仕入屋錠前屋65 掠め取る 3

大和は秋野とヨシエに追い立てられるようにしてその場を去った。大和は一体どこの子なのか、鶴岡さんというのが誰なのか、訊ねる間もなく哲と秋野はヨシエに案内されて部屋を出た。
 旅館というと古くて暗い、と何となく思っていたが、少なくともここにはまったく当てはまらない。古くからここで旅館を営んでいるらしいが、度重なる増改築を経て、客室部分は八年前に新しく建て替えたのだそうだ。古ければ趣があるし、残したいのは山々ではあったが、傷みが酷くなったので思い切ったということだ。純和風なのにモダンな館内はゆったりと広く、まるで昨日建ったばかりのように清潔である。
「すげえな」
 哲が思わず呟くと、前にいた秋野が振り返って小さく頷いた。
 秋野の前を行くヨシエは年寄りとは思えない足の速さで滑るように廊下を進んでいく。秋野とヨシエですり足の競争をさせたら面白そうだと思ったが、口に出して二対の冷たい視線を進んで浴びるような被虐趣味は持ち合わせていない。口に出しては何も言わなかったのに、何がどう通じたものか、秋野は哲を軽く睨んで寄越す。哲は素知らぬ顔をして秋野の視線をかわし、廊下でデッドヒートを繰り広げる二人を想像して独り悦に入った。
「あれ?」
 広い館内を突っ切り、関係者以外立ち入り禁止らしいブロックに入った。渡り廊下を通ると、突然建物が古くなる。周囲を見回す哲を振り返り、ヨシエが微笑んだ。
「ここは直していないので前のままです。こちら側にお泊りのお客様はいらっしゃらないんですよ」
「へえ」
 廊下はよく手入れされて黒光りしているが、流石に古いせいか軋む箇所が大分あった。中庭は絵に描いたような日本庭園。普段の哲には無縁のもので美しさはよく分からないが、手をかけてあるのは一目瞭然だ。伸び過ぎた枝も、枯れている木もない。色とりどりの花があるわけでもない質素さは意図的なものなのだろう。中庭を眺めながら離れ——とヨシエは言った——に入る。古い建物独特の薄暗さはあるが、こちらも清潔で、よい状態に保たれていた。
「主人はここが好きでしてね」
 ヨシエの声は低いがよく通る。
「自宅は新しく直した部分にありますが、動きたがらなくて。とはいっても、水周りなんかは傷みが激しくて、住むには不便も多かったんですよ。それで、仕事場というか、趣味の場所というか、そういうふうに使っていました」
「今はどなたもお住まいではないんですか」
 哲の質問に頷き、ヨシエは廊下の突き当たりを右に曲がった。外側にガラスはあるものの、障子の戸が続く廊下はまるで時代劇のお屋敷のようだ。ガラス窓は後付けなのだろう、そこだけ建物から浮いて見える。
「主人が亡くなってからは、常にここにいる者はおりません。とはいっても、使わなければ傷みますからね。週に何度か、お茶のお教室として使ってもらっています。それから、長唄とお花も。たまにカルチャースクールの会場としてお貸しすることもあります。この間は結婚式にお貸ししましたね」
 古い建物だから、襖を開放すればひとつの広い部屋になるのだろう。昔は結婚式も自宅で行ったものだから、不思議なことではない。開け放たれた硝子戸から部屋の中に足を踏み入れる。そこはヨシエの夫の書斎だったらしく、部屋には本が詰まった棚が並び、床の間には掛け軸と花が飾ってあった。
「処分するつもりだったんですけれど、まあ、置いておいても誰も困りませんから」
 一瞬見せた笑顔が酷く印象的だった。この年齢であれば、必ずしも恋愛結婚だとは限らない。哲には中牧夫妻が結婚したそもそものきっかけを知るすべはないが、夫婦の間には間違いなく愛情が存在したのだということは窺えた。
「こちらへどうぞ」
 ヨシエは部屋の隅に積み上げられた座布団を敷き、哲と秋野を座らせると本棚の一番下、抽斗になっている部分を開けて箱を取り出した。せいぜい十センチ四方の立方体。紫檀か何かだろう。木でできた箱は繊細な細工で覆われており、古いものだ。専門家なら図柄から年代や何かが分かるのだろうが、哲にはそれが日本製なのか外国製なのかも分からない。しかし、受け取った箱の重み、手触りから、土産物屋で売っているものとは大分違うということは見て取れた。
「何です?」
 秋野が、哲の手元からヨシエに目を戻す。ヨシエは哲の向かいに腰を下ろし、ちょっとだけ首を傾げた。
「さあ」
「さあって」
「分からないから開けて欲しいんですよ。そうでしょう?」
 言って、ヨシエは少し微笑んだ。
「秋ちゃんには、分かってますからね」
「何が?」
「見ない方がいいことが、世の中には多いということです」
「……」
 渡された箱は特別な秘密を収めたものには見えなかったが、哲はなんとなくそれを畳の上に置きなおした。ヨシエは老いのせいで肉が削げ、筋張った手から不意に力を抜く。ぴんと延びた背筋からも僅かに張りが取れ、こころなしか表情も柔らかくなった気がした。
 古い家は、採光が十分でないことも多い。ここもそういう部屋のひとつだが、本が陽に焼けないように選ばれた部屋でもあるのかもしれない。暗過ぎはしないが、陽射しが燦々と差し込むわけでもないひんやりとした部屋の空気は、寒々しいというより寧ろ静謐とか、清澄とかいう言葉を思い起こさせる。目の前に座る老女の表情もまた同じだ。
「夫は、心筋梗塞で逝きましてね」
 ヨシエは本棚に整然と詰め込まれた本を見るように首を巡らせた。
「歳は取っていましたけれど急な事だったんですよ。この箱も、遺品の整理をしていて見つけたものですから、あの人が誰から隠していたものやら分からなくて。鍵も、どこにもありませんでした。見てはいけないのかしらと思ってそのままにしていたんだけれど、七回忌も終わりましたから、一区切りかと」
「開けてよければ開けますけど」
 何となく躊躇ってヨシエの顔を見つめると、ヨシエは哲の目を見返し、秋野へと視線を移した。ヨシエは秋野の母親の姑に当たるわけだが、秋ちゃん、という孫を呼ぶようなそれとは対照的に、秋野のヨシエに対する態度は身内に接するそれとは微妙に違った。尊敬する人間に対するそれではあっても、心安い人へのものを見慣れている哲には違いが分かる。それが遠慮なのか、単に馴染めないだけなのかはよく分からない。
「秋ちゃんがお友達を連れてきたのは、耀司さんの後、初めてですね」
「——ああ、そうですね」
 秋野が頷く。
「それなら、佐崎さんはご存知なんでしょう? 秋ちゃんには日本人としての身分がないことも」
「こいつは、大体のことは知ってますよ」
 哲を横目で見て呟き、秋野は微かに眉を寄せた。秋野の言い方からすると、哲が知らないことはまだ幾らかあるらしい——正直に言って、別に知りたくもないが。
「私はね、マリアさんが好きです。だから秋ちゃんとも家族になれると思いました。でも秋ちゃんはずっとそれを拒否しているんですよ。勿論、口に出してそうとは言わない。それに、私たちを嫌っているのとは違いますね。それは分かりますよ。あなたは、私たちにとって鍵のかかった箱。そういうことなんでしょう」
 秋野はヨシエの帯の真ん中辺りに目をやったまま何も言おうとしなかった。
「知らなくていいことは確かに多い。私たちの多くは、何もかも知って受け容れる度量もない。それは秋ちゃんの言う通り。けれど、それを分かっていて、それでも知るということに意味があるのではないかと私は思いますよ」
 ヨシエの瞳は老人特有の澄み切った淡い色だった。皺深い顔の中、そこだけが若い頃と同じなのだろう。ヨシエにじっと見つめられ、哲は箱に目を向け直し、ジーンズの尻ポケットから道具入れを取り出した。細いピックとテンションを取り出し、片方を銜えて胡坐を掻き、箱を膝の上に載せる。箱はそれなりの重さがあり、哲の脚の上で安定した。
 哲を見つめるヨシエの澄んだまなざしも、珍しくこちらを見ていない秋野のことも、錠前と向かい合った瞬間忘れ去った。古い錠前だけが哲のすべてだ。頭の中を飛び交う意味のない数字の羅列。吐き出されてくる数字の組み合わせは今は無用のものではあるが、いつものことだから聞き流した。
 古いものは頑固で、そして意外に繊細だ。ヨシエも、ヨシエの夫の箱もまた然り。大量生産の個性のなさか、簡単にこちらに屈服する今時の錠前とは何かが違う。多少は複雑な構造のアンチピッキング錠を開けるときより僅かに鼓動が早まって身体が熱を持つ。時間にするとほんの数十秒、凝縮された興奮に指の先が微かに震えた。
 無言で差し出した箱をヨシエのか細い手が受取った。手の甲に浮いたシミが重ねた年齢を物語る。だが、哲はそのシミが、ヨシエの美しさを損なうとは決して思わなかった。
 ヨシエが躊躇うことなく蓋を開き、目を瞠る。白い布の上に載っていたのは、乾燥したへその緒だった。
「…………」
 誰のものなのか、哲には分からない。秋野も分からないのだろう。不思議そうにヨシエを見つめている。ヨシエは箱をそろそろと畳の上に置き、暫く何も言わずに小さなそれを凝視していた。
「——ヨシエさん」
 秋野の低い声が、蓋が開いた箱の中のような小さな書斎の中に響く。傾きかけた太陽の光のようにやわらかで深い低音が、哲の興奮の残滓をそっと包んだような気がした。
「大和」
「はい?」
「少しでいいから、大和と話をしてやって」
「……はい」
 答えた秋野に頷いて、ヨシエは蓋を閉めた箱を持って立ち上がった。
「さあ、戻りましょうか」
 強い声で言って立ち上がり、ヨシエは何事もなかったように元来た廊下を引き返した。先程までと変わることのない決然とした足取りのヨシエの後を、秋野はどこか遠くを見るような目をしてついて行った。