仕入屋錠前屋64 はがねの王 1

 喜色満面、という言葉がある。
 顔中を喜びに輝かせたひとが自分を見ているという、そんな経験は一体いつが最後だろうか。
 とにかく、思い出せないくらい前であることは確かだ。
 今現在、目の前の男は正にそんな表情を浮かべている。しかし、哲にしてみれば嬉しいどころか背筋を秒速で悪寒が走った。
「待ってたよぉ!」
 年齢不詳の、人畜無害そうな顔。だが、それはあくまでも顔のつくりの話だ。
 店の奥のボックス席から伸び上がるようにして手を振るレイにしかめ面を見せつつ、哲はゆっくりと店内を移動した。
 ここは、普段哲が出入りする店ではない。店内には嗅ぎ慣れない料理の匂いや、英語、その他にも複数の言語が飛び交っていてまるで外国にいるような気分になった。
 見た感じは古いスナックだが、酒だけでなく料理を目の前に置いている客が多い。飲み屋とレストランが一緒くたになったという感じだ。
 レイは幾つかあるボックス席の一番奥から顔を見せている。背凭れを高くした安っぽい合皮のソファで作られた席は、回転寿司のボックス席を思わせた。レイと一緒にいるはずの秋野の頭は見えないが、用を足しているのか、その辺の女でも口説いているのだろう。
 そう思ってソファを回り込み、座ろうとした哲は本気で驚いた。
「うわっ!?」
 ソファの座面から人の頭がはみ出していたからだ。
「死体かよ」
「生きてるよー。いや、さっきまでは生きてた」
 仕方なく、哲はレイの隣に一人分間を空けて腰を下ろした。
 ソファはコの字になっていて、長い辺には大人三人が余裕を持って並べる幅があったが、秋野が横になった側には当然ながら人が座る余地などない。
 秋野の頭は半分ソファから落ちかけて、気道確保されている患者のように顎が上がっている。ソファの幅は当然のことながら秋野の身長よりも短い。足首で交差させた脚がソファの背凭れの上に掛かっていて、黒い革のブーツを履いた足がソファの向こうにはみ出していた。
「寝てんのかね」
「寝てるっていうか……」
 レイは、秋野の顔を数秒眺めていたが肩を竦めた。
「まあ寝てるっていうのかな」
 そう言ってグラスを取り上げたレイの手元、テーブルに目をやって、哲は思わず眉を寄せた。
 つまみが乗っていたと思しき皿を取り囲むように林立しているのは透明な瓶と茶色の瓶だった。
 茶色のずんぐりした瓶は哲も知っている、サンミゲルというビールだ。透明な方はよく分からない。原色で描かれた天使か何かが剣をふりかざす絵柄のそれは、レイによればジンらしい。テーブルの上にある空き瓶の本数を数えることはすまいと決め、哲は煙草を取り出した。
「……まさかとは思うんだけどよ」
「え?」
 煙を吐く哲を向き、レイはわざとらしく睫毛をぱちぱちさせた。
「可愛くねぇし、んな顔しても」
「それは残念」
 レイはテーブルの上のビールの瓶を何本か掴み、ようやく中身の残っているものを探し当ててグラスに注いだ。
「何か食べる?」
「要らねえ。で、あんたの言ってた荷物って、まさかこのでかいのじゃねえだろうな?」
 顎で秋野の寝顔を指すと、レイは「えへへ」とわざとらしく笑って見せた。

 

 哲がバイト先の裏で煙草を吸っていた時に、尻ポケットの電話が鳴った。誰の番号かは分からなかったが、一応と思って出たのが先ず最初の間違いだった。
「はい」
「どうも、神田調査事務所ですが」
「は?」
「神田怜です」
「ああ……どうも。何すか」
「今アキと飲んでて、で、番号聞いたんだけど」
「はあ」
「ちょっと、荷物があって……お願いしたいことがあるんで、来てもらえないかなと思って——―」
 断ろうかと思ったが、バイトはそれから三十分もしないうちに上がりだった。
 今日は早上がりだが別に用事があるわけでもないし、秋野がいるなら解錠の仕事なのかも知れない。そう思って足を運んだのが次の間違い。まったく、すっかり引っかかったというわけだ。
「やっぱこれなのかよ」
 尻をずり下げて脚を組むと、レイは、一応は申し訳なさそうな顔を作った。
 店員らしき男——平服だから客とまったく区別がつかない——が寄ってきて、レイに英語で何か言う。レイが頷きながら返し、男は一旦消えてまたすぐに現れると、哲の前にサンミゲルの瓶とグラスを置いて立ち去った。
「お注ぎします」
「手酌で結構です、お構いなく」
「怒んないでよ、佐崎くん」
「怒ってねえよ」
 別に嘘はついていない。怒ってはいないがうんざりしているというだけだ。レイが差し出した栓抜きで瓶を開け、グラスに注ぐ。ビールは冷えていて美味かったが、その程度で和むほど穏やかな人間性ではそもそもない。
「つーか、こいつ、何で寝てんの」
「寝てるっていうか……酔い潰れてる」
 思わず隣のレイを見ると、レイはおかしそうに声を上げた。
「やっぱり、見たことないでしょ。秋野がここまで酔っ払うの」
「……ここまでどころか、多少酔ってるのかも、ってくらいのも何回かしか見たことねえよ」
「それより本当に何も食べない? 俺食べてもいいかなあ。腹減った」
「好きにすれば」
 レイは店の人間を呼ぶと、料理を注文して酒の瓶を片付けさせた。すっかりきれいになったテーブルの向こうで岸に打ち上げられた魚みたいになっている仕入屋は、よく見なければ息をしているのも分からないくらい動かない。口が開いていたら絶対に涎が垂れると思うのだが、お行儀よく閉じているのが憎たらしかった。
 哲が黙って煙草を吸い終わり、レイが新しい受け付けのお姉ちゃんがどうしたとか一通り話し終えた頃、アドボとシニガンとかいう料理、そして新しいビールが運ばれてきた。レイは「いただきます」と頭を下げ、両手を合わせて食い始めた。
「で、俺はどうすりゃいいの」
「とりあえずさ、一人で飯食うの寂しいから付き合ってよ。ビールもっと飲む?」
「要らねえ。付き合うのはいいけど、これをどうしろって?」
 アドボ、というのは鶏の煮込みらしい。同じ皿に盛られた飯と一緒に肉をもぐもぐやりながら、レイはやや身体を斜めにして哲の方を向いた。皿を持ってスプーンを握ったレイは子供っぽく見える。
「持って帰ってほしいなーって」
「何で俺だよ……あんたが持って帰れば」
「そんな心の底から嫌がらなくたっていいと思うけど」
 哲の気持ちはしっかりレイに届いたようだが、だからと言って許されるわけではないらしい。
「でも俺だって嫌だもん。アキだって俺に送られたくないと思う」
「分かんねえだろ、そんなの。俺が送るのだって勘弁と思ってっかも」
「いやあ、ないと思うよ」
「何で。別にこいつと仲良しってわけじゃねえんだけど、俺」
「それは見たら分かります」
「だったら俺でもあんたでも一緒じゃねえか」
 レイの視線が哲の銜えた煙草から、握り潰したパッケージに移った。そういえば、この男は喫煙しないんだった、と今更ながら思い出す。テーブルの上に置かれた灰皿の中の吸殻は、哲が吸った一本以外はすべて秋野が普段吸っている銘柄だ。
 普通は同席者には煙草を吸っていいか訊くのだが、秋野をお持ち帰りさせられるというのなら、煙草くらい我慢してもらいたい。
 半分近く食ったアドボの皿をテーブルに置き、レイはビールのグラスを持ち上げて、ここは禁煙じゃないもんねと諦めたように呟いた。