仕入屋錠前屋65 リスクは高いほどいい 1

 世間は狭い。
 何かあるたび、人はそういって驚く。本当に世間は狭いわあ。偶然ねえ。まさか、あのひととあなたが知り合いなんてねえ。
 しかし、実際のところそれは当然の結果でもある。
 確かに、日本は広い。世界はもっと広い。
 だが、大抵の人間は限られた地域の、限られた人間関係のなかで大方の時間を過ごすものだ。当然人間関係は狭い範囲内で枝葉を伸ばしていくわけで、繋がり合うそれらは身近なところで絡まり合い、すれ違い、また出会う。だから、どこの店の誰が元同級生の親戚だとか、得意先の社長が同僚の先輩だとか、そういうことが起こるのは、実際のところそれほど珍しいことではないのだろう。
 偶然を歓迎できるかどうかは、別として。

 

 遠山は銜えた煙草の先から灰が落ちるに至り、ようやくそれを灰皿に放り込んだ。
 目の前に座る女の顔には、遠山に対する敵意も、好意も浮かんではいない。蛍光灯の下で顔色はやけに青白く見えていたが、釈明する気など皆無なのか、平然としたものだ。分かっていたし今更腹も立たないが、それでも胸の奥に針で刺されたような鋭い痛みを感じ、遠山は小さく息を吐いた。
「お前が誰と会おうがうるさくは言わねえが」
 嘆息に僅かに眉を上げ、沙矢香は脚を組み変えた。
「組の人間は止してくれ」
 沙矢香の吐き出す煙が、遠山の顔の横を流れて行く。遠山は、今では完全に他人になった女の細面を眺めながら、もう一度同じことを繰り返した。
「組の人間はまずい。面倒なことになるだろ」
「そうね」
 無表情でそれだけ言って、沙矢香は細い煙草を灰皿に押し付けた。遠山が放りこんだ吸殻を穂先で避け、丁寧に火を消す。まるで誰かの身体を横たえるように吸殻を置くと、沙矢香は遠山に目を向けた。
 かつては、彼女の色素の薄い目で見つめられただけで胸が躍り、身体は熱くなり、愛情が込み上げたものだった。それらが実感を伴わない過去の記憶になり果てて随分経つ。そうなってしまった理由は分かっていた——無視しようもなかった——が、理由が分かっているからといって慰められるものではなかった。
 沙矢香は肩を竦め、表情を変えないまま、きれいに染めた髪を掻き上げた。

 

 盗撮、とは違う。だが、少なくとも沙矢香には、誰かに見せるつもりはなかっただろう。
 インターネット上に流出した件の動画を遠山が目にしたのは、日が傾きかけた時間、中嶋に知らされてのことだった。廊下の向こうから手招きする中嶋の顔は強張っていた。
「どうしたんですか」
「ほんとならなあ、お前さんに見せるべきじゃねえんだが」
 チャコールグレイのワイシャツの襟元を緩めた中嶋が遠山に見せたのは、妻と、見知った男のセックスだった。隠し撮りではない証拠に、二人は時折カメラ目線になって笑いを漏らす。第三者がいたわけではないらしく、カメラは固定されている。アングルが変わらないので何から何まで見えるわけではなく、画像も粗いのが救いと言えば救いだ。
 それでも衝撃に突っ立ったままの遠山の肩に、中嶋が手を添えソファに座らせる。遠山、と呟いた中嶋の声は表情と同様硬かった。
「お前さん、知ってたかい」
「……浮気ですか。それなら知ってます。ずっとですし、お互い様です。相手が——相手のひとりがこいつだってことは、知りませんでした。動画のことも、知りません」
 呆然としてはいたが、しっかりした声が出た。自分の声の確かさに慰められ、遠山は数度瞬きし、腰かけ直した。
「何ですか、こりゃ」
「……まあ、何って言われたらお前、ナニだ、ほら」
「中嶋さん」
 思わず苦笑した遠山に安心したのか、中嶋の顔がようやく緩む。中嶋は煙草を取り出して銜え、マルボロライトの箱を遠山に差し出して片眉を上げた。有難く一本抜きとり、中嶋に火を差し出してから自分の煙草に火を点けた。
「こいつ、自分のパソコンに保存してたらしくてな。それが、空き巣に入られてパソコンごとやられたって話だ。パスワードとかなんとか、そんなのもかけてなかったとかで、盗んだ奴か買った奴がこの手の動画投稿サイトに載せたらしい」
 パソコンには詳しくない中嶋の説明は適当だったが、よくあることだから事情はすぐに飲み込めた。今時仕事でパソコンを使う人間なら当たり前のセキュリティ対策もホームユーザーにとっては面倒な手順のひとつに過ぎないのか、家庭のパソコンは案外無防備なものだ。
 狭い応接室は西日が入ってやけに明るく、すべてがオレンジ色に染まっていた。中嶋の珍しく心配そうな顔も、まるで狐の毛皮の色だ。画面上で未だ絡み合っている妻と男を一瞥し、遠山はマウスに手をかけ画像を一時停止した。
「そうですか。まあ、よくあることですね。しかし、ヤクザのくせに空き巣に入られるってのは、そっちのほうが問題ありじゃないんですか」
「お前さん、そんなこと言って」
 悪趣味な朱色のネクタイの剣先を左手でいじりながら、中嶋が煙を吐く。遠山は手を伸ばし、灰皿に灰を落とした。
 男は同じ組の若い奴で、確か小倉という名前だ。茶髪に痩身、雑誌に載っている読者モデルのような風体の二十代。一見ごく普通の若者だが、中身はチンピラそのものである。
「いや、もうほんとに——ずっと、お互い様なんで。それはいいんですが、それが……」
 遠山は、機械的に静止画像に目を向けた。不鮮明な、しかし見間違えようもない妻の顔が、黒っぽい画面の向こうから遠山を見つめている。中嶋の低い声で、遠山は画面から目を離した。
「放っとけねえだろう」
「は?」
 中嶋は渋い顔で煙を吐き出した。
「河合が知らせて寄越した。たまたま見たってな。あいつには誰にも言うなって言っといたが、他のやつらが見ねえとは限らねえ」
 そう言われれば確かにそうだ。今時、インターネットで動画を見るというのは当たり前のことになっている。大手サイトなら、日に何人のアクセスがあるのか考えたくもない。
「お前のかみさんがよそに男を作るのは、お前さんがいいっていうならそれは構わねえよ。けどな、うちの、しかも下っ端に寝取られたなんて話が広まったらお前さんにとってよくねえわな」
「……ああ、まあ、そうですね」
 そもそも同じ組の、しかも自分より上の立場の人間の女に手を出すこと自体有り得ないはずなのだが、近頃の若い世代というのは何でもありだ。確かにヤクザという稼業自体正義も道徳もへったくれもないものだが、元々体育会系の集団だから上下関係だけは異常にうるさい。そのはずなのに、最近ではこういう若いのが増えていて、所謂年寄り連中は頭を抱えているのも事実だった。ヤクザも、大企業も、学校も、人が集まって集団を作ればそれすなわち社会の縮図となるわけで、抱える問題は大差ないというのは皮肉な話である。
「小倉んとこ、行って来な。河合と、あともう二、三人連れて」
「……分かりました」
 億劫だったが、遠山は仕方なく頷いた。ヤクザである以上は暴力とは無縁ではいられない。大学時代まではごく普通の世界で生きていたから、喧嘩をして解決するということ自体が馬鹿らしく思えてしまう。それでも、中嶋の傍で生きていくためには覚えなければならないことだから、嫌悪感や抵抗は既になかった。
「ああ、遠山」
 部屋を出かけた遠山に、中嶋の声がかかった。
「お前さん、そろそろかみさんときちんと話しなよ」
 返事を出来ずにいるうちに、自然とドアが閉まって廊下に一人きりになる。長いこと身の内に澱んでいた何かを吐き出そうと溜息を吐いたが、それは今更変わることなく鉛のように重く胃の底に在り続けた。

 沙矢香とはヤクザ稼業に足を踏み入れてから出会ったが、間に入ったのは大学時代の友人だった。
 この世界に足を突っ込んでから堅気の知り合いとは殆ど疎遠になってしまったが、中の数人とは変わらず友人関係を保っていて、有難いことだと思っている。そのうちの一人が大学時代に所属していたサークルに、沙矢香が他校から参加していたらしい。友人と遠山は二人で飲んでいて、たまたま女友達数人で来ていた沙矢香とばったり会った。月並みだが、それが出会いだ。
 遠山の仕事を知っても沙矢香は離れなかった。両親の大反対も駆け落ち同然の結婚で押し切って、籍を入れて二年目に子供ができたが、結果は稽留流産だった。
 流産したからといって、次の妊娠が不可能になるわけではない。原因が胎児にあったのか沙矢香にあったのか本当のところは分からないが、どちらが原因だからどうだというつもりは遠山にはなかったし、悲しみはあったが、また作ればいいと思っていた。だが、沙矢香は酷く落ち込んだ。
 一度は、子供の心音を聞いたせいだろうか。胎内に宿った我が子を失った悲しみは、確かに男には実感し難いものがある。心で悲しみはするが、身体が胎児の存在を知っていたわけではないからだ。
 その後、すぐに妊娠できなかったのも悪かったのだろう。遠山が——よかれと思ってのことだったが——そのことに触れなかったのも悪かったのかも知れない。気の重さからお互いに触れるのを避けるようになり、顔を合わせるのを避けるようになり、気がつけばいつの間にか、ひと飛びでは飛び越えられない溝が目の前に横たわり、沙矢香の顔から表情が消えていた。
 遠山は、車のシートに沈みながら溜息を吐いた。
 改めて考えて見れば、まったくの他人になり果ててから四年、沙矢香の流産からは六年が経つ。お互いに別の相手に慰めを求め、それでも形式上は夫婦を続けていたのは、やはり間違いだったのだと改めて思った。何の解決も図らないまま過ぎた長い時間の中で、二人の間にあった何かは、乾いて固まってしまったに違いなかった。