仕入屋錠前屋64 はがねの王 2

「拳銃の密造ってさあ」
 レイがでかい声で言ったので思わず回りを見回したが、レイは「大丈夫」と軽く言って持ち直したスプーンを顔の前で振った。
「ここ、母親の同郷の人間か、その関係者しか来ないし。日本語もあんまり通じないけど、通じても誰も日本の警察なんかに言わないから」
 そう言ってスープを啜り、レイは哲に目を向けた。
「拳銃の密造って、フィリピンとか中国で多いんだよね。アキは昔、そういうことに関わってたんだけど、知ってる?」
「簡単には聞いた」
 煙草を銜えたまま答えると、レイは頷いた。
「で、まあ今はすっかり足を洗ってるんだけどね。あの頃付き合いあった奴が死んじゃって、向こうに様子見に行ってたみたい」
「向こうって?」
「フィリピン」
「……フィリピン?」
「うん。そいつ結構前に帰国してるから」
 パスポート、と口に出し掛けて、哲は言葉を飲み込んだ。
 今は死体のように転がっているが、この物体は仕入屋なのだ。
 前に、戸籍も幾つか持ってはいると言っていた。勿論本来持つべき己の戸籍ではなく、違法な手段を駆使して手に入れたものだろう。それらの戸籍をメンテナンス——と言っていいのかどうか——するために、税金も色々払っているというのもこの間初めて聞いた。数人分払っているというのだから、哲より余程立派な納税者である。そんな男が、パスポートの一つや二つ持っていないわけがない。
「ああ……そういや暫く面見てなかったか」
「そうだね。ひと月は行ってたんじゃないかな?」
 哲が顔を向けると、レイはたくさんの具が入ったスープをゆっくりとかき混ぜていた。
 隣のボックス席から男が四人立ち上がって、そのうち一人が秋野に気付く。四十代半ばくらいの男は、にっこり笑ってレイに早口の英語で何か言い、他の三人と一緒に出て行った。
「アキが寝てるの、久し振りに見たってさ」
 レイはいまいちよく分からない顔の哲に笑顔を向けた。
「こいつ、どこにいたって本当には気を抜かないんだ、昔から。でもここにはほら——……脅威はないわけだから。アキが酔い潰れるのは俺たちが集まる場所でだけなんだと思うよ」
 俺たち、というのは、恐らく同郷人を指すのだろう。
 秋野が身じろぎし、僅かに身体を丸めて横向きになる。完全に寝がえりを打つにはソファは狭い。秋野は哲とレイに横顔を見せた状態になって、また動かなくなった。
「フィリピン人ってさあ、カトリックが多いんだよ。知ってた?」
「知らねえ」
 首を振ると、煙が揺れた。レイがかき混ぜるスープからも湯気が立って渦を巻く。秋野は相変わらず、ちょっと白っぽい顔色のまま眠っている。
「俺は母親の故郷に行ってみたいと思ったこと、別にない。俺は日本で生まれたから、ここでの生活が当たり前だもんな。あっちの暮らしをどうこういう気はないんだよ? ただ、俺の居場所じゃないって思うだけ」
 あちらこちらに寄り道するレイの話を漫然と聞きながら、哲は短くなった吸殻を灰皿に放り込んだ。
「いいひとばっかりなんだよ。さっきの彼もすごくいい奴だし、少なくとも、俺の知ってるひとはみんな優しい。お金もないし、日本の常識からしたらおかしなことをしてると思うかも知れないけど、でもそれって文化の違いだから。だけどさ、個人個人は敬虔なカトリックで、善良なひとなのに、あの国は夜一人で歩けない。犯罪に遭ったら命を落とす確立もすごく高いんだって。犯罪者も必死だから」
 哲には、レイが何を言いたいのかよく分からなかった。そもそも独り言のつもりなのかも知れない。
 鼻が慣れたのか、料理の匂いを感じなくなっている。哲は深く息を吸い込み、考えた。人間の身体は驚くほど順応性が高いのだ。
 どこの土地に放りだされようと、泣こうと喚こうと、そこから抜け出せる手段がなければそこで生きていくしかない。動物の生存本能は、時に己以外のすべてを傷つけても生き残れと厳命する。そうなったとき、あくまで理性に従うのと、本能に身を委ねるのと、一体どちらが正しくて、どちらが重い決断なのか。
 嘘をつき、そうして得た何かで愛する家族が糊口を凌げるならば、罪を犯して何が悪い。そう思うことは罪なのか。特別苦労らしい苦労をしたことがない、人並みに甘やかされて育った哲にそんなことは分からなかった。
「死んじゃった奴ってさ——寝てるときに強盗に入られて、撃たれて死んだんだよ。奥さんは子供連れてお姉さんの家に遊びに行ってたんだって」
 レイはスープの中の海老をスプーンで何度かつついた。
「アキは別に家族の面倒見に行ったわけじゃないんだよね。いろんな後始末、向こうでそいつと組んでた奴に頼まれて……それでついでに家族の様子も見に行ったってだけ。親切でしたのにさ、奥さんはアキを罵倒したらしいよ。あんたのせいだってさ。あんたのせいで夫は強盗なんかに入られたって。日本でこんな商売を覚えてこなければ、貧乏なままでいれば死ななかったって」
 吸い終えたばかりの煙草が欲しくなって無意識にポケットを探ったが、パッケージは空になったのだったと思い出した。灰皿の中の秋野の吸殻を指先で摘み、暫し考え結局銜える。見ていたレイは眉を吊り上げ、しかし何も言わなかった。
 吸殻にしては随分長かった。唇に触れる感触から、噛み痕がついているのが分かる。フィルターを噛み、まだ長い煙草を消してはすぐ次を銜えるのは、イラついているときの秋野の癖だ。
「アキのせいじゃないし、そんなの奥さんだって本当は分かってると思う。で、アキもそれをよく分かってると思う。大体そいつ、密造拳銃で儲けてたんだよ? 考えようによっては因果応報って言ってもいいよね」
 レイが、哲を突き抜けて違うところを見据えるようにして言った。
 冷たいといってもいい台詞。実際、レイの眼は酷く冷たかった。そこに浮かぶのは、哲の知らない世界にある哲の知らない理屈、そして哲の知らない悲しみなのかも知れない。秋野とレイは、哲には決して理解できない何かを共有しているように見える。羨望の念など覚えないし、やると言われても受け取りたくない。多分、そういう種類のものだ。
「アキさ、いきなり事務所に来たんだ。空港から真っ直ぐ来たって。飲みに行かないかって。あんまりないんだよ、そういうこと。俺とアキは別に仲良しってわけじゃないし、アキは情報屋の俺には色々話したがらないし」
 秋野がソファの上で僅かに身じろぎし、夢でも見ているのか、眉間に薄らと皺を寄せた。
「それが、飲み始めるなり向こうであったこと色々話し始めてさ。話してる間中普段通りの顔して——いきなり落ちたんだ」
 哲が吐き出した煙が、天井のライトを掠めて流れていく。
 レイはスープの皿をテーブルに置き、哲を見た。
「強いんだよ、アキは。精神的にも、暴力的な意味でも。何ていうか——」
 言い淀み、暫し黙り込んだレイはまた口を開いた。
「鋼の王様って感じ」
「はがね?」
「鉄鋼のはがね。面の皮も鋼鉄並みだしさ。王様みたいに偉そうだし」
「言えてんな」
 ちょっと笑い、レイは突然真剣な顔になった。
「俺、こいつの傲慢なとこ、好きじゃないんだ。でも、そうじゃないとこ見せられたら」
 かわいそうになる、そう聞こえたのは空耳だったのかも知れない。
「——鋼鉄の人でいいんだよ、アキは」
 レイの指が海老の尻尾を摘まみ上げ、胴体から頭を引き千切る。スープで濡れたレイの指先を眺めながら、哲はなんとなく考えた。料理の中の海老をかわいそうだと思う奴は多分それ程多くない。レイの台詞の本当の意味が理解できる人間も、きっとそう多くはないのだろう。
 指先を舐め、レイはまたスプーンを手に取った。
「連れて帰ってくれない? イライラするんだ」
 無表情で言い、レイは疲れた顔で溜息を吐いた。テーブルの上に乗り出し、手に持ったスプーンの柄で秋野の肩をつつく。
「アキ、お迎えだぞ」
「……美人か」
 秋野は眼を閉じたまま呟いた。
「残念でした」
 身体を転がしてこちらを向いた秋野の顔に乱れた前髪がかかり、眠たげな薄茶の眼を半ば覆い隠す。視線がレイからテーブルの上の皿に向かい、最後に哲の腹から顔を這い上った。
「ああ——哲」
 己を呼ぶその声に、哲は何となく頷いた。