仕入屋錠前屋65 掠め取る 5

 素っ裸のままタオルで髪の毛を拭きながら現れた秋野は、何も言わずに近寄ってくると哲の唇から煙草を掠め取って吸いつけた。
「返せよ」
 見下ろす目付きの獰猛さ。腹の底で常に燻る何かが不意に燃え上がったような熱を感じる。哲は座ったまま足を出して剥き出しの脛を蹴った。蹴り返されて畳に転がり、腹筋だけで跳ね起きる。
 起き上がりざま、硬く引き締まった脇腹に肘を入れつつ脚を伸ばして立ち上がる。秋野は低く呻き、身体を屈めて煙草を灰皿に放り込んだ。
「来い」
 伸びてきた手にシャツの肩を引っ掴まれ、有無を言わさず歩かされた。
「ああ!? 放せ!」
 続けて喚こうと息を吸い、ここは旅館の中だと思い出した。掴まれたシャツから自由になろうと身を捩ったが叶わない。素っ裸で見るとよく分かる。秋野の身体には無駄な脂肪もなければ、締まった筋肉で覆われていないところもまたどこにもなかった。三十代も半ばになっているはずだというのに衰えのないその身体は、人体として見れば美しい。だが、自分を拘束している男のものだと思えば憎たらしいばかりだ。
「聞こえねえのか、くそったれ!」
 低く呻くように罵倒したが、威嚇が有効な相手ではないのは今更だ。広い客室を突っ切り、今秋野が出てきたばかりのドアを潜った。
 客室付きの半露天風呂もまた、大浴場のそれとは違う風情があった。完全に外にあるわけではないが、内湯という感じはしない。壁や床を覆う木材は未だに香り、新しく清潔なものながら趣があった。残照が岩を縁取り、湯気が大気中の埃や羽虫にまとわりつくのを微かに照らす。湿った床に引き倒され、服をはだけられた。
「叫んで人呼ぶぞ」
「叫べよ。仲居が飛んでくる」
 くぐもった声は酷く冷めていて、この行為が激情に駆られたものではないということを物語る。秋野の横面を殴りつけたら鳩尾に拳が埋まった。容赦ないそれに思わず噎せ返り、身体を捻って激しく咳き込む。秋野の手が手際よく衣類を剥いでいく。知覚はしていたが、喉に詰まる空気を何とかするのが先決だった。
 噎せたせいで滲んだ涙で、身体同様目尻がすかすかした。首筋に食らいつく秋野の脇腹を膝で蹴り、もがきながら唸り声を上げて腕を突っ張る。抵抗に秋野の薄茶の目が眇められ、押さえつける力が強くなる。獲物を前にしてほくそ笑む虎のようなにやけ面に胸糞が悪くなった。
 温泉に浸かっていたのだから秋野の体温は高いはずだ。だが、まだ乾き切らない肌が触れるから哲にしてみれば冷たく感じた。太陽が沈んで下がった気温と水気が相まって、身体中に鳥肌が立つ。すぐそこには湯気を上げる湯があるのに肌寒い。その上湿っぽくて硬い床の上に組み敷かれて、頭に来た。
 秋野の僧帽筋に思い切り歯を立てたらまた腹を殴られた。衝撃で歯が一層強く食い込み秋野が呻く。再度殴られて思わず顎が開き、勢いよく頭を掴まれ押し戻されて、木の床に後頭部を強くぶつけた。
「痛いじゃねえか!」
「こっちの台詞だ」
 殆ど聞こえないくらいの声なのに、吼えているような響きがあった。意志とは無関係に怯み突っ張る哲の身体に秋野が圧し掛かる。獣が唸るような低い音が秋野の喉から漏れ、密着した胸から振動が直に伝わった。
 紫檀の箱の古く繊細な錠前に触れて感じた興奮と酷似したそれを今感じる。よく知っているようで知らない男が胸郭の中に抱え込んだ何物か。厳重に仕舞い込まれたそれに触れかけた、という事実が哲の指先を震わせた。
「俺は開ける」
 低い喘ぎの合間に押し出した一言に、秋野は少しもおかしくなさそうに笑った。
「いちいち主張しなくても知ってる」
 冷静にそう呟き、秋野は己の一部で容赦なく哲をこじ開けた。開かれ、侵される感触に瞼の裏に血の色が散る。秋野の形に押し広げられ、穿たれることに喜びなど感じない。内蔵を擦られる感覚は快感より憤懣を産み、憤懣は転じて自分を見失いそうなほど強い何かに変わった。
「——秋野」
 思わず口にした秋野の名前に誘われて、開けた箱から何かが彷徨い出るのが見えた気がした。それが何か見極めるその前に、秋野の長い指がそれを掠め取り、箱の中に押し戻したのが湯気の向こうに見えた気がした。

 

 目が覚めたらとっくに陽が昇っていた。
 和風のしつらえではあるが寝心地のいいベッドの上で寝返りを打ち、哲は身体のだるさに悪態を吐いた。隣のベッドに秋野の姿はない。ふらつきながら寝室部分から出て行くと、秋野は丁度部屋から出て行こうとしていた。
「……泊まってよかったのかよ」
 第一声は寝起きのせいで酷くしゃがれていた。
「泊まるかもしれんとは言ってあった。朝飯はフロントに電話すれば持ってくる。用事を済ませてくるから食ってろ」
「お前は」
「もう食った」
 それだけ言って秋野はさっさと出て行った。哲は暫しその場に突っ立ったままぼんやりしていたが、ニコチンを求めてテーブルに近寄り、銜えてソファに腰を下ろした。身体が油の切れた蝶番のように軋む気がする。輪にした煙を目の前に吐き出し、乱れた髪を片手で掻きむしる。
 半分屋外だったこともあって湯あたりこそしなかったが、蒸気が立ち込め湿気の多い風呂場でやりまくったせいかすっかり体力を消耗した。最後のほうは何をしたのかされたのかも記憶にない。まだ尻に何かが入っているような気さえするから、ちょっと思い出したくないくらい激しかったのだろうとは想像できるが。
 考えてみれば昨日の駅弁以来何も口にしていない。腹は減っているのだろうが、食欲はまったくなかった。
 あのクソ野郎、俺より歳を食ってるくせに平気なツラで朝飯まで食いやがったかと思ったら腹が立ったが、腹を立てていることすら億劫だった。
 哲は煙草を二本吸い、露天風呂とは別に客室に設置されているありきたりのシャワーを使って目を覚ました。昨日着ていた服はきちんとハンガーにかけてあったのでそれを着て、煙草を吸っていたらドアにノックがあった。
「何だよ」
 秋野かと思ってドアを乱暴に引き開けたら、ドアの隙間から覗いているのは秋野ではなく、大和だった。
「すみません……秋野は」
「ああ。今いねえけど」
「そうですか」
「用事あんなら、中で待ってれば?」
 そう言ってみると、大和は嬉しそうに頷き、お邪魔しますと言いながら靴を脱いだ。きちんと揃えているあたり親の躾の賜物かと思ったが、もしかすると親ではなくて祖母かもしれない。
「従兄弟なんだって」
 何を言っていいか分からずそう訊くと、大和はにこにこして頷いた。
「はい。俺の母さんの弟が秋野のお父さんで」
 間近で見ても、やはり秋野とは似ていなかった。似ているところを無理矢理探してみたものの、共通点はせいぜい長くて濃い睫毛くらいだ。どこにでもいる今風の高校生という感じで、特別幼くもないし、特別大人っぽくもない。今はこんなふうに素直に見えるが、学校で仲間とつるめば生意気なことを言ったりやったりするのだろう。ふと視線を落とすと、テーブルの向こう側に腰を下ろした大和の右手に複数の絆創膏が貼ってあった。
「どうしたの、それ」
「ああ」
 大和は数度瞬きし、すぐに笑顔に戻った。
「魚に齧られたんです」
「魚?」
「昨日鶴岡の若先生と管理釣り場に行って——」
「学校は?」
「あ、昨日創立記念日です。それで、若先生って言ってももうちょっとで六十歳とかだと思うけど、お父さんの源次先生が大先生で鶴岡先生だから、息子の若先生は若先生で」
 昨日ヨシエが言っていた鶴岡さん、というのが若先生という男なのだろう。
「先生って、医者とか弁護士?」
「はい、お医者さんです。鶴岡医院って、この辺に昔からある個人病院の先生なんです。うち、昔からずっと鶴岡先生のところにかかってるので」
「ふうん」
「休みのときは一緒に行ったりするんです。若先生が釣りを教えてくれたんですよね。学校の友達誘っても来ないし」
 確かに、今時の高校生の間で釣りがはやっているとは思えない。
「ニジマスに齧られちゃいました。釣り針飲んじゃったから取り出さなきゃなんなくて。でも、秋野が来るって分かってたら釣りは今度にしたのにな」
「仲いいんだな」
 不意に大人臭い片笑みを浮かべた大和をぼんやり眺め、哲は何となく妙な気分になった。秋野の面立ちと大和のそれは似ていない。どちらの子も、母親ではなく父親に似たのかもしれない。しかし、大和のいまだ稚気の残るその顔の下に、秋野に繋がる何かが一瞬見えた気がした。
「俺が勝手につきまとってるだけです」
「そうか?」
「嫌がられてないかなって思うこと、あります」
「何で」
 大和は俯き、哲の前にある灰皿の中の曲がった吸殻に目を落とした。哲から見下ろす大和の顔は、頬の丸みが際立って子供のようだ。あと数年で柔らかな肉がすっかり削げたら、少しは秋野に似るのだろうか。
「俺は——横から取る気はなかったんですけど」
 空耳だったのかもしれない。
 聞きとれないくらい小さな呟きに、秋野の声がかぶさった。
「大和。ここだったのか」
「うん。待たせてもらってた」
 嬉しそうに頬を緩めた大和が秋野を振り返る。目の前の兄弟は、今はまだ少しも似ていなかった。