仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 6

 子供に、出会いという概念などない。周囲の子供は気付けばみな回りにいた。彼らと初めて会ったのが赤ん坊の頃であろうが違おうが、当時の自分にとってそんなことに意味はなかった。
 千晴にしてみれば、小学校に上がる前、あの頃が一番幸せだったような気さえする。他人に話せば驚かれるか笑われるかだから言いはしないが、今でもよくそう思う。
 父親は日本人だが、母の同郷人が集まるところへよくやってきた。元々フィリピンパブが大好きだったという父は、母ともそこで出会った。フィリピーナは情が厚く、献身的なのだそうだ。それが真実かどうか知りはしないが、そのせいか、父はフィリピン人が好きだと公言し、彼なりに言葉を覚え、母の周囲にも好かれていたと聞く。
 それが、千晴が学校に上がって以来、突然あの辺りに近寄らなくなったのは何故なのか。訊いても答えないから諦めた。だが、千晴は学生時代も度々あの辺りに出かけていっては親と揉め、その苛立ちをぶつけるように友人とも揉めた。
 日本人社会、日本の中の外国人社会。どちらも、千晴を排斥しようとしているのだ。
「なあ、あんた、あいつと知り合ってどれくらいだ?」
 目の前の椅子に座った男は、ここに連れてきたときからほぼ同じ姿勢を保っていた。
 何時間かに一回、用を足したいと言う以外、何も喋らずただ座っている。数時間前、煙草を吸わせてくれと言ったのが、最後に発した言葉ではなかったか。
 錠前屋、苗字はササキというその男は、千晴と同年代か、その前後だろう。レイが秋野の仕事仲間だと言っていた。女の一人でも攫ってやりたいと思っていたのに、仕事仲間では余りに違う。それでも地道に秋野の交友関係を調べるのは億劫だったし、レイの話ではかなり親しいということだ。それにしては秋野の反応は淡白に過ぎた気もしたが、男同士の親しさなどその程度なのかも知れなかった。
「なあ」
 こちらをちらりと見ただけで、錠前屋は何も答えない。後ろに回させた手首は、手錠で拘束してある。どこかの誰かが制服警官から盗んだとか言う物で、本物だ。逃げられないと諦めているせいなのか、それともそう見えるだけか、余りに平静なその態度には何となく調子が狂う。
 千晴は錠前屋の正面に移動して、床に直接腰を下ろす。ジーンズの腰に挟んだフォールディングナイフの柄が床に当たって硬質な音を立てた。騒いだら喉元に突きつけて脅すくらいはしようと思い知人に売ってもらったが、予想に反して大人しい錠前屋に対し、使う必要は生じていない。
 千晴の動きなど目に入っていないのか、錠前屋は宙の一点を見つめたまま、どうでもよさそうな顔をしている。千晴はその顔を見ながら再度、口を開いた。
「ササキさん。いいだろ、そのくらい教えてくれても」
「多分二年くらい」
 あっさりと返された答えに些か拍子抜けしつつ、千晴は煙草の箱をポケットから引っ張り出す。
「そうか。へえ」
 がらんどうの倉庫は、声が響いた。かつての知人に借りた倉庫は、何が収められていたか窺わせるものが何もなく、ただただ広く、無機質だった。千晴がここいらに居た頃は、大きな声では言えないものが山積みになっていた。その頃集めた情報を大事に持っていたのが役立って、仲違いした知人を半ば脅してここを借りることが出来たのだ。ここは繁華街のすぐ傍にあるくせに、喧騒からは酷く遠い。時折風がシャッターを揺らすが、それだけだ。
「何も訊かねえのな、あんた。俺がアキの何だとか、どうして自分を攫ったのか、とかよ」
「訊いたら答えるのか」
「隠すことじゃねえもん、答えるぜ」
「……あのクソ野郎が誰に恨まれてようと、興味ねえ」
 錠前屋は言い、小さく肩を竦める。その言い方は本当に興味がないとしか思えない素っ気無さだ。千晴が吐き出した煙が顔にかかるのか、錠前屋はゆっくりと顔を背けた。
 秋野が親しくしている仕事仲間の連絡先を教える、とレイは言った。そんなもの役に立たないと言う千晴に、レイは痛みに青くなった顔で違う、本当に親しいんだと言い張った。あの状況で嘘を言うほど、レイは肝が据わってはいないだろう。
 しかし、実際に錠前屋の態度を目にすると、どうもその辺りはレイの勘違いとしか思えない。まるで焦る様子もなかった秋野の電話の声を併せて思い出し、千晴は大きく溜息を吐いた。
「人選誤ったんじゃねえか、あの野郎」
 ここにはいないレイに文句を垂れつつ、床で煙草を捻り潰す。そのまま手を伸ばし、無造作に置いてあった量販店のビニール袋を開けて中身を取り出した。
「俺はさぁ、見た目じゃ分かんないかも知れねえけど、アキと同じでさ、母親がフィリピンなんだよ」
 太い自転車用のチェーンロックのパッケージの台紙を破る。これから秋野がここに来る。二対一では話にならないから、錠前屋には大人しく座っていてもらわなければならないだろう。
 錠前屋というからにはもしかしたらこんなものは簡単に開けられるのかもしれないが、手が拘束されていればそれも出来ないはずだ。錠前屋は千晴が何をいじっているのかを見ることもせず、相変わらず壁を見つめていた。
「アキは昔からすかした野郎で、虫が好かねえんだ。あんな仕事してるくせに、いい子ぶりやがって。薬の仕入を頼んだら、それは出来ないの一点張りでよ。あんた、知ってるんだろ? あいつは人を殺してるんだぜ。それも一人じゃねえ。そんな野郎が人には薬は駄目だなんて、よく言うぜ」
 一本一本、ダイヤル部分を外して床に置く。三本のチェーンロックを床に並べ、千晴は手を止めた。
「気に入らねえんだよ、あの、何が起こっても一人だけ動じねえってところがよ。日本人でもフィリピン人でもねえって面で、俺たちを見下したみたいに。どっちの味方なんだか——誰の味方なんだか分かりゃしねえ」
「あんたは、薬をやんのか」
 錠前屋が、低く言う。顔を上げたら目が合った。これと言って感情の動きが感じられない平静な瞳が、真っ直ぐ千晴を見つめている。何故か居心地が悪くなってその目を睨み返し、千晴はチェーンを手にとって立ち上がった。
「やらねえよ。別に、高い金払ってまでやるもんじゃねえ」
「じゃあ何で扱うんだ」
「お前、馬鹿か? 世の中見てみろ、ラーメン屋は毎日三食ラーメン食ってんのか? 関係ねえだろうが」
「じゃあ金か」
「当たり前だろ」
「何に使う?」
「どうだっていいだろ、うるせえ野郎だな」
「どうだっていいけどよ」
 冷静な声にどうにも苛立ち、舌打ちする。床を踏みしめる自分の足音にさえ神経を逆撫でされた。通り過ぎる車が何かに鳴らすクラクションの音に驚き、驚いた自分にまた苛立った。
「——何が言いたいんだよ、お前」
「別に。ただ、あんたが薬に拘る理由が分かんねえと思って」
「だから——」
「薬がどうとか、言い訳じゃねえのか。あいつに構って欲しいなら素直にそう言やいいじゃねえか」
「うるせえ、黙れ!!」
 かっとなって振り上げた拳を何かが払った。錠前屋が振り上げた足の先が当たったのだと気付いた時にはそれが千晴の首元に伸びていた。
「……っ!?」
 首筋を蹴られて思わずよろけた。錠前屋の脚が絡みつき、千晴を引き摺る。気がついたら床に背をつけた錠前屋の脚が千晴の首を絞めていた。
「——……!!」
 左足の膝裏が千晴の首を引き寄せ、顎の下に入った右の脛が頚動脈を圧迫している。手が使えないせいか、それとも落とす気がないのか。落ちそうで落ちない境界線があるとしたら、その上を歩かされているような息苦しさだ。
 先ほどまでの無表情を一転させ、錠前屋は笑っていた。歪んだ笑みはぞっとするほど迫力があり、胃を掴まれたような心地がする。千晴の靴底が床を擦り、空しく滑る。
「来ねえかも知れねえぞ」
 錠前屋は、低く凄味のある声で呟いた。がらりと変わった雰囲気に、先ほどまでの大人しげな男は一体誰だったのかとすら思う。首を圧迫する硬い脛がじわじわと喉元を締め上げていく恐怖に、千晴はその脚を引き剥がそうとジーンズ越しに爪を立てた。
「薄情だからな、あの男。俺が二、三日見えないくらいで気にしやしねえだろ。手ぇ潰すとでも言や——言ったのか」
 千晴の目を見ていた錠前屋はそう言って片眉を上げた。
「……ああ、じゃあ来るかも知んねえな。血相変えて」
 眉を顰めた錠前屋は、忌々しそうに舌打ちして低く呟く。間違っても嬉しくなさそうな言い方は、寧ろ秋野が来なければいいと言わんばかりだ。
 錠前屋の渋い赤とモノトーンのチェックのシャツに白い光点が浮かんで見えた。光の加減かと思ったが、そうではなくて、酸欠のせいか、目の中にちらつく何かなのだとすぐに気付く。細身のシャツに包まれた身体は千晴と大差ないほど痩せて見える。それなのに、脚の力は半端でなく強かった。
 絞まる喉をこじ開けるようにして咳き込むと、脚が緩んだ。わざと緩めたのかも知れないが、確かめている余裕はなかった。渾身の力をこめて脚を押し退け、床に額を押し付けて激しく咳き込む。目尻に涙が滲み、同じように何かが胸の内に滲んでいく。
 ジーンズの腰に挟んだナイフのことを思い出し、咳き込みながら引っ張り出す。普段使わない刃物だけに、一瞬ブレードロックをどうやって外したらいいか分からずにもたついた。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ。大人しく人質やってりゃいいんだ、お前は」
 上体を起こした錠前屋は、呻くようにそう言う千晴を見てゆっくり一度瞬きした。
 外気温の低下にあわせて、倉庫の中も肌寒くなっている。エアコンを一台動かしているが、広い空間だから暖まるというわけにはいかなかった。自分が吐き出す浅い息が白くなり、不思議な模様の入った刃を曇らせた。十センチほどの長さしかない刃は、しかしやけに不吉に光って見えた。錠前屋の頬に当て、力を入れる。錠前屋の頬に血の珠が浮き上がる。朝露に濡れた蜘蛛の糸に酷似した、しかし物騒な赤い色。
 自分の手が震え始めたのが分かったが、震えは止まらず徐々に大きくなった。
「おいおい、そんなんじゃ脅しにもなんねえぞ」
「てめえ、それ以上減らず口叩きやがると本当に顔に傷が残るぞ」
「顔なんかじゃあの野郎は眉ひとつ動かさねえって」
「黙れって言って」
「やるなら言葉通り指くらい切り落としてみろっつってんだよ!」
 錠前屋の一喝に、千晴の心臓がひとつ跳ねて一瞬止まる。思わず手に力が入り、ナイフの刃が千晴の意思とは無関係に更に強く押し当てられた。傷から滲んで流れた赤い血が、錠前屋の形相をより一層凶悪に見せていた。
「何言ってやがんだお前……」
「その程度で、あの馬鹿を煩わすな。どうせなら形振り構うな」
 低く、地を這うような声に背筋が粟立った。それだけではない、腹の底からせり上がり、喉に絡む粘つく感情に目の前が赤くなる。
「余計な……余計なお世話だっ」
 頭に血が上って視界が一瞬薄暗くなる。彩度が下がった世界の中で縞模様の刃だけが浮き上がって残像を残す。薙いだ刃が錠前屋の頬を掠め、先ほど傷ついた部分から更に血が飛び散った。
 照明を落としたように暗く見える世界に閃く刃物の光と黒っぽい血液の影。
 早くここから抜け出したい。窒息しそうな圧迫感に、千晴は喉を鳴らして掠れた息を吐いた。
「縋るなら本気で縋れ!!」
 腹の底から吐き出された大音声に頭を殴られた錯覚に、千晴は膝立ちのままよろめいた。
 錠前屋という男の視線の峻烈さに、傷つけられたのは自分のほうではないかと錯覚さえする。頬を伝い、顎に流れる赤い血は、本当にこの男のものなのか。がちり、と錠前屋の手首の手錠が鳴る。床に落ちたそれが一体いつ外されたか、分からなかった。
「ほら、俺の指を切り落としてみろ。そうすりゃあの野郎は本気であんたに向かい合う。そのくらいのつもりで縋れ。そうでなきゃ、あんたの重みであいつもあんたも一緒に沈む」
 ゆっくりと身体を起こし、錠前屋は千晴の手ごとナイフを掴んで持ち上げた。
「そうなったらあいつはあんたの手を振り払って自分だけ助かるぜ。あれはそういう奴だって、知ってんだろ。それでいいのか」
 まるで血の通わないもののように、千晴の腕は錠前屋の引っ張るままに角度を変えた。刃先が、床に置かれた錠前屋の右手の甲に向けられる。手首を掴む錠前屋の手の冷たさに、現実感が、より薄らぐ。
「やるならさっさとやらねえか」
 錠前屋の瞳が千晴を抉るように鋭さを増し、千晴の腕を放して怒鳴りつけた。
「やれっつってんだろうが!!」
「哲!」
 重なった声が誰のものか考える暇もなく、千晴は腕を振り下ろした。