仕入屋錠前屋65 リスクは高いほどいい 3

 すっかり毒気を抜かれてしまった河合と岡村に小倉を預け、乗ってきた車で中嶋のところへ戻るように伝えた。
 車を戻してしまったので沙矢香を伴って自宅に戻るために別に迎えを頼んだら、車を運転してきたのは福田という男だった。ゴルフシャツにゴルフズボン、服装の趣味の悪さは中嶋にそっくりな福田は頬に五センチほどの傷痕があり、小倉や遠山とは違っていかにもヤクザな外見をしている。もっとも、頬の傷は高校時代スキーで転び、エッジで切ったらしいのだが。
 福田は中嶋と仲が良く、昔から随分面倒を見てもらった。運転をさせるなんてとんでもない、と断りかけたが、黙って乗れと言われるとそれこそ逆らいようがないのが上下関係というものだった。
「中嶋さんが俺に行けってよ。お前とかあちゃんが、家に戻るまで見届けて来いってさ」
 沙矢香は黙り込んでいたが、流石に福田に申し訳ないと思うのか、膝の上で握った手を見つめていた。
「お前らな」
 福田は、意外にも優しげな声で続けた。
「別れるならそうしたらいい。くっついたまんまジタバタしてるよりか楽だ。あんまり中嶋さんに心配かけんな」
「——はい」
 ルームミラー越しに遠山を一瞥して、福田はそれ以上何も言わなかった。マンションの前で車を降り、テールライトが見えなくなるまで頭を下げた。沙矢香は口を噤んだままで、お互い自分の世界に閉じこもったまま、数年振りに二人揃って家に戻った。お互いがそれぞれ鍵を取り出す。鍵穴はひとつしかないのだということに気付いて何となく込み上げた笑いの発作は、殆どヒステリーのようなものだった。
 ソファに向かい合って座り、煙草を取り出す。沙矢香が一度は止めた煙草を吸い始めたのは、遠山が初めて外に女を作ってすぐだった。時折家の中に残っている女向けの煙草の匂い。今では嗅ぎ慣れたそれを、遠山の煙草の煙が消してゆく。
 組の人間は止してくれという遠山の言葉に「そうね」と言って以来黙ったままだった沙矢香は、揉み消した煙草の煙がすっかり消えてなくなるくらいの時間が経った後、不意に口を開いた。
「まさか、あんなことになるなんて思ってなかった」
 動画のことだろう。沙矢香は遠山の方を見るでもなく、籍を入れて以来嵌めたままの結婚指輪に目を落として語を継いだ。
「録画なんて、ほんとは嫌だったけど。それでも、別に誰かに見せるわけじゃないなら目くじら立てなくてもいいかなと思ったのに、インターネットで公開なんて。文句言いにいったのよ、何とかしろって」
 それで小倉のところに居たらしい。言い合いになって殴られたのだろう。沙矢香の左頬は、一部が既に紫がかった色になり始めている。
「……そうか」
「あの子、知り合いなの?」
 あの子、というのは恐らく錠前屋のことだ。遠山は、俯いたままの沙矢香の頭のてっぺんを眺めながら頷いた。
「中嶋さんの知り合いだ。ヤクザじゃねえけどな。それに、栄の同級生だって」
「——栄の」
 沙矢香の弟は、両親が嫌な顔をするのを知っていて、それでも遠山と連絡を取り続けている。沙矢香が浮気を続けているのを、弟として申し訳なく思っているせいもあるのだろう。遠山自身外に女を作ってきた。気にするなと何度も言ったが、栄は初めに遠山さんを裏切ったのは姉だから、と言うばかりだった。
「そうなんだ。すごかったわね、あの二人」
「ああ? ああ、何だかな」
 怯えた自分と、二頭の獣のような二人を思い出してつい笑い、沙矢香も同じように笑ったことに気がついて、遠山は息を飲んだ。
 ほんのささやかな笑いの共有に、鳩尾を殴られたような衝撃があった。沙矢香も同じだったのだろう。腫れ始めた頬が引き攣りこわばって、長い睫毛が何度も上下した。
 仕入屋が錠前屋の喉元に残した傷跡。
 赤黒く腫れたそれを見た瞬間、腹の底で蠢いたのは恐怖と、そして興奮だった。とはいえ、錠前屋に対して感じたものではない。それは、誰かを所有したいという衝動、ああして誰かに己を刻みたいという原始的ともいえる感覚だった。今、沙矢香の頬を見て感じるのは嫉妬だ。小倉への嫉妬、沙矢香の身体を知った男たちへの嫉妬、沙矢香を愛し、愛されていたはずの、かつての己に対する嫉妬。
「別れる?」
 沙矢香が突然、低い声で問うた。
 何年も、ずっと胸に抱いてきて、口に出せなかった問いだろう。遠山にしても同じだ。いつか、言おう。言ってしまえば楽になると思い続け、何故か口にすることが出来ずにきた一言だった。
「……別れるか?」
 問いに問いを返したところで、何の答にもなりはしない。沙矢香は一体どうしたいのか、それ以前に、自分は一体どうしたいのか。遠山は、全身の血の気が引いて寒気がするのを感じながら、無意識に唇を噛み締めた。
 重たいテーブルを足で蹴り、横にずらす。中途半端にお互いを遮るガラスのテーブルを跨ぎ越して、遠山は沙矢香の首を掴んで力を籠めた。
 絞めたのではない。押さえつけ、柔らかい革張りのソファへと沙矢香の身体を沈めて行く。膝丈のスカートの裾から手を突っ込む。ストッキングと下着の上から掌で覆ったそこは、強く、激しく脈打っていた。
「——正志」
 掠れた声に、遠山はきつく目を閉じた。

 

 彼女の身体をきちんと見るのは、数年振りだった。同じ家に住んではいるが、顔を合わせることなど滅多になく、たまに同じ時間帯に在宅してもお互いを無視するのが当たり前になっていたのだ。裸身など目にすることもなかったし、見たいと思ったこともなくなって久しかった。
 今更感じることもないと思っていた、妙な照れと気まずさを同時に感じた。
 まったくの他人同士なら感じないはずのそれは、居心地が悪いのと同時に——遠山自身驚いたことに——心の底を温めた。己の中の何かが枯渇していないと不意に気づいた喜び。見失っていたものは、確かに失ってはいたものの、それほど遠くないところにあったのかもしれないという驚き。様々なものが入り混じった混乱と高揚感に、遠山は無意識に指を伸ばした。
 掌に治まる小ぶりの、しかし張りのある乳房は白かった。特別色黒というわけではない自分の手指との、しかしはっきりとしたコントラストに息が荒くなる。荒っぽく掴んで揉むと、沙矢香は唸り声を上げ、遠山の手首を掴んだ。払い除けられるかと思ったが、一層強く押し付けるように引っ張られ、掌に当たる乳首が硬くなった。
 言葉はなかった。
 言葉など要らない、そういうわけでは決してない。言葉は間違いなく必要なものだったが、今は何一つ思いつかず、何を言っても胡散臭く聞こえる気がしたのだ。
 お互いの身体をまさぐり合い、傷つけ合った。性的に興奮しているのか、それとも長年皮膚の下に閉じ込めてきた澱んだ感情が噴出した反動なのか、考えることはしなかった。引っ掻き、叩き、噛みつき合う。こめかみから流れる汗が目に入ってちくちくした。
 不意に我に返ったのは、沙矢香とセックスしなくなって以来——言い変えれば、他の女とセックスするようになって以来、必ず用意していたコンドームのことを思い出したからだ。挿入の直前に動きを止めた遠山を見上げ、沙矢香は小さく呟いた。
「……リスクは高いほどいい、そう思わない?」
「…………」
「どうせ、やり直すなら」
 妊娠のリスク。また心が離れるリスク。数えきれないほどのリスク。
 どう表現しても、それらがなくなるわけではない。なくなったからといって、幸せになれるわけではない。今は取り払われたかに思える心の壁が、また築き直されないとも限らない。遠山は沙矢香の額に貼りついた前髪を指先でそっと払った。上気した頬に色濃く浮かぶ他の男がつけた痣を指先で辿り、そうして、遠山は溜めていた息を吐き出した。
「——分かった」

 

 沙矢香の中に剥き出しの己を突き立て、獣のように腰を振る。遠山の瞼の裏に、突然細い赤の糸屑が浮かんで消えた。一瞬後、それが糸屑などではなくて、錠前屋の首筋を流れた血だと思い至る。握り拳で殴りつければいいだけのことを、わざわざ噛み付き血を流させた仕入屋の真意はどこにあったのか。黄色い瞳の男の気持ちを不意に理解して、そうして呼吸ひとつの間に、きれいに忘れた。
 沙矢香の尻の丸み、太腿の形を指でなぞる。肩越しに振り返る沙矢香の顔。揺れる長い髪が顔にかかり、遠山の視線からその表情を覆い隠した。よく知っていたはずの女はここにはいない。沙矢香の知っていた男も。お互いがしがみついていたかつての相手の思い出は、いつの間にか粉微塵になっていた。
 何も考えられず、ただ感覚を追う。沙矢香が背を反らせ、低く太い呻きを漏らして遠山を締め付けた。温かい胎内に持てるすべてを吐き出し注ぎ込む。眼前に一瞬広がった白い闇の中、遠山は、束の間何もかもを忘れていた。