仕入屋錠前屋65 掠め取る 2

 ヨシエはこの温泉旅館の大女将、というやつなのだそうだ。経営からは退き、今は長男夫妻が切り盛りしている。とはいっても経験の差は歴然で、二人ともヨシエを頼みとしているらしい。現に、先ほど長男の嫁がヨシエを呼びに来て、秋野と哲は同じ部屋で茶を啜りながら待っていた。
「おい、秋ちゃん」
「投げ飛ばすぞ、ガキ」
「おっかねえ顔すんなよ」
 哲がにやにやしながら言うと、秋野は茶碗の縁から薄い色の眼で哲を睨みつけ、眉根を寄せた。
「俺の母親が結婚したのはヨシエさんの五男で、六人兄弟の末っ子だ」
「まだ訊いてねえじゃん」
「訊こうとしたんだろうが」
「そうだけど」
 傍目にも明らかに不機嫌な秋野は、茶碗を掌の上で回しながら口を開いた。
「中牧さんは色々問題ある女とよく結婚したもんだと思うよ。見た目はそれなりだけど、それだけじゃな」
「お前の母親、不法滞在者だって言ってなかったっけ」
「結婚と不法滞在は別物だから、ちゃんと出来るらしい。結婚すれば残留許可が出るわけじゃないが、まあ結果的にうまく行った。不法入国はしてないし、裸で踊ったりホステスしてたりしたが、売春してたわけじゃないし——まあ色々あったみたいだし、詳しいことは俺も知らない。在留特別許可貰うのは、簡単じゃないんだ。そういう申請があるわけじゃないからな」
「そうなのか」
 たまにその手のニュースを見かけることがある。ちょっと前にも、両親はオーバーステイ、子供はこちらで生まれ、子供だけが許可を得て、両親と離れ離れになるとかいうのをやっていた。申請がないなら一体どうして許可が下りたり下りなかったりするのかよく分からない。秋野は説明するのも面倒と思ったのか、それ以上突っ込んだ説明はしなかった。
「とにかく、幸運だったってことだ。尾山さんがうまく手を回してくれたところもあるし、結果的に強制退去にならなかったのは、この国があの人を受け入れたってことなんだろう」
「ふうん。よかったな」
「まあな」
 秋野は茶碗を置き、煙草のパッケージを取り出した。長い指がパッケージの縁を辿り、爪の先が角を潰す。煙草を取り出しはしたものの銜えることをせず、秋野は僅かに顔をしかめた。
「スカスカだな」
「は?」
 何のことか分からず問い返すと、秋野は軽く肩を竦めた。
「煙草が。値上げと利益の兼ね合いかね。最近、やたら崩れ易い気がする」
 そう言ってフィルターを座卓の天板で軽く叩く。数度叩くと葉っぱが詰まって、煙草の穂先は巻いた紙だけになった。
「ほらな」
「まあそりゃ、詰まればそうなるわな」
「この国も、叩いて詰め込めばまだ入る。そう思われてるかもな。入りたい、と思ってる人間は案外多い」
 お前はどうなんだ。そう訊きかけ、何となく口を噤んだ。一体、何がどうだというのだろうか。秋野がこの国に愛着を持っていないことは、何となく分かっているというのに。
 訊ねたいことの本質を見失ってできた一瞬の間。その静寂を破ったのはどたどたと響く誰かの足音だった。
「秋野!!」
「これ、走るんじゃありません!!」
 若い男の声と婆さんの声が錯綜し、襖が思いっきり開かれて、弾丸のように何かが突っ込んできた。
「やまとっ!」
 叩きつけるようなヨシエの一喝——実際それはかなり迫力があった——をものともせず、秋野を突き倒し、馬乗りになった少年はもう一度大きな声で秋野の名前を呼んだ。

 

「まったく……他のお客様がいるんですよ。少しは考えなさい、大和」
「ごめんなさい」
 少年はあっさりと謝った。秋野の腹の上に乗ったまま。
「おい、大和。退け。重い」
「ごめん」
 秋野が寝転がったまま言うと、やまと、と呼ばれた少年はにっこり笑ってずり落ちるように床の上に移動した。秋野が溜息を吐きながら起き上り、哲を見てほんの僅かに片眉を上げてみせる。
 視線を感じて目を向けると、少年が哲と秋野を交互にじっと見つめていた。やまと、というのは大和魂、のやまとだろう。さっきまで考えていたことを何となく思い出し、哲はこちらを見つめる大和の瞳を見返した。
 子供のように——実際まだ子供だが、もっと幼い子供のように、大和は哲に屈託ない笑顔を向けた。悪意のない、人懐っこい顔になんとなくこちらの気も抜ける。
 行動は子供じみていたが、大和はどう見ても高校生くらいだ。身長は哲とあまり変わらない。まだ少年特有のほっそりした身体つきのままだが、いくらなんでも腹に乗っかられれば重いだろう。
 今時の高校生らしく、洒落たTシャツを着て、ぴったりとしたジーンズを穿いている。俺がこのくらいの頃はもっと田舎臭かったな、と思いながら、哲は少年の顔を観察した。睫毛が長い二重の目はそこだけ見れば女の子と言われてもおかしくないが、きりりと跳ね上がった眉と大きな口のせいでそうは見えない。真っ黒い髪の毛は少し長め。多分、黙っていても女の子が寄ってくるのだろう。
「秋野、ここに泊まってくんでしょう」
 大和はそう言って秋野の傍ににじり寄った。
「いや、帰るよ」
「何で!?」
「用事があったから寄っただけだ。泊まりに来たんじゃないんだよ」
 秋野は手を伸ばし、大和の頭を撫でた。大きな掌に髪の毛をくしゃくしゃにされながら、大和はちょっと顔を歪めた。親に叱られて拗ねているように見えなくもない。秋野が十代のときに出来た子ならそれもありだ。まさか隠し子か、と想像を巡らす哲をよそにヨシエが立ったまま溜息を吐き、大和、と厳しい声を出す。
「後でまた話ができますよ。鶴岡さんが待ってるでしょう」
「黙って帰らないよな? 久し振りなんだから少しくらい話したい」
 秋野は頷き、早く行け、と大和を促した。