仕入屋錠前屋65 リスクは高いほどいい 2

 小倉の自室があるマンションは古く、駐車場はあるものの、来客用のスペースなどは見当たらなかった。そこで、遠山と河合、河合が連れてきた岡村という若い奴の三人は、運転をしてきた男を路上の車に残してマンションに向かった。
「あれ……?」
 隣を歩く河合が訝しげに呟いたのは、駐車場の端、物置か何かの横を通ったところだった。既に陽は落ち、街灯の光が届かないところは物の輪郭が周囲より沈むばかりでよく見えない。だが、河合が顔を向けた方向から、確かに人のいい争う声がする。肉を打つ鈍い音。誰かが誰かを殴る音だ。何を言っているのか分からないが、多分小倉の声だろう。
「遠山さん」
 河合と岡村が顔を見合わせ、こちらに視線を寄越す。河合はなんとかいう海外のボクサーによく似ていて、粗暴ではあるが案外気のいい男だ。岡村は元々暴走族で、河合とは正反対の彫りの深い顔つきと、神経質で威嚇的な目付きをしている。その二人が指示を仰ぐように見つめてくるものだから、問題児をまとめて引率している教師のような気分になった。
 二人に頷き、声のする方に足を向ける。物置の裏から聞こえる声が、はっきりと耳に届いた。
「てめえ、この野郎!」
 今度こそ、遠山は確信した。ひっくり返って甲高くなってはいるが、間違いなく小倉の声だ。覗き込むと、マンションの敷地を囲う植え込みと物置の間にあるスペースに、数人が立っていた。小倉らしき男は、白っぽい服のせいで一人だけ浮いて見える。声をかけようとしたら小倉が吹っ飛んで、物置の壁にぶち当たった。息を飲む鋭い音が聞こえたが、誰が発したものか分からない。男が小倉を跨いで身体を屈め、上から拳を振り下ろす。殴られた小倉の顔がこちらを向き、街灯の淡い光に浮かび上がった。
「小倉」
 遠山が声を掛けると、小倉ではなく、小倉を跨いで立っている男が反応した。乱暴に小倉の胸元を掴んで引っ張り上げ、脚をばたつかせる小倉を引き摺って暗がりから踏み出してくる。
「何だ、あんたか」
 低い声に動揺はない。もがく男を捕まえたままだということをまるで感じさせない平静な態度でそこに立っていたのは、中嶋が贔屓にしている錠前屋だった。
「……なにやってるんだ」
「何って——」
 錠前屋はゆっくりと首を巡らせて顔を真っ赤にした小倉を見つめ、遠山に視線を戻して眉を寄せた。
「身内か」
「ああ」
 舌打ちし、錠前屋は腕を一振りして小倉を投げ飛ばした。鼻血で顎を真っ赤に濡らし、目の上を腫らした小倉は背中から倒れ、河合の足元に転がった。河合がどうしたものか分からないという顔で、遠山と錠前屋を交互に見た。岡村が河合の足元にしゃがみこみ、小倉の肩を捕まえる。もっとも、小倉は呻いているばかりで、逃げ出す様子はまったくなかった。岡村が顔を上げ、錠前屋の向こうに目をやった。
「——大勢でお出ましね」
 淡々とそう言ったのは、沙矢香だった。左の頬が真っ赤になっている。横に立っているのは、錠前屋の連れ、黄色い目をしたあの男だ。一人だけ面白がるような笑いを浮かべており、煙草を銜えたまま遠山に軽く会釈した。
 錠前屋が眉を上げ、肩越しに沙矢香を振り返る。沙矢香はつまらなさそうな顔で笑い、頬が痛むのか一瞬顔をしかめて「夫よ」と呟いた。数秒の間の後、錠前屋が酷くうんざりした表情を浮かべた。沙矢香が同級生の姉だということに気がついてはいなかったらしい。仕入屋が更に口元を歪めて笑みを深くし、錠前屋は仕入屋を物凄い顔で睨みつけてから遠山に目を戻した。
「このひと……あんたの奥さんが、そいつに殴られたんで」
「……ああ」
「えーと、そこ歩いてたら、目の前で」
 そこ、と言いながら錠前屋は表の道を指す。どうやら、小倉が沙矢香に手を上げたところに行き合ったらしい。
「白馬の王子様ってわけですか。そりゃどうも」
「いや、別に助けようとかそういうつもりは全然なかったんだけど。見てんじゃねえよとか言って蹴ってきやがったんで」
「元々虫の居所が悪かったんですよ、こいつ」
 仕入屋が補足して肩を竦める。謙遜するような二人ではないから、実際にその通りだったのだろう。沙矢香は相変わらず無表情だったが、遠山に向かって小さく頷いた。
 それにしても、どうしたものかと遠山は内心で頭を抱えた。
 河合と岡村を連れてきたのは、正に小倉に痛い目を見せるためだ。このまま小倉と沙矢香を放置したのでは、遠山の沽券に関わる。遠山自身は正直どうでもいいのだが、ヤクザという組織に属している以上、必要な措置だった。
 だが、同じ小倉を痛めつけるのでも、それが外部の人間によるものだというのはまた別問題である。その証拠に、河合と岡村は錠前屋に険しい視線を向けていた。先程まで自分たちが殴ろうとしていた相手ではあるが、小倉はあくまで身内であり、守るべき組織の一員なのだ。
「——女房を助けてくれたことには、礼を言いますよ」
 遠山の口調に、錠前屋も、後ろに立つ仕入屋も——そして沙矢香も——、何かに思い至ったような顔をした。
「けどね、こいつはうちの——」
 遠山は、続く言葉を見失い、口を開けたまま固まった。
 仕入屋が素早く動き、肩を掴んで振り向かせた錠前屋の喉に噛みついたのだ。
 犬や猫がじゃれてあま噛みするのとは違う。仕入屋の顔は伏せられていて見えないが、横顔の食いしばった顎の線を見ればそれは一目瞭然だった。錠前屋が獣じみた唸り声を上げて抵抗する。河合と岡村、そして二人のすぐ傍に立つ沙矢香も、ただ呆気にとられていた。
 錠前屋は激しくもがくが、動けないらしい。錠前屋を拘束する仕入屋の腕には力が入っているようには見えないのに、だ。長身痩躯なだけに力強くは見えないのだが、実のところかなり筋力があるようだった。
 遠山には、錠前屋の歯が軋る音が聞こえるような気がした。喉元に黒ずんだ細い糸があると思ったが、血液だった。仕入屋の顎に銜え込まれた首から血が流れている。仕入屋が獲物を銜え直すように顎を動かし、錠前屋の身体が反る。苦しげな罵りの声が聞こえたと思ったら、一層深く食い込んだ歯がそれすらも食い千切った。
 どうしてか、顔も見えない、声も聞こえないのに、仕入屋が喉の奥で笑ったのが分かって遠山の両腕が服の下で一気に粟立った。
 仕入屋は、右手に煙草を持ったままだった。細く白い煙がゆっくりと立ち上る。錠前屋の喉から喘鳴が漏れ、足が虚しく地面を擦った。
 一体どれだけ時間が経ったのか。錠前屋の抵抗が弱まり、いつの間にか大人しくなっていた。仕入屋がゆっくりと屈めていた身体を戻す。こちらを向いた顔を見て一瞬馬鹿みたいに緊張したが、映画のように口が真っ赤に染まっているなんてことはなかった。ただ、唇の端にこすれたような赤茶色がついているのが、唯一の痕跡。
 唇の端に煙草を銜え直した平然とした顔が、整っているだけに一段と不気味だ。仕入屋は形のいい眉を上げ、遠山をじっと見た。
「うちの馬鹿犬が、迷惑かけて申し訳ないですね。躾がなってないもんで」
「え——ああ……いや…………」
「帰っても?」
「ああ——」
 仕入屋の色の薄い目が細められ、口元に薄らと笑みが浮かぶ。端正な顔にゆらりと立ち上った気配は、酷く凶暴なものだった。錠前屋のそれを凌ぐ獰猛さ。そのへんのヤクザ者の手に負えるとは思えない迫力に、遠山のうなじの毛が一気に立ち上がり、冷や汗が噴き出した。
「来い」
 仕入屋は後ろも見ずにそう言って、遠山の横をすり抜けて歩き去った。錠前屋が突然激しく咳き込み、遠山の体は金縛りが解けたように急に緩んだ。
 錠前屋の喉元に、明らかに歯型と分かる血の滲んだ傷がしっかりとついている。人間の歯型だと思うと、既に赤黒く腫れ始めたそれは妙にグロテスクでぞっとした。
 遠山と他の見物人の存在など忘れたかのような激しい罵声が錠前屋から吐き出され、その場に響く。錠前屋は折り曲げた身体を元に戻し、口元を拭って仕入屋に目を向けた。火を噴きそうな恐ろしい目付きで仕入屋の広い背中を睨みつけ、錠前屋は無言でその後に続く。足音が遠ざかり、二人が消えて暫くしても、遠山は、何も言えずにその場にただ突っ立っていた。