仕入屋錠前屋65 掠め取る 6

 ヨシエが宿の車を手配し、新幹線の駅までは案外と早く着いた。それでも長時間狭いところに押し込められていたことには変わりがなく、長身の分人よりそれが辛かったのか、秋野は座席の中ででかい猫のように身体を伸ばして長い溜息を吐いた。長い脚が通路にはみ出ている。
「伸びんなよ、そうでなくても長えんだから」
「お前の方にはみ出してはいないだろ。文句言うな」
「でかくて邪魔」
「苛々するなよ」
 哲は鼻を鳴らし、座席に深く沈み込んだ。
 往路は寝てしまったから気にならなかったが、眠気を感じていない今、二時間の禁煙は腹立たしい。決して我慢できない時間ではないものの、イラつくことに変わりはないのだ。
 気を紛らわそうと窓の外に目を向けてはみたが、後方に飛び去っていく景色は単調で、自然にも街並みにも大して興味がない哲はすぐに飽きた。何となく隣の秋野に視線を向けたら真正面から目が合って思わず座ったまま後ろに身体を引く。
「何だよ」
「見んじゃねえよ」
「お前がこっち見たからだろ」
「……」
 そう言われればその通りだ。舌打ちする哲の膝を自分の膝で軽く小突き、秋野は喉の奥から低い笑いを漏らした。
「目の下、隈浮いてるぞ」
「誰のせいだと思ってやがる。好き勝手しやがって、後で覚えてろ」
 一応凄んでみたものの、どうせ暖簾に腕押しだ。秋野はにやにやしているばかりで、まったくもってつまらない。
 秋野が指を伸ばして哲の前髪を摘み、引っ張る。毛を弄ばれる犬になった気分で不愉快極まりない。低く唸ると秋野は手を引っ込めたが、威嚇に怯んだわけではなくて、着信したメールを確認するためだった。
 眉を寄せて画面をスクロールし、何も言わずに携帯をポケットに仕舞い込む。秋野に誰からメールが来ようが興味はないが、何となく、大和かヨシエか、家族の誰かからではないかと思った。
「大和か?」
 秋野は薄茶の目で哲を束の間凝視した。肉食獣のような色の薄い瞳で見つめられると、本能的に逃げ出したくなる。座席は狭い。仕方なく尻を落ち着けたままでいると、秋野は小さく息を吐き、「いや」と呟いた。
「マリア」
「どこの女だ」
「違う。俺の親」
「は?」
「母親に会ってきた。また顔見せろっていうメールだ」
「はあ? 会ったって、いつ」
「今朝」
 もう一度秋野を見たが、今度は、目は合わなかった。秋野は自分の靴の先に視線を向け、腹の上で長い指を組んでいる。
「大和な、両親と一緒に来てたんだ」
「ああ、そうなのか」
 あの建物の中に秋野の母親がいたと知るのはひどく不思議な感じがした。ごく当たり前の興味はあるが、実際に会ってみたいかと言われるとそうは思えない。写真でも見せられれば第三者の無責任な興味をもって見るだろうが、血の通った人間として目の前に立たれるとなると話は別だ。
 秋野と母親の関係の実際のところを哲は知らないし、知りたいとも思わない。母親は秋野を構成するひとつの要素ではある。だが、哲が興味を抱く対象は秋野というひとつの個性であり、その形成に影響を与えた人々ではなかった。
 人格の成り立ちを無視するという時点で、秋野に対する興味が些か歪んでいるのは自分でも理解している。例えば今まで付き合った女に対しては、多かれ少なかれその家族構成や過去の友人関係に興味を持った。だが、秋野に対してはそれがない。
 今ここにいる男のすべてを暴きたいと欲しはするが、それは相手をよく知りたいという真っ当な欲求とはやや異なる。自分の前に立っているとき以外は、秋野が誰と何をしていても気にならないというのも、それと同じだ。だから、秋野の言葉に頷く以外、何を言ったらいいのか、それとも訊ねたらいいのかも分からなくて口を噤んだ。
「別に、お前に何も求めてない」
 秋野は横目で哲を眺め、そう言って唇の端を曲げて笑った。秋野の内心をすべて理解することはできない。それは秋野にしても同じだろうが、こういうときの秋野の哲への理解が間違っていたことはまずなかった。
「……なら言うなよ」
「でも言いたい」
「わけわかんねえな、お前」
「そこがいいんだろ」
「まあな」
 秋野は一瞬驚いたような顔をしたが、冗談だと思ったのか低く笑った。
「元気そうでよかったよ。母親も、大和も」
「あれ、気付いてるぞ」
「何が?」
 哲は窓の外を染める夕陽が眩しくて、カーテンを引いた。ガラスに微かに映る秋野の顔が消える。
「お前が兄貴だって」
 哲はカーテンの粗い生地の上から窓に頭を凭せ掛けて目を閉じた。
 母親を、家族を、秋野が享受するはずだったすべてのことを、横から掠め取る気などなかったのだと大和は言った。当然のことだ。大和には何の咎もない。そして勿論秋野にも。
 生まれてきたことで責を受ける必要は、誰にもない。
 推進する鉄の塊が産み出す振動に身を任せ、哲はそんなことを考えた。
「何で——」
「分かんねえよ。何となくそう思っただけだ」
 秋野が身じろぐ気配がする。
「煙草吸いてえな」
「……ああ。そうだな」
 答えた秋野の声は常と変わらず、その語尾だけが、気付かないくらい僅かに掠れ、震えて消えた。

 

「仕方ない。これが、一番いいんだ」
 夫の声に唾を飲み込み、ヨシエはおくるみの中で小さな拳を握って眠る子に触れた。人間とは思えないくらい柔らかな赤ん坊の肌。まだ顔立ちも確立していない愛しい赤子。
 旅館の経営状態は悪かった。舅は優しい男だったが、そこにつけこまれて随分損をしたのだという。一人息子の夫はどうにか旅館を存続させようと奮闘していたが、台所事情は苦しかった。二人いる子供を食べさせていくだけではない。既に寝たきりの姑、それに従業員の面倒もみなければならない中牧家にとって、新しい子の誕生は喜びであると同時に脅威だったのだ。
「鶴岡先生なら絶対に大丈夫だ」
 その言葉に間違いがないことをヨシエは知っている。鶴岡はこの近くで開業している医者の家で、特に当代の鶴岡源次は人格者と評判だった。彼はヨシエの二級上に当たり、小さな頃から知っていたから人柄は評判通りだとよく分かっていた。だから、鶴岡夫妻は仲睦まじいものの、子供を授からないのが悩みだということも、直接夫人から聞いていた。それを夫に話したことも覚えていたが、その時はまさかこんなことになるとは思っていなかった。
「ヨシエ」
 鶴岡夫人は、実家の母親の具合が悪いということでここ数ヶ月郷里に里帰りしていた。夫が言うには、この子が鶴岡夫妻の子だということにするにはすべての条件が揃っている。ヨシエの子は死産だったことにすればいい。鶴岡夫人が妊娠していなかったことは、このあたりの誰にも分からない、と。
 この子を鶴岡さんにもらってもらおう。
 夫がこう切り出した時ヨシエは怒り狂ったが、この子に苦しい思いをさせたくないのだという夫の理論も理解できた。だが、事の善悪ではない。我が子を手放すと考えただけで気が狂いそうだった。
「忘れるんだ、ヨシエ」
 夫は普段は穏やかな顔を歪めて言った。
「この子のことは忘れるんだ。この子はたった今から鶴岡さんの子だ。いいね?」
 頷くほかにどうせよというのか。
 ヨシエと産婆は、夫にきつく念を押された。何一つ、残してはならない。記憶も、物も、この子が存在したことを証明できることを残してはならない。鶴岡の子として育つならば、それが一番いいのだと。
「待って、あなた。せめて——」
「駄目だ」
 夫はへその緒を白い布で包み、懐に入れた。
「鶴岡さんに渡す」
 子供を抱いて部屋を出ていく夫の背中を見送りながらヨシエは泣いた。
 夫の気持ちもよく分かった。決して恨みはしなかったし、その後夫の努力で経営はなんとか軌道に乗って、ヨシエは更に四人の子供をもうけた。夫もヨシエも、失ったものを振り返る暇はなかった。
 それでも、鶴岡の若先生に会うたびに、胸に鋭い痛みが走る。源次先生の薫陶を受け、素晴らしい人間であり、また医師になった若先生を見る度に、若かった自分の腕から掠め取られた温かさを想う。
 どうぞ、誰よりも幸せに。
 心から、そう願う。