは、憤懣、後ろめたさ、困惑、そして悲しみだった。
 やり場のない怒りが渦を巻き、諦めと絶望が取って代わる。それらをすべて内包し、抑制することで、誰も覗き込めない暗くて深い淵のようだったあの頃の秋野の瞳。あれに比べれば今のぎらつくそれは、生気があるなんてものではない。
「……怒ってんだね」
「当たり前だ」
 秋野の声はしわがれていて、眉間に寄った皺は深かった。
「あのクソガキ……」
 続けて英語とタガログ語でぼそぼそと毒づき、秋野は耀司に目を向けた。
「ろくに説明もしないで簡単に俺を閉め出せると思ったら大間違いだ」
「……ちゃんと話できた……ならそんな怒らないか。上がる?」
「いや、いい。別に話はない」
「じゃあ何で来たんだよ」
「——誰かに八つ当たりしたかったんだ」
 前髪を乱暴にかき上げ、秋野はようやく少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ八つ当たりしてけよ」
 そういいながら後ろ手にドアを閉める。屋上に行くか、と訊ねたら、秋野は少し考えて頷いた。
「真菜がそこにいると思ったら、思うように悪態も吐けないしな」
「全部タガログ語かスペイン語にしなよ。そしたら分かんないから。まあ、そうなると俺もお前が何言ってんのか分かんないけどね」
 足音が階段室に低く響く。わけもなくこみ上げた涙を意志の力で何とか押さえ込み、耀司は屋上への重たいドアを押し開けた。

 八つ当たりしたいと言ったくせに、秋野は屋上に上がっても何も言わず、煙草を吸っては踏み潰し、上がる煙が消えないうちにまた火を点けることを繰り返した。
「——ごめん、秋野」
 思わずそう口に出る。秋野が振り返り、耀司の目を見つめて煙を吐いた。
 焼肉屋で自分のせいだと伝えたのは本心だった。多分、自分のせい、なんて思うことは間違っている。哲は外野の意見に左右されて行動を決めるような人間ではない。だが、どうして自分の期待するように秋野を想ってくれないのかと理不尽に詰ったことが原因に違いなかった。それ以外、哲が突然そんなことを言い出した理由が思いつかない。
「お前のせいじゃないよ」
 足元に捨てた吸殻を靴の先で踏みつけながら、秋野は低い声で呟いた。
「でも俺が哲に勝手なこと言ったからだろ」
「それはお前とあれの問題だろう。謝りたきゃ哲に謝れよ」
 こちらを向いた色の薄い瞳に、紛れもない笑みが浮かんだ。耀司はほっと息を吐き、フェンスに背を凭せ掛けた。
「でもなんか——少しだけ安心した」
 秋野はゆっくり視線を動かし、何が、と問うように片眉を上げた。
「かっかしてて怖いけど、前みたいに投げやりじゃないもんな、秋野」
「前?」
「ほら、えーと。多香子さんのとき」
「…………ああ……忘れてたよ」
 苦笑を漏らした秋野に、また少し気持ちが軽くなる。いつまでも辛いことを引きずっていてほしくない。長いことそう思って見てきたから、本当に忘れたわけではないと分かっていても、耀司のために言ってくれたのだとしても、そう口に出せる秋野を見られることが嬉しかった。
「哲が何考えてるのか俺には分かんないけど、俺は秋野が望むようになってほしいと思ってるから」
 哲が歯を剥き、迷惑だ、と唸る顔が目に浮かんで思わず笑う。
「逃がしちゃだめだよ」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「多香子さんは本気で追っかけもしないで逃がしたくせに」
 突っ込むと、秋野は嫌そうな顔をして吸殻を拾い上げた。
「うるさいよ。あの頃は俺も若くて馬鹿だったんだ」
 多香子に対する気持ちが哲に対するそれより劣っていたわけではないことを、耀司は知っている。ただ、その二つは種類が違うだけだ。多香子が秋野から去ることがなかったら、多分秋野は哲といるより幸せな人生を送ったに違いない。もっと平和で穏やかな、あたたかい人生。
 ただ、今の秋野に多香子と哲のどちらかを選べと訊ねたら、前とは違う答えが返ってくるだろうということも耀司は知っていた。
「確かに。年取って知恵もついたよな」
「そうだな」
 耀司が笑うと、秋野も唇の端を微かに曲げて頷いた。
「今度は諦めないんだろ?」
「あれは俺のだ」
 何でもないことのように口にされたその台詞に、耀司は思わず息を飲んだ。すれ違いざま吸殻を持っていないほうの手で耀司の肩を叩き、秋野は小さく笑って見せた。
「あの程度で俺を追い払えると思ってるなら、あいつは馬鹿だ」
「——思ってないだろ。お前のことよく分かってるんだから、哲は」
「そうだな。まったく、今更逃げられるわけないのに」
 喉の奥を鳴らすような不穏な笑い声を上げ、秋野は音もなく姿を消した。耀司は昼間の熱気が抜け切らない生ぬるい風を顔に受け、眉を寄せた。
 屋上を囲むフェンスに指をかけ、地上を見下ろす。昼間なら行きかう車や人がはっきり見えるが、今、それは街灯に照らされている部分だけにしか見えなかった。まるでコマ送りのように、現れては消え、消えては現れる通行人の頭。車のライト。自転車の反射板が、時折フラッシュのように白く光る。
 秋野はああして自信ありげに笑っていたが、それは耀司を安心させるためだと分かっていた。哲は簡単に前言撤回するような人間ではない。それは耀司だって知っている。
 ずっと前に秋野が哲を脅しつけたその場所で詰めていた息をゆっくり吐きながら、耀司は今ここにいない二人に思いを巡らせた。

 

 他人の考えていることなど、本当のところは理解できない。だが、材料さえあれば、ある程度のところまでは推し量れる。そうやって人は人の気持ちを推測し、何を言うか、どう行動するか決めるのだから。
「食べないのかい」
 派手な色合いのムームーのようなものを着たママが、怒ったようにそう口にするのは三度目だ。ママは母親が若い頃の知り合いで、秋野にとっては祖母に近い存在である。
 何か腹に入れようと思って彼女の店に寄ってはみたが、いざ料理を目の前にすると吐き気がした。
「すごく美味しいよ」
「そんなこと聞いてないよ。それに、手をつけてないじゃないか」
 眼鏡のレンズの向こうで茶色の目が瞬き、眉が顰められた。
「何かあったんだろう。食べたくないんだね? 食べないと駄目だよ、力が出ないんだから」
 ママは秋野の表情から何かあったと推測し、食欲がないのだろうと想像する。何か、が何なのかママには分からないだろう。どんな理由を想像しているにせよそれは間違っているが、食欲がないという部分については正しかった。
 秋野は持ってはいるが使っていなかった箸を置き、溜息を吐いた。
「せっかく出してもらったのに、ごめん。食欲ないんだ」
「病気じゃないだろうね」
「違うよ。元気だから心配しないで」
 ママは暫く黙って立っていたが、仕方ないね、と言って秋野の前から料理の入った皿を取り上げた。
「取っておくから、食べたくなったら言うんだよ」
「ありがとう」
 煙草を取り出し、火を点ける。煙の匂いにも吐き気がしたが、食べ物のそれよりマシだった。
 吐き出した白い煙が拡散して行く様子をぼんやり眺め、秋野は何を考えることもなく一本を灰にした。何を考えたらいいのかよく分からない。哲のことで頭をいっぱいにするのが正解なのか、と疑問に思い、そんなふうに考えること自体おかしいのだと思ったりした。
 年寄りの客がアカペラで昔の歌を歌い始めた。ボックス席でわっと歓声が上がり、手拍子が始まる。なかなかの美声に耳を傾けながら、秋野は新しい煙草に火を点けて、暫くの間渦巻く煙を眺めていた。
 短くなった煙草が原形を留めなくなるまで、執拗に押し潰す。
 注意が散漫になり、色々なことが一度に脳裏に浮かんでは消えて行く。無秩序でとりとめない自分の思考と記憶を追っていたら、突然、最後に哲を抱いたときのことを思い出して吐き気が増した。
 普段と同じ、喧嘩の延長とさえ思える荒っぽいセックス。哲とのそれが、甘く、思いやりに満ちたものだったことは嘗てない。組み敷かれる憤懣を露わにもがく哲とお互いをぶつけ合うそれは常に激しく、だからこそ興奮するのだと言ってよかった。
 床の上に押し倒し、うるさく喚くのを押さえ込んでその場で服を脱がせたが、そこまで持ち込むのも案外難しい。哲が協力的なことは殆どないし、黙って言いなりになることは皆無と言っていい。
 もっとも、そういうものを求めているわけではないから構わないが、あの時の哲は虫の居所が悪かったらしく、普段より大分手間がかかった。右肩から二の腕にかけて散々酷い歯形をつけられ、そうしてようやく哲の中に入ったときには、秋野の息も大分上がっていた。
「くっそ……今すぐくたばっちまえ、この——」
「満州生まれのじいさんみたいに腹上死か? 嫌だよ、新聞に載ったら困る」
 にやつくな、と怒鳴った哲が長く尾を引く呻きを漏らして背を反らす。低く掠れ、動物が不満を表明するときのようなその音が好きだった。
「ご機嫌斜めだな」
「誰のせいだと思ってやがんだ」
「俺だろう」
「退け、この!!」
「本気でそう言われたら、尚更退くわけにはいかないよな」
「くそったれ」
 顔を歪める哲の顎に手をかける。骨ごと顔を掴んで押さえつけ、火を噴きそうな目を見つめたまま身体を進めた。哲の眉間に皺が寄り、秋野の指の下で顎が軋む。緩やかな進退を繰り返し、哲のこめかみの血管が膨れ上がるのを楽しんだ。手を離すと、哲は剣呑な眼差しを秋野に向けたまま、片手で前髪を掻き上げた。薄らと汗ばんだ額が一瞬露わになる。
「……いい加減にしろよ、クソ野郎」
 歯を剥き唸る哲の頬に手を滑らす。素早く顔が動いて思い切り指に噛みつかれた。じゃれているわけではない。本当に指を食い千切られる寸前だ。
 哲に指を食われたまま、ゆっくりと引き抜いたものを思い切り押し込んだ。
 哲が大きく呻き、顎の力が弱くなる。指を哲の顎から救い出し、床の上について身体を支える。哲がゆっくりと視線を動かし、物凄い目付きで秋野を見た。

 そこからは、はっきりとは思い出せない。セックスというよりはまるで戦闘のような高揚感と切迫感。種の保存という本能に駆られたものとは別のそれは、性欲というよりは食欲に近かった。
 身体がずり上がることを防ごうと、哲の踵に力が入る。突き上げる動きに抗っているはずなのに、まるで応えるように、強く押し返してくる哲の腰。秋野が突き上げる度、床に突っ張る哲の足が震え、喉の奥から濁った唸り声が上がった。
「あ……ああ——……くそ、腹ん中が裏返るじゃねえか、馬鹿、抜くな……!」
「心配するなよ、まだ終わらん」
「違う! 死ね!!」
 怒り狂い、同時に感じて歯軋りしながら睨み上げてくる瞳の強さと鋭さ。その奥に閃く凶暴な光に、腹の底で澱んだ何かが膨れ上がって喉に詰まった。
 あれが最後なのかと思ったら、本気で吐きそうになって秋野は思わず目を閉じた。
 冗談じゃない。
 楽しめるが、単なるおまけ。自分の中で、ずっとそう位置づけていた。哲との関係において、セックスは不可欠なものではない。そういう認識だったのに、意思に反して取り上げられてみて初めて、それもまた込みだったのだ、と思い知る。
 大切な物は失って初めて気付く。おかしいくらいにありきたりだ。他に言い表しようがないのかとも思ったが、耳慣れた決まり文句は真実に近いからこそ、決まり文句になるのだろう。
 ママがこちらを見ているのを感じたが、秋野は目を閉じたままでいた。ほんの数秒で構わない。ただ暗い中に逃げ込み何も考えずにいたかった。