仕入屋錠前屋65 掠め取る 4

 最初に待たされた部屋に戻ったものの、秋野は用事を済ませてくるといっていなくなり、入れ違いに仲居が現れた。
「よかったらお風呂に入っていかれませんか」
 二組の浴衣とタオルを置き、仲居はにこにこ笑っている。
「こちらのお部屋は客室露天風呂付きですが、せっかくいらしたんですから、大浴場に行って頂きたいですね」
 宿泊客ではないと言おうとしたが、ヨシエから話が伝わっているだろうと思い直した。あのばあさんにその辺、抜かりがあるわけはない。
「今の時間なら、空いてると思いますよ」
「はあ」
「シャンプーも石鹸も、全部洗い場にありますから」
 一人で部屋にいても煙草を吸うくらいしかすることはないから、言われるまま、しかしタオルだけ持って風呂に向かった。どうせ帰るのだから服は着なければならない。
 でかい岩が積み上がった大浴場には、仲居が言うように人はほとんどいなかった。一人の年寄りが内湯にぼんやり浸かっているだけだ。風呂に入る時間にしてはやや早めの時間である。もう少し経つと夕食前にひと風呂浴びておこうという客が増えるのだろうが、今の時間は丁度狭間のようだった。
 長風呂をしていたら置いて行かれないとも限らない。姿が見えなかったら秋野はそのくらいのことはしかねない。別に一緒に行動したいわけではないが、ここに一人で置いて行かれても困るから、そこそこゆっくり浸かったところで髪と身体をさっと洗って部屋に戻った。
「何だ、見えないと思ったら風呂か」
 座布団に胡坐を掻いて煙草を吸っていた秋野が哲を見上げて呟く。哲は秋野の向かいに腰を下ろし、自分も煙草を取り出した。
「ここのおばちゃんが入って来いって言うからよ。どうせ暇だったし」
 まだ湿った髪をバスタオルで拭く。秋野は哲を眺めながら、首を傾け天井に向かって煙を吐いた。
「そうか。どうだった」
「でっけえ岩の露天風呂があった」
「そういえば、そんな風呂だったかな。泉質はどうなんだ」
「分かんねえ。いいんじゃねえの、温泉なんだから」
「小学生並みの感想だな」
「うるせえな、文句あんのか。大人と話したきゃ風呂にいたぞ、年寄りが」
「いらないよ」
「そういや、子供っていえばさっきの」
 煙を吐きながら右手で前髪を乱暴にかき上げ、そのまま手を首筋に滑らせる。秋野は軽く溜息を吐いてうなじを揉みながら呟いた。
「大和か」
「高校生?」
「ああ。高校三年だ」
「ふうん。高校三年ねえ」
 秋野に突っ込んできたあの様子といい、都会のすれた子とは少々違う感じがする。自分が年を食ったということなのか、それとも、田舎——というほど鄙びてもいないのだが——の子はあんなものなのか。哲の言いたいことが分かったのか、秋野は軽く肩を竦めた。
「子供っぽいかもしれないな。ただ、身近に高校生がいないからよく分からんよ。大和が特にそうなのか、土地柄なのか」
「まあ、そりゃそうだわな」
「お前はどうだった、あのくらいの頃」
 秋野の視線が哲を通り越して頭上を見ている。哲も振り返って見上げると、欄間部分に凝った意匠の透かし彫りが見えた。花がモチーフになっているが、寺のそれとは違って、今風にアレンジされたデザインのようだった。
 秋野は欄間に目を向けているが、何か別なことを考えているように見える。哲は身体を戻し、煙草を持った手を伸ばしながら訊ねた。
「つーか、誰なのよ」
「え?」
「だから、大和」
「弟」
 手にしていた煙草が落ちる。丁度灰を払おうとしていたところで助かった。灰皿に落ちた煙草が上げる細い煙を数秒見つめ、哲は思わず開けた口をそのままに秋野を見上げた。
「……弟?」
「半分だけな。まあ、言うまでもないけど」
 さすがに言葉が出なかった。思わず吸殻と秋野の顔を交互に見る。秋野は束の間目を細めて笑ったが、笑みはすぐに見えなくなった。
「ヨシエさんと、母親の旦那は知ってるな、当然。それから、耀司と尾山さん。あとは誰も知らん。本人も」
 そうえいば、大和は秋野を兄とは呼ばなかった。哲はそれ程印象が強くなかった大和の顔を思い出そうとしてみたが、秋野に似ているという感想はどうやっても浮かばない。
「——お前に似てるか?」
「俺に訊くなよ。似てないんだろう、誰にも言われたことがないから。俺はあいつの従兄弟ってことになってる。母親と一緒に日本に来た弟の息子ってことに」
 秋野は肩を竦めた。その顔には、母親には日本にいる弟などいない、とはっきり書いてあった。
「目の色は違うし、親よりは若くて友達よりはかなり上で、都会暮らしだ。珍しくて、何か分からんが格好よく見えるんだろう。年に何回も会わないのに、懐かれてるんだ」
「つったって、従兄弟ってことでだろ」
「勿論」
「お前はそれでいいわけ」
「俺が言うなって言ったんだ」
 秋野は片笑みを浮かべ、哲が落とした煙草を押し潰すようにしながら自分の煙草の火を消した。
「母親は言いたがったし、何かにつけ俺と大和を会わせたがる。兄弟仲良くってことなんだろうが、今更だしな。それに、子供は何を喋っちゃいけないか本当に分かるわけじゃないからな。言い含めたところで、俺のことを誰に言わないとも限らない。俺は無用の注目は浴びたくないし、告白したいなら大和が成人してからにしてくれってことで話はついてる」
「ふうん」
 秋野の母親が口止めしたのかと思ったが、違ったらしい。
「母親を恨んじゃいないし、大和に含むところもない」
 秋野は煙草で灰皿の中身を掻き回しながら低い声で囁くようにそう言った。
「ただ、母親の人生と俺のそれは別物だってだけだ。俺は戸籍を持ってないが、母親が何とかするって言ったときにはもうそんなものは欲しくなかった。弟ができたときにはそれも欲しくなかったし——家族はもう持ってた」
 尾山一家のことだろう。秋野は尾山夫妻を親のように、耀司のことを弟のように思っている。
「ヨシエさんが言った通りだ。世の中には開けなくていい箱がある。パンドラの箱って、よく言うだろう」
 ギリシャ神話に出てくるそれは、哲でさえ知っている禍の詰まった箱だ。
「ヨシエさんが言ったことは正しいよ。知らなくていいと知りながら知ろうとするのは勇気が要るし、立派なことだと思う。だけど、彼女らは善人すぎる。知ってしまったら取り返しのつかないことも確かにあるからな」
「——さっきのへその緒、あれ、誰のなんだ」
「知らん」
 秋野は吸殻を灰皿に放り込み、両手を後ろについて数秒天井を眺めた。
「……風呂にでも入るかな」
「勝手にしろよ。でもそろそろ混んでんじゃねえのか」
「ああ——」
「そういや、この部屋にも客室露天風呂あるっつってたけど」
「じゃあそっち入ってくる」
 秋野は面倒くさげに呟いて一瞬目を閉じ、哲の方を見ずに立ち上がって風呂場へ消えた。秋野の吸殻から立ち上る薄い煙が、主人の動きにつられて揺れた。