仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 7

 チハルが振り下ろした刃先は、哲の手を掠めるようにして床に突き立ち、弾き飛んで秋野の足元まで滑って来た。靴底で踏みつけて止め、拾い上げる。血液が付着したタイガーストライプの刃に、天井の蛍光灯が反射した。
 床に手をついていた哲が、ゆっくりと身体を起こし、尻を床につけて小さく息を吐いた。頬が切れて結構な量の血が流れ、酷い有様だ。だが、大事に至るほどの傷とは言えない。
 秋野に最初に見えたのは、ナイフをかざしたチハルの背中だった。その向こうに見える哲は、チハルの顔から目を逸らさず、刃先には目もくれなかったように思う。
 チハルが哲の手を傷つけなかった理由は手元が狂っただけなのか、そうでないのか。
 四つん這いになったチハルは、三年前は短髪だった髪を今は長めに伸ばしている。俯けたチハルの顔を前髪が覆い隠していた。
 近付く秋野の足音に、チハルの肩がびくりと揺れる。それでも、チハルの姿勢は変わらなかった。
「アンヘルか。あの親父……お前にこんなもの売りつけて、どうにもならんな」
「どうして……」
「SOGのトライデントを六十本。この間頼まれたばかりだ。ブラックチタンコートを四十、タイガーストライプを二十。天使なんて名前が聞いて呆れる」
 聞いているのかいないのか、チハルは顔を上げないままだった。秋野は床に点々と滴った哲の血を見つけ、血の跡を辿って哲の身体に視線を移すが、赤いシャツが保護色になり血の跡を見失った。
 汚れた頬が、秋野の視線に気付いて歪められた。寒さのせいか、何も口にしていないせいか、青ざめ心なしかやつれた顔は飢えた動物のように鋭いが、怯えや弱気はその欠片すら見出せない。自身の大事な右手に他人が持ったナイフを突きつけていた錠前屋は、心なしかしわがれた声で一言呟いた。
「煙草くれ」
「後にしろ」
「今吸いてえんだよ」
 文句を言う哲の腹の上に煙草とライターを放り投げ、秋野はチハルに目をやった。
「チハル」
「…………そうやって、お前はいつも俺を見下ろすんだ」
 チハルの呟きに纏わりつくように、哲が吐き出した煙がたゆたう。
「お前を見下ろしたことなんかないよ」
「嘘だ」
「チハル」
「畜生!!」
 拳が床を思い切り叩く。相変わらず顔を上げないチハルの背中から、秋野を拒絶する何かが立ち上るのが見える気がした。
 フリオの言うとおり、帰属する場所を持たないと思い込んだ悲しみがチハルを捻じ曲げてしまったのか、そうではなくてこれは生来のものなのか。見下ろされてなどいないのに、拒否されてなどいないのに、周囲が自分を排斥しようとしていると頑なに信じるチハルはどこか哀れで痛々しかった。
「ここに俺を呼びつけて、どうするつもりだった。こいつに刃物突きつけて、それで俺がお前に薬を売ると思ったのか」
「——……」
 秋野の問いに、チハルは何も答えようとしなかった。
 哲を縛めようとしていたのだろう、床にはチェーンロックが置かれたままだ。動けない哲を人質にしたとしても、秋野と一対一でどうするつもりだったのか、と疑問に思う。暴力で秋野に勝てないことを、チハルはよく分かっている。一体何をどうする気でこんなことをしたのか、秋野にはどうしても読めなかった。
「——返せ」
 掠れた声で言いながら、チハルがゆっくりと身体を起こす。
 チハルの顔は昔と変わっていなかった。綺麗に整った面立ちにどこに向けていいか分からない苛立ちを一杯に浮かべ、秋野を睨み上げている。視線は刺々しいが強くはなかった。
「返せよ、アキ」
「……返すさ、お前のだ」
 放り投げたナイフを受け取ったチハルの動きは速かった。瞬間的に反応して仰け反った哲の顔の辺りから血が飛んで、煙草が床に転がった。チハルが突き出したナイフの先が哲の顎を切ったのだ。勢いで前につんのめったチハルは床に両手をついた。
 哲が腹筋だけで跳ね起きたのと、秋野がチハルの襟首を掴んで引き摺り倒したのとは同時だった。ナイフがチハルの手から滑り落ち、刃と柄の結合部を支点に床の上で回転する。
「離せ!!」
「チハル、お前今更何やって——」
 もがき、予想外の力で秋野の手を振り払いながら立ち上がったチハルは、そのまま哲に殴りかかった。
 哲に避けられ、勢いが付いたチハルはたたらを踏んだ。よろめいたチハルと哲がもつれるように床に倒れる。身体を支えようと咄嗟に前に出たチハルの右腕に哲の手が伸び、袖を思い切り引っ張った。右腕と肩を固定するように回された左脚と、チハルの頭を引き寄せるようにした右脚が絡んでチハルを絞めつけた。
「…………!!」
「いいんじゃねえ。そうでなくっちゃな」
 哲はチハルの腕を更に引き寄せ、そう言った。逃れようと身体を捩るチハルは、絞められているせいか声が出せないようで、掠れた細い息を苦しげに吐く。
 秋野は、哲の顔に目をやった。哲は血に濡れた頬を歪め、禍々しい笑みをチハルに向ける。チハルに哲の顔は見えていない。見えていないはずなのに、チハルは苛立ったように激しくもがいた。
「あんた、自分自身に縋るのも止せよ。振り払って、前に進め」
 哲の台詞がチハルに届いていたかは分からない。がくり、とチハルの身体が力を失う。落ちたのだろう、哲が脚を緩めるとチハルの身体はゆっくり横倒しになって床に転がった。
「あ——、流石にきっついぜ。立ち技は無理。腹減った」
 お手本のような三角絞めを決めた哲は大きく息をつき、そのまま仰向けに寝転がる。秋野は足元に伸びた二人の男を跨ぎ越し、ナイフを拾って折り畳んだ。

 

 倉庫の持ち主はよほど焦ったのか息を荒げ、且つ済まなそうな顔をして驚くほど早く現れた。ポーズなのかそうでないのかは分からない。男はぐったりしたチハルを見て誰かに電話をかけていた。
 秋野とも顔見知りのその男は、チハルがこの辺りから消える直前まで一緒に何かしら悪さをしていた相手だった。仲がいいというのとも違う、完全にビジネスパートナーという関係だったようだが、そのせいもあってか、些細なことで散々揉めて喧嘩別れになったと聞いた。
 数年前の仕事の情報をチハルに握られ、数日前、現れたチハルにここを貸せと強引に迫られたらしかった。実際のところ強請りのネタにするには古すぎる情報だったらしいが、それを指摘しまた揉めるのも面倒だと思ったという。こんなことに使うなんて、と嘆いてみせたのが誰のためか知らないが、男を詰ったところで秋野には何の益もなかった。後始末を頼むのもどうかと思ったが、ここは男の持ち物だし、詫びのつもりか、彼は二つ返事でチハルを引き受けた。
 チハルには迷惑もかけられたが、世話にもなった。困った奴だ。男は溜息を吐いてそう呟き、現れた別の男と二人がかりでチハルを運び出し、去っていった。
 後にはだだっ広く寒々しい空間と、秋野と哲だけが残された。数日前、この場所で解錠を済ませたときとまったく同じ状況に、時間が遡ったように錯覚する。元は真っ白だったに違いないが今では薄汚れた壁と、天井を走る太いパイプに梁。装飾が一切ない倉庫は相変わらずの素っ気無さで、底冷えする夜に長居したい場所ではなかった。
 秋野は、三本目の煙草を銜えたままの哲の前にしゃがみこんだ。血が固まり始めて酷い顔だ。頬の半分が血で赤茶に染まり、顎は剃刀で切ったようでみっともない。掌で汚れた頬を包むように触れると、哲の眉間に見事な縦皺が二本出来た。
「触んな」
「意外だな」
「ぁあ? 何がよ」
 煙草の先を揺らしながら、哲は下品に問い返した。
「お前がチハルに拉致されるなんて、意外だって」
「ああ、あいつじゃねえよ」
 顔を振って手を避け、哲は煙を秋野の顔に向けて吐き出す。もろに煙を吸い込んで、秋野は思わず咳き込んだ。
「煙い」
「っせえな、てめえのせいで俺は二晩損してんだ。そのくらい耐えろっつーの」
「チハルでなきゃ誰だって」
「知らねえよ。でっけえおっさん。日本人じゃねえと思う。お前よりでかかった。気がついたら背後に立ってて、いきなりバチン! だ」
「バチンって何だ」
「スタンガンじゃねえかな。気がついたらここにいた」
「でかいって、痩せてて、髭面に長髪の親父か」
 哲は頷いて煙草を吸いつけ、今度は顔を傾けて天井に向けて煙を吐いた。
 動物並みに気配に敏感な哲を簡単に失神させた男には心当たりがあった。金を積まれて哲を攫う役を引き受けたくせに、チハルにナイフまで売りつける。あの男の辞書に、道義とか何とかいう言葉はひとつも載っていないのだ。
 所謂民間軍事会社に所属していたアンヘルが何故日本で気儘な生活を送っているのか詳しいことは知らないが、秋野より十歳年上のこの男がろくでもないということだけは知っている。チハルは知らないだろうが、秋野に人の殺し方を鼻歌交じりで教授したのはアンヘルだった。まともに習った若かりし自分も今思えばどうかと思うが、今更悔いても仕方がない。
「……そりゃ、仕方ない」
 秋野の嘆息に片方の眉を上げ、哲は怪訝そうな顔をした。
「知り合いか」
「そんなようなもんだ」
「お前の知り合いにはろくなのがいねえな」
 俺も含めて、と付け足して立ち上がりかけた哲の肩を押さえてその場に留め、秋野は哲の煙草を奪い取って自分で銜えた。
「ちょっと待て」
「何だよ」
「お前、チハルに自分の指切らせようとしてなかったか」
 秋野の携帯がポケットの中で震え始めた。一瞬そちらに気を取られた隙に哲が秋野の手を押し退けて立ち上がった。虫の羽音のように癇に障るそれを意識から追い払いつつ、哲に向かって声をかけ、立ち上がって後を追う。
「哲」
 チハルは哲に、水と少量のシリアルバーは与えたらしい。それでも丸二日殆ど食べていないせいか、振り返った哲の顔はげっそりして見えた。
「みっともねえよな。お前に構って欲しくて駄々こねてるだけだ、あの男」
 秋野は思わずその場に立ち止まった。身体ごとこちらに向き直った哲の背景に、華やかさも捻りもない鼠色に塗られた鉄扉が見えている。色の沈んだこの空間に、哲の削げた頬に踊る血の跡が彩りを添えていた。
 フリオと同じことを言う哲は大人なのか、悟っているのか、それとも第三者の立場でしかないのか。どれも合っているようで、どれも間違っている気がする。
「みっともねえけど、俺は別に嫌いじゃねえ。進んで係わり合いになりたいとは思えねえけど」
「……俺は、チハルは好きじゃない」
「それはお前の自由だろ。誰にでも手を差し伸べる義務なんかねえよ。縋ってくる奴みんな片っ端から助けてりゃお前、助けるほうだって沈むだろうが」
「話を逸らすなよ」
 秋野が言うと、哲は頬を歪めてちょっと笑った。笑うと傷が引き攣るのか、眉が寄せられ何かを罵るようなことを呟く。
「指は大事にしろって、前にも言ったろ」
「お前がこれだけ大事にしてりゃ、俺が粗末にしても釣りがくる。それに、あそこで切り落とす根性があいつにありゃ、こんなことになってねえだろ」
 あっさり言って、哲は秋野に背を向けた。チハルに拘束されるときに脱がされたままだったのだろう、床に置かれた薄手のコートを拾い上げ、その脇に落ちていた携帯も拾い上げる。哲はコートを羽織り、ゆっくりと鉄扉を押し開いた。
 吹き込む風に哲の髪が乱された。血に汚れた顔をしかめ、寒いな、と呟く哲はいつもと何一つ変わらぬ顔で振り返る。
「いつまで突っ立ってんだお前。腹減って死ぬぞ俺は」
 ドアを潜った哲の後に続いて倉庫を出た。照明を落とすのも施錠するのも、持ち主が戻ってやるだろう。数日前も歩いた道を辿りかける哲に追い着き、肘を掴んだ。暗がりではよく分からないが、血塗れの哲が繁華街を歩けば通報されてもおかしくない。
「その顔で飯なんか食いに行けんだろう、馬鹿」
「そんな酷えか」
「輪島さん、起きてるかな」
 携帯を取り出すと、哲は露骨に面倒くさそうな顔をした。先ほどの着信を確認し、後で掛け直す事にして輪島を呼び出す。それ程深くはない傷だが頬だから、笑うたびにぱっくり開けば治りも遅くなるかもしれないし、見ているほうにも迷惑だ。哲の肘を掴んだまま輪島と話し終え、通話を終えて哲の顔に目をやった。
「先に輪島さんのとこに寄るぞ。その後なら何でも食わせてやるから」
「面倒くせえなあ」
「バイト先には、風邪で高熱出して寝込んでるって言ってあるからな」
「あー……、よろけて階段から落ちたことにするわ」
 溜息を吐き、秋野の手を振り払った哲はポケットに手を突っ込んで一歩下がった。
 何とはなしに、青いダウンの若い男の顔が浮かんだ。チハルは秋野に、あの男は薬に縋って、助けて欲しいと悲鳴を上げているのだろうか。それが正しいとか正しくないとか、そんなことは知らないが、どちらの悲鳴も聞こえない己の鈍さをふと思った。助けてやれるか否かではなく、助ける気のない自分の胸の奥底を。
 哲が怪訝そうな顔をして眉を寄せ、秋野を見上げた。手を伸ばし、もう一度肘を掴む。哲は眉間に皺を寄せたが、手を振り払うことはしなかった。
 コートの上から握り締めて骨っぽい感触を確かめる。口が裂けても華奢とは言えない硬い骨と、筋肉の手触り。布地を何枚も間に挟み、体温までは感じられない。風に乱れた髪を片手でかき上げ、秋野に肘を掴まれたまま、哲は暫くそのまま立っていた。
 秋野がゆっくり指を緩めると、哲の腕がするりと抜けていく。慌てて逃げたというのとは違う、ただ秋野が力を抜いたから自然に離れただけだという自然さだった。
「何だよ」
「いや——」
「変な奴」
 肩を竦め、哲は思い出したように手の甲で頬を拭う。まだ乾ききらない血が哲の手に擦られてよれた。
 何という思いもなく、ただ引き寄せられるままに間を詰めて、哲の頭を片手で抱いた。
 心配だったとか何だとか、思ってもいないから口には出せない。秋野が来なければいずれ自力で逃げただろう哲に自分という存在がそもそも必要ないのは分かりきっていて、今更確かめる気にもなれない。迷惑をかけたという後ろめたさが手指を大事にしない哲への怒りを押さえ込み、却ってどうしていいか分からなかった。
 哲の冷え切った額と髪の毛が、頬に当たって冷たかった。秋野は、利香の小さくてやわらかい手を思い出した。利香の掌と対照的な冷たさは、冬の風の冷たさに酷く似ている。
「ひっついてんじゃねえよ、鬱陶しい」
 そう言いながら哲が大人しくしているのは、多分疲労のせいだろう。
「俺が本気でお前に縋ったら、お前、俺を助けてくれるのか」
 冷たく、青ざめた頬。
ダウンの青年よりも遥かに強く、唇を噛み締めて立っていた華奢な女性の額を思い出す。溺れかけ、哲に束の間の慰めを求めながらそれでもついに縋らなかった。彼女の青ざめた頬がダウンの青と重なって脳裏に浮かんだ。
 間髪入れず返された答えは意外なもので、秋野は思わず我が耳を疑った。だが、哲らしいといえば哲らしい、そう思い直して小さく息を吐き、哲の頭に額を押し当てる。
 利香を抱き締めたときに胸に満ちる温かい何か。この少女のためになら、何でもしてやりたいと痛切に願う。例え、わが身が傷ついても守りたいと心底願う。利香とはあまりに違う抱き心地の哲が、しかしそれほど大事な利香より誰より、自分を生に繋ぎとめる重石になっているのだというその事実が衝撃だった。
 携帯がポケットの中で振動し始める。哲が身じろぎしたが、抱き締める右腕に力を籠めて引き寄せた。
 右腕一本、抱き締めるならそのくらいが丁度いい、とふと思う。両腕で守るには、手の中のこの男は強くて、そして凶暴すぎる。

 

 何でもしてやる。
 哲が口にしたその答えは、チハルが俺に求めたものなのだろうか。
 それとも、本当は、チハルが欲しいのは救済ではなく叱咤なのか。
 今は上っ面だけ縋り付く秋野の右手を振り払って、腕の中の錠前屋は、口元を歪ませた。