仕入屋錠前屋65 掠め取る 1

「遠いじゃねえか」
 哲の不機嫌な声音に、秋野はまるで気付かぬ振りを装っている。
「そうか?」
 長閑な田舎風の駅舎の中、哲と秋野はいかにもその場にそぐわない。
「ケツが座席に貼りつくぜ、まったく」
「それは有り得ないだろう。どんなケツだ、一体」
「うるっせえなあ、いちいち」
 秋野の通り過ぎたガラス戸を蹴っ飛ばすと、豹柄の上着のおばちゃんが咎めるような声を上げた。
 同じ獣でも秋野とは似ても似つかぬ豹柄の塊を腹立ち紛れに睨み付け、哲は渋々前を行く長身の後を追った。

 

 新幹線で二時間弱。
 まさかそんなところに行くとは思っておらず、哲は正直うろたえた。
 秋野からバイトのない日を教えろと電話がかかってきたのは三日前だった。普段なら誰が教えるか、とでも言うところだが、解錠の仕事を回してくれるというのに否やはない。前の週、同僚に頼まれて休みを代わってやったせいで、珍しく金曜と土曜が休み、定休日の日曜まで入れると三連休だった。休みが続けば暇を持て余すことは目に見えている。だから、何となく付き合ってやってもいいかと思ったのだ。
 金曜に駅まで出向けと言われたときも、まさかそこから列車に、しかも新幹線にまで乗せられるとは思っておらず、切符と駅弁を渡され座席に押し込まれ、発車のアナウンスを聞いてようやく事態を理解したのだ。
 秋野は哲の抗議などどこ吹く風、蹴られても罵られても涼しい顔でだらしなく座席に長身を沈めていたが、その顔にどこか浮かない表情が覗いていたのは事実だった。
 大して美味くもない弁当を平らげ、不貞腐れて居眠りをしていたから目的地まではあっという間ではあった。しかし身体は固まるし、耳の後ろをべろりとひと舐め、その後痕が残るほどきつく吸う、というとんでもない起こし方に腹は立つしで、楽しい小旅行とは程遠かった。もっとも、秋野と一緒にどこかに出かけて楽しい小旅行になること自体が有り得ないのだが。
 文句を言いつつ駅から更にJRに乗り換えて一時間。真新しい駅は観光シーズンには混み合うのだろうが、平日の昼間という時間のせいか、賑わっているとは言い難かった。
 しかし意外にも、タクシーは駅舎の前に列を作って待っていた。ホテル、旅館などの温泉施設が多く観光客が多いこの辺りは、タクシーと言えばここにいるのが当たり前、地元住民が乗るものではないのだとか。秋野が行き先を告げると、運転手は詳しく住所を聞くこともなく車を出した。
 手荷物すら持たない男二人が温泉宿など哲からしたら不審者以外の何物でもないと思うが、運転手は特に気にする風もない。降車後に秋野に聞いた所によるとテレビや雑誌の取材が年中あって、大方自分達もその手合いと思われたんだろう、と言う事だった。
 今は寒い季節でないとは言え、温泉宿には年中無休で客が来る。二十分余り走ってたどり着いた立派な建物の裏手の駐車場は一杯で、繁盛振りが窺えた。勿論温泉に入りにきたわけではない哲には余り関係がない話だが、それでも何となく辺りを見回す。
「哲」
 広くすっきりとした玄関の入口にかかった渋い鶯色の暖簾を潜りかけながら、秋野が哲に手招きした。同じ暖簾なら、輪島の店の紺色の暖簾のほうが魅力的だ。そう思いながらも、哲は秋野の後に続いた。

 

「いらっしゃいませ」
 その女性は、豪華な客室の座布団の上にきちんと正座して待っていた。
 威光茶に銀糸の刺繍の座布団にちょこんと座った老女は、かなり年寄りに見える。半白髪の髪は後頭部でひとつに纏めてあり、和服女性特有の、逆毛を立てて膨らませた髪形ではない。そのせいか、小さな頭がより一層小さく見えた。きちんと着込んだ和服の袖から出た手首はまるで棒きれ。そんな年寄りが顎を上げ、秋野に命令している図は何とも愉快であった。
「秋ちゃん」
 余りにも本人に似合わない呼び方に、笑いすら出てこなかった。思わず秋野を一瞥すると、一瞬こちらを向いた目が嫌そうに眇められ、老女に戻る。
「——はい」
「マリアさんはお元気?」
「はい、まあ、多分」
「多分?」
「いつものことです。あまり会ってないので」
「まあ。ついこの間も忠雄と一緒に来ましたけどね、お元気ですよ」
「……ああ」
「ああじゃないですよ、秋ちゃん」
 そう言いながら老女はゆっくりと盆から急須を取り上げた。
 秋野と哲、そして老女の間の卓袱台は決して低くもないし、必要以上に大きくはない。しかし、老女があまりにも小さいので、やたらと広く、高く見える。茶碗に薄緑の茶を注ぐ手つきはまだまだしっかりしているが、その手首はあまりにか細く、急須の重みにすら折れてしまいそうだった。
「親子のことに口出しはしませんよ。けどね、少なくともマリアさんはうちの嫁ですからね」
「はあ。どうも、不束な母で」
「生意気なこと言うんじゃありませんよ」
 ぴしりと言い、彼女は急須を軽くふって注ぎ口の滴を払った。
「まあ、それはいいでしょう。それよりお友達を紹介してください」
「ああ、はい」
 哲は自分に向けられた老女の顔を興味深く見返した。話の内容から、彼女は秋野の母親マリア——たった今名前を知った——が結婚した男の親なのだろう。秋野から母親が結婚している話は聞いていなかったが、別にしていたところで不思議はないし、実の母親と秋野の親子関係が希薄だとしても、それこそ不思議なことではなかった。
 老女は一重瞼の奥から真っ直ぐに哲を見て、黙っている。秋野が気乗りしない様子で口を開いた。
「友達っていうわけじゃないですが」
「佐崎です」
 頭を下げると、老女は丁寧に頭を下げ返す。
「中牧ヨシエです。遠い所まで、わざわざご足労頂いて」
「とんでもないです」
 ヨシエはようやく表情を緩め、哲の正座の足もとに目を向けた。
「若いのにちゃんとしてらして感心ですね。座布団を避けるなんて、今時しませんよ。どうぞ、座布団を敷いてください。ほら、足を崩してくださって構いませんからね。秋ちゃんは言われる前からもう崩してますけどねえ、だらしない」
「正座は苦手なんですよ」
「日本人じゃありませんから、って言い訳はききませんよ。何人かなんてさして重要じゃないんですからね。見てご覧なさい、佐崎さんはお若いのにきちんとしてらして」
「脚が長いと折り畳むのも大変で」
「どうせ屁理屈こねるなら、もっと説得力のあることを言いなさいな」
 思わず吹き出した哲に大げさに顔をしかめて見せ、秋野は大きく溜息を吐く。顔を俯けた秋野の頭のてっぺんを見て、ヨシエは眼尻に皺を寄せて微笑んだ。