仕入屋錠前屋64 はがねの王 3
「おい、自分で歩かねえと置いてくぞ」
タクシーを呼ぶと言っても、道路まで出なければ話にならない。哲は雑居ビルの階段の途中、壁に寄り掛かって動かなくなったままの秋野を下から見上げて毒づいた。
「おいこら動けよ、足出せ。右左、右左だ。ほら、簡単だろうが」
先程まで秋野が寝ていた店は、このビルの五階にあった。見るからに古くて壊れそうなエレベーターは外見を裏切ることなく故障中で、レイによると前に来た時も、その前に来た時も故障していたらしい。多分ずっと故障しているに違いない。
「左右じゃ駄目なのか」
秋野が小学生のように揚げ足を取る。
「減らず口叩くな、酔っ払い」
「おぶってくれ、年寄りを」
「自分よりでけえ男を誰が背負うか。転げ落ちんなよ。死ぬぞ」
「受け止めてくれるんだろ?」
「華麗に避けるっつの」
「くそったれ」
秋野は呻いて、そして呆れるくらい軽やかに階段を下り始めた。呆れた哲の眼前まで来て、不機嫌に眉を寄せる。
「邪魔だよ」
「お前、歩けんじゃん。それとも、酔ってるせいか、その軽やかなステップは」
「ステップなんか踏んでません。歩けないんじゃないよ、歩いたら辛いだけ。世界が回ってる」
「すげえしっかり歩いてんじゃねえか」
「そう見えるか? お前が思うよりずっと酔っ払ってるよ」
そう言いはするが、秋野の顔は多少青いくらいで、どう見ても普段と変わりない。
「嘘だろ」
「お前のことを、世界で一番、心から愛してる。結婚してくれ」
「前言撤回。酔ってんな」
「だからそう言ってるだろ。邪魔だって」
邪魔だと言いつつ、秋野は哲が避けた後も脇をすり抜けようとしなかった。実際に本人が言う程酔っているのかどうか、改めて眺めてみてもやはり分からない。大体、酔っている人間が自分は酔っていると認識するのも妙な話だ。
「動けなくなったとか言うんじゃねえだろうな。担げねえぞ、マジで」
「レイは、何か言ってたか」
語尾が僅かに掠れ、溜息のように消えていく。ゆったりとした低い声音に表れた、酔いの片鱗。それでも、秋野の金色の虹彩はいつも通り澄んでいた。哲に時折見せる瞳の奥の深淵は今、酔っていてさえその存在を窺わせない。
薄汚れた雑居ビル。油と埃と煙草の臭いが染み付いた狭い階段の四階と三階の間に立って、秋野はいつもの如く王侯貴族のような傲慢さと、捕食動物の獰猛さ、そして両者に共通する優雅さを身に纏っているようだった。
「ああ……まあ」
「うん?」
「聞いたけど——大体は」
「……」
秋野は少しの間哲の顔を見た後に、片頬を歪めて笑った。その笑顔に滲む諦念に、哲は面食らって足を止めた。
「退けよ」
複雑な色合いの片笑みを浮かべたまま言って、秋野は哲を押し退けるようにして歩を進め、そうして幅寄せしてきたかと思うと哲を壁に押し付けた。腕で囲い込まれるようにして覗き込まれ、下唇を食まれたのはほんの一瞬。去り際に唇を舐めた舌は、微かな酒臭さを置き土産に、あっという間に離れていった。
階段を下りていく秋野の背筋は伸びて、酔いも、それとは違う何物かも、どこかへ仕舞い込まれたように跡形もなかった。誰にもその下を覗けない、金属のように強靭な何かの下にすべて隠してしまったように。
「お前が、鉄の王様だか何だかとも言ってた」
「哲の王様? 何だそりゃ」
まだ酔いが残っているせいか、秋野は哲を振り返りながら、本気で不思議そうな顔をした。
「アクセントが違うだろ、アクセントが。俺じゃねえよ、金属の鉄」
「何で? 拳銃絡みだったからか」
さらりとそういう言葉が出てくるあたり、やはり住んでいる世界が違うのだろう。住んでいた、と過去形にすべきなのかどうか、その辺りの詳細は知りたくもないが。
「面の皮が厚くて偉そうだからだと」
「ああ」
「あと」
かわいそうになる。それは言う必要のないことだと思ったから黙っていた。
レイも、秋野も、気にしないのかも知れない。それでも、言わなくてもいいことだという気がした。
「何だっけ? お前は鋼鉄の人でいいんだってよ」
レイの言葉を繰り返すと、秋野は片眉を上げて哲を見た。
「何だよ」
「いや——」
踊り場で立ち止まった秋野の横顔は、青白い蛍光灯の下で白っぽく浮いて見えた。
階段を降り切り、ビルから出る。
呼び込みの声、店から漏れる音楽、話し声、酔っ払いの叫び声、車のタイヤの軋る音。
「鋼鉄の人ってのは、スターリンのことだ」
様々な音の中で、秋野の低い声が耳を捕えた。
秋野はビルの入り口で立ち止まり、煙草を銜え、火を点けた。吐き出した煙の細い筋が、色彩と音で溢れる通りへ逃げて行く。
「は? ソ連の?」
秋野が頷き、煙草の穂先から細かな灰が散った。ゆっくりと、花弁が舞うようにひらりと落ちる。
「スターリンってのはペンネームなんだよ。鋼鉄の人って意味だ。本名じゃない」
「余計なこと色々知ってんな、お前」
呆れた顔の哲に肩を竦め、秋野は空に向かって煙を吐いた。
「やっと許してくれたのかね」
「は? 誰が、誰を」
「レイが、俺を」
「許すって、何を」
「チハルに、脚を折られたろ」
「けどあれは」
お前のせいじゃないと口にしかけて飲み込んだ。
夫を亡くした女の気持ち。理屈と感情を分けられないその辛さを、レイは理解していたのかも知れない。
王様というよりは独裁者。民のために在る君主ではなく、己のために君臨する悪者であれとレイは言うのだろうか。思うがまま、傲慢であれと言うことで、そのままでいいと暗に伝えたつもりだったのか。
東欧の髭の独裁者と一緒にするのもどうかと思うが、それはレイの捻くれたユーモアなのだろう。
「……そういえば、脚、触ってなかったな」
呟いた哲を見て、薄茶の眼を僅かに細める。秋野はもう一口煙草を吸いつけると、それを哲の唇の間に突っ込んだ。
「またな、哲」
「……」
「何だ」
都会の夜は酷く明るい。必要以上の照明が、秋野の普段より更に削げた頬に影を落とす。薄茶の眼に青から緑へと色を変えるネオンが当たり、いつもと違う榛色に煌めいた。
銜えさせられた煙草を足元に吐き出し、スニーカーの底で踏み消す。秋野は暫し無言で哲の顔を眺めた後、長身を屈めて吸殻を拾い上げ、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「行儀が悪いな」
「——痩せてんじゃねえよ。繊細だなお前」
吐き捨て、秋野の脛を蹴っ飛ばす。秋野の向こう、道端でスーツの三人組に纏わりつく客引きの血のように赤いネクタイをぼんやり見つめた。
「哲?」
「どうせ寝てねえんだろ、まともに」
「…………」
秋野の夢に出てくるのは、秋野が直接殺した男のはずだった。だが、どういうわけか夢には今、遠い国で死んだ男もまた現れるのではないかという気がした。
哲の顔に据えられた秋野の視線は逸れなかった。
鋼鉄のように、針のように、それは哲に突き刺さる。
「——泊めろ」
「哲?」
「酒盛りでもすっか」
秋野は嫌そうに顔をしかめた。
「今日はもう酒は見たくないよ」
「じゃあ寝ろよ。俺はまだ全然飲んでねえし」
「何言ってるんだ、お前」
怪訝そうな顔をする秋野に肩を竦め、哲はスニーカーの踵で地面を擦った。
優しくしてやるつもりはない。同情してやるつもりもない。
秋野は弱さを見せることを恥じない男だが、最前秋野の顔に浮かんだそれは、弱さではなく強さだった。心臓の拍動と同じリズムで噴き出す血をそのままに、己と死んだ男を、泣きながら哀れむのではなく片笑みで見送る男。
「俺の手には負えねえ。けど、うなされたらぶん殴って起こすくらいはできるだろ」
呟いて背を向け、哲は秋野を置いてさっさと歩き出した。
肩を揺すりながら歩いてきた大きな男が哲を弾き飛ばすようにぶつかって立ち止まった。
「痛ぇな! おい、兄ちゃん!」
「……ぁあ?」
男は哲と目が合った途端顔色を失った。泡を食って顔を背け、背を向けて去っていく。遠ざかる背を見送りながら、自分はどんな顔をしているのだろうかと訝った。
重たい金属の扉に隠されたその場所に、血を流す何かがあるのなら。止血してやるくらいはしてやってもいいと思う。
はがねの王に、そのくらいの奉仕はしてやろう。
欲しいと言うなら与えよう。
あの男が、望むなら。
傷ついた、鋼鉄の独裁者が。