仕入屋錠前屋65 リスクは高いほどいい 4

 切れ切れに訪れる眩暈と快感の波、それを上回る憤怒に近い凶暴な何かを感じながら哲は歯噛みし、秋野の肩を押し戻そうと、掌に力を籠めた。
 一時間ほど前、遠山の前で秋野に思いっ切り噛みつかれ、喉に酷い痕を残された。
 哲にしてみれば売られた喧嘩を買っただけだが、遠山達、ヤクザ側から見れば仲間を殴られた、ということになるのだろう。いくら女——遠山の女房——とあのヤクザが訳ありだったとしても、哲を無罪放免にすればヤクザの面子が立たない。それを秋野が納めた形にはなるのだろうが、言わせてもらえば、犬の玩具のように噛まれるよりは二、三発殴られてやったほうが余程よかった。
 元々虫の居所が悪かったと言うのにそんなことがあって、人目がなくなってから突っかかったら逆に殴り倒されて結局はこの始末だ。
 逆切れ、というのとは違うが、こういう時に普段より数段レベルが上がる秋野の底意地の悪さは哲の手に負えるようなものではない。とにかく、タチが悪いとしか言いようがないのだ。ゆっくりと、深く抉られて思わず吸った息が喉につかえる。
「くそ、退け、この……」
 言い終わらないうちに哲の言葉を遮ったのは秋野ではなく電子音で、一瞬それが何か分からなくて哲は目をしばたたいた。頭の横で鳴り響くそれは、哲のジャケットの中の携帯だった。秋野は薄茶の目を音源に向け興味なさげにまた戻したが、哲を見てひとつ瞬きすると何を思ったのか突然手を伸ばし、布の山の間から哲の携帯電話を引っ張り出した。
「ナカジマ」
 バックライトの中に浮かび上がる相手の名前を見て秋野は呟く。
「……ああ?」
「遠慮するな、出ろよ」
 片方の眉を上げ、そう言うなり秋野は携帯を素早く哲の耳に当てる。抗議しようとした時には既に遅く、通話ボタンは押されていた。同時に押し込むように揺すられて、目の前に火花が散る。吐き出しかけた下品極まりない罵声を慌てて飲み込み、秋野の二の腕に思い切り爪を立てて何とか凌いだ。
 己の手に持たされていたら切っただろうが、携帯は秋野が握ったままだった。はらわたが煮えくり返る、というのはこういう気分に違いない。実際に腸が裏返ったように感じつつ、忌々しさに歯軋りして秋野を睨みつけながら、哲はようやく声を絞り出した。
「……はい」
 唸り声と呻き声と呪詛を混ぜ合わせたような声が出たが、電話の相手は別に気にしていないようで「よお」と気楽な声を出した。
「どうも」
「何だよ、お前さん、風邪かい? 声、ガラガラじゃねえか」
 ナカジマの声は大きくはないが、部屋が静かだからか、すべて聞こえているのに違いない。秋野が声を殺して笑っているのが振動で分かる。
「何か用すか」
「相変わらず愛想がねえなあ、坊主」
 ナカジマの声を聞きながら身を捩ったが、とても逃れられそうもない。苛立ち、足を振り上げ秋野の背中を蹴っ飛ばす。踵が背中の骨に当たる硬い感触に一度は溜飲を下げたものの、結局手ひどい仕返しを受けて哲は声も出せなくなった。ナカジマが何か言っているが、それに答えるどころではない。噛み締めた奥歯が嫌な音を立てる。
「おい、聞いてるかい?」
「……聞いて、る」
 携帯を持つ秋野の手の甲を手加減せずに爪で抉る。秋野は眉を寄せたがこの嫌がらせがお気に召したのか、携帯から指は離れない。
「本当に風邪じゃねえのかい」
「——二日酔い」
「この時間まで? そりゃお前さん、飲みすぎだよ」
 秋野がまた、肩を震わせて笑う。今度は右の膝で脇腹を蹴ったが、涼しい顔なのが腹立たしい。こめかみの血管が膨れ上がるのを実感して哲は呻いた。
 乱れた前髪の間から見下ろす薄茶の目はからかうような色を見せて眇められ、電話の向こうのナカジマは盛んに哲を心配する。どいつもこいつも今すぐ消えてなくなれと声を限りに喚きたいが、秋野はともかく、とりあえずナカジマに罪はない。
「さっき、うちの奴らから聞いてなあ。お前さん巻き込んで迷惑かけたね」
「別に」
 哲は深く息を吸い、ナカジマのキツネ面と悪趣味な服を思い出し、それに集中しようと懸命に務めた。
「あの夫婦はまあ、色々あってさ」
「関係ねえから」
「まあ、そりゃそうだわな。それでもさ、お前さん、あの兄さんに食い付かれたって話じゃねえか。結構酷かったって、河合が——遠山が連れてった若い奴が、心配しててねえ。俺が殴った方がマシだったんじゃねえかとかって」
 河合というのがどれか知らないが、仰る通りだ。どうしてさっさと殴ってくれなかったかと思いはするがもう遅い。舌打ちする哲に、なあ坊主、と、ナカジマは声を潜めた。
「仕入屋の兄さん、ああいう男は怒らしちゃ駄目だよ。もし兄さんに何かされたら、ウチの事務所に逃げてきていいからな」
「はあ? ヤクザの組事務所なんか絶対行かねえよ」
 どういう意味で言っているのか知らないが、それでは前門の虎、後門のヤクザだ。キツネ顔のヤクザは、当の秋野がにやにやしながら聞いていることなど知らずに本気だからな、としつこく何度も繰り返した。
 いい加減電話を切りたかったが、一旦閉じてしまった口を開くのは正直至難の業だった。腹の上の馬鹿男はわざとらしく緩慢な出し入れを繰り返し、その癖しっかりと弱い部分を刺激することは忘れない。はらわたを手で掴まれるような感覚が襲ってきて、哲の額に脂汗が滲んだ。漏れそうになる悪罵を飲み下し返事をしようと口を開きかけたその瞬間引き抜かれ、唇に思い切り食いつかれて本気で焦る。頭を振って顔を避け、哲は思わず秋野を怒鳴りつけた。
「野郎、てめえ、ぶっ殺すぞ!! ぁあ!?」
「坊主?」
 耳元でするナカジマの声に我に返り、秋野の手から電話を奪い取って哲は片手で顔を覆った。
「——や、悪ぃ、おっさん、まだ出先で……仕入屋が横からちょっかい出しやがるから」
「おお、そうかい。いや、悪かったな。兄さんによろしく伝えてくれよ」
 哲は、あっさりと切れた電話を思い切り秋野に投げつけた。
「死ね、馬鹿野郎!」
「痛いよ」
「当たってねえじゃねえか、くそったれ!!」
 投げつけられた携帯を軽くかわした秋野は片頬を歪めて笑い、携帯を拾い上げて脇に置いた。
「粗末にするな」
「うるせえ、今すぐぶっ殺してやるこのクソ虎!」
「ぎゃあぎゃあ喚くな」
「人のケツに突っ込みながら電話に出んな!!」
「俺は出てない」
「屁理屈こねるんじゃねえ、大体」
「うるさいよ」
 低い声に、哲はぴたりと口を噤んだ。秋野は唇に薄く笑みを浮かべ、乱れた前髪の奥から覗く薄茶の眼を僅かに細めた。
「露出趣味はないが、ああいうのも悪くないな。案外面白かった」
「クソ野郎が……ろくでもねえ真似ばっかりしやがって——」
 優雅な動きで、しかし有無を言わさず哲に圧し掛かり、秋野は喉元の未だ熱を持つ噛み痕にゆっくりと歯を埋めた。鋭い痛みに歯を食いしばり、秋野の側頭部を強く殴りつける。素早く秋野の顔と手が上がり、硬い手の甲で頬を張られ、口の中に金気臭い味が広がった。
「じたばたするなよ」
 秋野は睨み上げる哲を見下ろして、喉の奥で低く笑った。
「俺に構うなら、ろくでもない真似されるリスクは承知の上だろ、錠前屋。嫌なら女と逃げりゃいい」
「さっさとくたばれ、くそったれ」
「さあ、それはどうかな」
 にたりと笑う秋野の顔に、人食い虎は絶対に秋野に似ていると、哲は改めて信じるに至った。

 

「てめ、この、ちょっとは手加減しろ……!」
「無駄口叩く余裕はあるんだろう」
「……っ、おい、死ぬって」
「そのくらいの加減はしてる」
 目の前に散る光点が、揺さぶられると一緒に揺れた。
 抱き合う、というよりは傷つけ合う、その合間に遠山とその女房の顔が何度か浮かぶ。女の無表情の下にちかちかと瞬くのが透けて見えた、追い詰められたような情熱の色。遠山がその無表情を崩すには、やはりリスクが伴うのか。
 夫婦であろうと、恋愛とは遠い自分と秋野のような関係であろうと、人と人が関わるそこには何がしかのリスクがある。得られるものに保証は、失うものに補償はない。それでも、二人は箱の蓋を開けただろうか。自分が、あるときそれを開けたように。
 秋野が、掠れた声で何か言う。何を言っているのか分からない。聞く気もない。聞いたところで心に響くわけでもない。愛し合い、与え合う関係ではないこれに足を突っ込み首まで浸かった、それは決して秋野のためではないからだ。
 薄茶の虹彩、金色の斑点、漆黒の瞳孔。秋野の前髪が瞼に触れる。濃く長い睫毛が頬に触れる。舌を噛まれ、唇を食まれ、零れた唾液で顎が濡れ、深く貫かれて哲自身が濡れる。
「……おい、クソ野郎、さっさと——」
「分かってる。少し黙れよ」
 低く呻いた自分の声は、危険を恐れてか、それとも待ち侘びてか、酷く切羽詰まっていた。そしてまた、それに答えた秋野の声も。
 ドアの外、アパートの廊下を歩く足音。玄関先で立ち止まったそれを意識した。チャイムが鳴る。新聞か保険の勧誘だろう。すぐに立ち去る足音がして、隣の部屋のチャイムが鳴るのが薄い壁越しに微かに聞こえる。
 遠山と沙矢香という女が、どうなるのか哲は知らない。数多のどうでもいいことのひとつに過ぎない二人の顔は、廊下を進む誰かの足音のように、いつの間にか哲の頭の中から消えていた。